もしも、とか。万が一、とか。そういったことを考える時間というのは決まって夜遅く。ベッドに入ってから考えるものだ。少なくとも、トリッシュの場合は。

 このところ専ら考えることはブチャラティその人のことばかりで、不毛な深夜が続いている。もしも、ブチャラティが今ここに居たら。万が一、どこかで生きていたとしたら。それにトリッシュは救われるかどうかはわからなかったけれど、もう一度彼の声がしたのなら、その胸で泣きはらしてしまいたいくらいにはどうにかなりそうだった。

 恋をしていた。他のどの少女が経験するよりも刺激的で、夢みたいな恋だった。気持ちの折り合いは、まだつけられないでいる。

 何度となく彼の墓標へ花を手向けたし、その度に「じゃあね」を言うのだけれど、本当のところトリッシュのさよならは一度だって成功してやいなかった。

 今宵もまたトリッシュは彼を思い出しながら、ベッドに潜りこんだ。

 ゆっくりと寝がえりを打てば、シェルフにのっているフォトフレームが見える。ジョルノに頼んで用意してもらった一枚だった。写真の中での彼はむずかしい顔をしているようにも見えたし、ぼーっとしているようにも見える。

 ジョルノに「ブチャラティの写真があれば、欲しいの」と言ったのはいいものの、パッショーネに残った彼の写真の数は決して多いといえる枚数ではなかった。それに、トリッシュと出会った後の写真などはひとつだってない。察して、申し訳なさそうに封筒を手渡したジョルノに「ありがとう」と返して。期待はしていなかったのだけれど、やっぱり無かったよ、という事実はトリッシュを鋭く刺した。

 こんなことになるならば、彼へ向かって自分がシャッターを切ればよかったなと思う。そうしたらあんな固い顔をしたのでなくて、きっと優しく微笑んでくれただろうに。トリッシュの覚えているブチャラティは、結局自分自身の記憶にしか残ってはいなかった。

 忘れることはないだろうけれど、形として残っていないというのはなんとも寂しい気がする。

 もしどこかで生きていれば、また彼は自分を探してくれるだろうか。待たせて悪かったと言うだろうか。そんなことがあれば、一言「馬鹿」とくれてやったあとにこの腕でめいっぱい抱きしめられるのに。

 トリッシュの恋慕の情は、彼を失ってから一層大きくなった。もう二度と戻らない彼の影を探して街を歩いた日もある。覚えのある背格好に呼吸を止めて振り返ったことは何度もあった。その度に苦しむのだ。やめればいいのに、それができない。もしかしたら彼じゃあないかと思って、見て、違って、その度に胸が締め付けられて。

 彼を失ってしまったという事実をつきつけられて、泣いて。でもどうしようもなくて。どうして一人でさっさと死んでしまったのかと、彼を責めたこともある。

 亡くなったことを許していない者の夢には、故人は現れてくれないのだ、というのを聞いたことがあったが、どうやらあれは本当だったらしい。トリッシュの夢にブチャラティが姿を見せたことはないのだから。

「許しちゃいないわよ」

 胸の内に留めておけなくて、悪態をつく。トリッシュの言葉は静かな部屋にぽつんと浮いた。

 許していない。あんなに自分のことを気に掛けてくれていたくせに、自分がいざ死んでしまうときにはあっけなく死んでしまって。わけがわからなかった。理解ができないでいた。

 話していないことなんて山ほどある。好きな音楽や好きな色。ブチャラティはなにも知らなかったし、トリッシュ自身だってブチャラティのことはなにも知らない。好きな服装とか好きな食べ物とか。

 それから好みの女の子のことだとかも。

 彼が生きていれば、自分のことを好いてくれただろうか。全てが終わって、護衛対象ではなくなったとして。これからをともに生きていければ、こちらを振り向くようなことがあっただろうか。

 何度想像したって足りないしわからない。

 ジョルノたちがいるパッショーネへ出向くこともあるけれど、いつも寂しかった。足りていないのだ。彼が。いつかは居た筈の彼がどこにもいなくて、困惑しっぱなしだった。

 そんな自分を気遣うジョルノ達の優しさだって、かつては彼にも向けられていたものだと思うとどうしてか切ない。

 さよならさえ、満足にさせてもらえなかった。ありがとうも言えなかった。もしもとか、万が一だとか、考えて過ごすのにも限界がある。トリッシュの抱える悲しみはこれでもかと彼女を押しつぶす。

 せめて写真の中のブチャラティが、トリッシュの知る笑顔でいてくれたらいくらか気が紛れただろうか。

 トリッシュはおもたく息を吐いてから、写真に背を向けた。



 久しぶりに歩くネアポリスの風景はなんにも変ってやしなかった。ジョルノからの連絡でここへ呼びつけられたのは急なことにも今朝である。丁度仕事もオフだったのでトリッシュは二つ返事で了承し、今へ至る。

 トリッシュはサングラスの奥の瞳を左右へ揺らしながら、かつてブチャラティが身を賭して守ろうとしたネアポリスを見渡す。ボスのジョルノ曰く、最近になってようやく治安も安泰したとのことで。街の片隅で麻薬を売るような人間はとんと居なくなったと聞く。

 和やかに風が吹いて涼しい。どうしてだか懐かしいにおいがする風だった。彼も同じ風に吹かれただろうか。またトリッシュが街のすみにブチャラティの面影をさがしていたところに、車が横付けされる。運転席をみやれば、ハンドルを握っていたのはミスタだった。片手をあげて挨拶をしたので「ミスタ」と呼びかける。

「探したぜ、トリッシュ。乗れよ」
「ありがとう。久しぶりね」

 助手席へと乗り込むと、ほのかにコロンが香った。気がつけばミスタのスタンドが全員でトリッシュを眺めている。そちらへも「久しぶり」と声を掛ければ小さなスタンドたちは、途端に騒がしくみんなで「トリッシュ!」と叫ぶのだった。

 数ヵ月ぶりに入るパッショーネボスの執務室も変わりない。広いデスクの上には几帳面に書類がまとめられていて、線の細いデスクランプが乗っかっている。黒い電話。ジョルノの万年筆。

 ミスタはトリッシュを招き入れて、そのままソファへと腰掛けた。トリッシュもそれへならう。

「ジョルノは?」
「今日は出てんだ。ちゃんと言付かってるぜ」

 言いながらミスタはテーブルの上へ置いてあった小ぶりの紙袋をトリッシュのほうへ差し出した。「開けても?」と問えば、ミスタは頷く。

 持ちあげてみればやけに軽かった。口を開いて中身を取り出すと、一本の櫛だった。手に取って見てみる。真黒で細身だ。すらりと伸びた持ち手の部分には紫の石が埋め込まれており、窓からの光を受けてちかりと光る。

「これをどうして私に?」
「……それなァ、ブチャラティのもんだって」
「え」
「遺品の整理をしてたら出てきてよ。お前に持ってて貰おうって話になったんだ」

 ミスタがその後に語った、どうして自分がトリッシュへ手渡す役に充てられたのかだとかいう話は、トリッシュの耳にはひとつも入ってはこなかった。

 これが、彼の私物。だったもの。トリッシュは櫛というものを初めてみるかのような眼差しで、じっと見つめた。なんの変哲も無い櫛だったのが「ブチャラティの私物」だというのを聞いて、重みが増したように思う。

 彼の切り揃えられたまっくろな髪を思い出す。頭のてっぺんから丁寧に編み込まれていて、頬をなぞる横髪の艶やかなのはトリッシュのお気に入りだった。この櫛で、いつも髪を梳かしていたのだ。そう思えば、この櫛が何よりも大切なもののように思える。

 トリッシュはしっかりと握りこんだ。

「一応用件はそれだけなんだけど、これから暇ならジョルノ達が戻るまで――」

 それからミスタは困ったように眉を下げて、手元のティッシュ箱をトリッシュの前へ寄せる。トリッシュは黙って一枚引きあげて、震えるまま目元を覆った。

 どうして彼はもうこの櫛で自らの髪を梳かすことはないのだろうか。どうして彼はもうこの執務室へ足を踏み入れることはないのだろうか。どうして彼はただの一度だって、トリッシュの名を呼ぶことはないのだろうか。

 そんな思いばかりがトリッシュの胸を支配してしまう。溢れて止まらないのは涙になって、言いようのない辛さをはらはらと落とした。泣いたってどうしようもないのは分かってるし、もう何度泣いてしまったのかもわからない。いつまでもこうして泣きはらすのを知った彼はきっと悲しむだろうとも思った。

 彼の知るトリッシュという少女は、決して弱くはなかったのだから。

 そんなトリッシュの弱さすら、ブチャラティは知ることもなく世を去った。世界中の悲しみを詰め込んで混ぜ合わせたって、この深い寂しさには敵わない。

 ず、とトリッシュは鼻を鳴らす。

「わたし、彼の、たんじょ……ッ」

 誕生日を一度だって祝ったこともないのに、と、言えなかった。

 喉が焼けたように熱かったからだ。ずくずくと悲鳴をあげて、涙ばかりがばたばたと零れていく。

 サルディニアで、どんな風に祝おうかと考えた日もあった。何を贈れば喜んでくれるのだろうかと悩んだこともある。プレゼントとあわせて贈る言葉にも頭を悩ませたこともあった。おめでとうだけじゃ味気ないし、だからと言って凝ったことも言えない。考えたあげく、トリッシュは後回しにしたのだ。

 皆とネアポリスに戻ってから、考えようと。

 こんなことになるなら、あの時もっと悩んで答えを出してしまえばよかった。今ではもう考えられやしない。考えたところで、彼に伝える手段もない。不毛なことだった。

 恋をしていた。

 本で読んだのと同じように、二人の間にはめくるめくドラマがあるのだと思い込んでいた。お互いのために泣き笑いする未来が確かにあるのだと信じて疑わないでいた。

 それなのに、ページをめくる途中で指が止まった。めくったページよりも後ろが、無残にも破り捨てられていたからだ。

 なんにも、無くなっていた。そもそも続きなんてはじめから無かったのかもしれない。今となってはもう分からない。



 ミスタはトリッシュが泣きやむのを待とうかと考えて、やめた。

 執務室のドアへ「入室禁止」のプレートを下げ、彼女の泣きあげる声を聞きながらネアポリスの街路まで歩を進める。

「命だけかあ……」

 ぼやいて、ポケットへ手を突っ込んだ。

「心まで、しっかり守ってやれよ」

 どうしても、言わずには居られなれなかった。

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