カーテンをずらして外の様子を伺えば、今日は生憎の雨だった。窓ガラスを叩く雨音が次第に大きくなってきたような気がして、ジョルノは窓際から離れ、執務室の真ん中に置かれたふかふかのソファに腰を降ろす。朝から憂鬱な気分だ。じめじめしている。
隣のブチャラティは静かに新聞を広げていて、ジョルノがじっと見つめても彼の瞳はきまった速さで左右に行ったり来たりを繰り返していた。
何か彼の気を引くような記事でも載っているのだろうかと思いジョルノも紙面へ目をやるのだけれど、堅苦しい経済の記事よりも期間限定をうたうプリンの小さな広告写真の方が気になって仕方が無い。
「濃厚カラメル……とろーり、まろやか」
「お前ってやつは本当にコレには目が無いな」
白黒で刷られた新聞ではあるものの、どうしてもジョルノにはそのプリンの広告写真が色づいて輝いているようにしか思えなかった。目を奪われるというのはまさにこのこと。
販売期間はどうやら今日から一週間らしい。名のある菓子店のクレジットが広告の隅っこへ上品に印字されている。
新しいものはなんでも試してみる主義だ。ジョルノはそのプリンの写真を大げさに指さしつつ「これ」と呟く。ブチャラティがおかしそうに口元を緩ませていた。
「食べたいです」
「そうか。なら今日はオフにしちまって買いに出ようか」
一日くらい休んじまっても平気だろ。ブチャラティは悪戯に言ってから新聞を折りたたんでしまう。
真夏のおひさまみたいなプリンの写真は見えなくなってしまったが、ジョルノの瞼にはしっかりと焼き付いており、今にも風味まで感じられそうなくらいだった。
新鮮な卵を贅沢にたくさんつかって、宝石を削ったようにきらきらな砂糖もどっさり入っているんだろうなあ。スプーンをさしいれたときには控えめに震えて、ぐつぐつに煮詰めたカラメルも舌にやさしく苦く広がっていくんだ。
「みんなには内緒にしましょう」
「急な幹部会議に招集されたことにしようか。届けはオレが出しておこう」
やった。
ジョルノは内心飛び跳ねて喜んだ。ここのところ仕事以外で出掛けることもなければ、好物のプリンでさえもゆっくりと味わって食べる時間なんてなかった。
気がつけばスケジュールは埋まっていたし、少しでも休もうものなら次の仕事が後から後からやってくる。そしてそれが積み重なって溜まっていく。ジョルノの処理能力でもってしても、どうにもならない量にまで膨れ上がってしまった。
もちろん、サボっているわけではない。ただジョルノが仕事を一つこなせば二つ増え、二つこなせば四つ増えるといった具合だったので、もう手が回らない。
そんな時にもたらされる誘惑のなんと甘いことか。ブチャラティは誰より近くジョルノのそばに居て、誰よりジョルノを理解してくれている。だから今回もズル休みをしようなんて提案をして、ジョルノの苛立ちや焦燥感を拭ってくれようとしているのだ。
「でも困ったな。先週分の仕事はどうしても今日中にって思ってたんです」
「今日やったって明日やったって、そう変わりっこねえだろ」
もしかしたらフーゴやアバッキオ辺りが代わりに進めてくれるかもな。ブチャラティは見たこともないくらいに楽しげに言ってのける。少なくともジョルノにはそう見えた。
「決まりだ。オフにすんならお前のやりたいこと全部やっちまおう」
「ほんとですか? じゃあ、この雨やませてくださいよ」
「オレに出来る範囲のことで、って付け加えさせてもらってもいいかな? ボス」
ブチャラティはおかしそうにくつくつ笑いをした後で、手元の新聞をテーブルに放り投げてしまう。
で、どうする? と伺ってから今度はコーヒーの入ったカップを持ちあげて傾けていた。こくん、と音が聞こえて彼の喉が上下に動くのが見える。
ジョルノはもったいぶって「そうだなあ」なあんてぼやきつつも、ほんとうのところ既にいくつも候補は頭の中に浮かんでいるのだ。迷っているのは、やりたいことの内容ではなくてどれから言おうかなあ、というやつだった。
急かすようにブチャラティは靴のつま先でジョルノの靴をこんこんと突く。
「この間ミスタから……、いやナランチャだったかな? まあいいです。教えてもらったシャンパンがあるんですけど、それが飲みたいなあ」
「それから?」
「あんたと並んで映画ってのもいいですね。ここ何カ月も一本だって観ちゃいない」
「へえ。いいな。それから?」
「今日一日がオフってことなら、そのオフを二日に増やしてもらうとか」
ちらりと隣を盗み見れば、ブチャラティはやさしい顔をしたまんま「うん」と浅く頷いた。
「急な幹部会議の招集先はフランスって書き変えてやろう」
これには流石のジョルノもしたり顔。
ブチャラティに、次は次はと急きたてられるので、ジョルノはありったけのことを言ってみることにする。
ほんとうは彼に林檎を食べさせてみたいこと。書斎の本棚を買い足したいこと。花を種から育ててみたいこと。お菓子の家をつくってみたいこと。子ども染みたことばかりだけれど、ジョルノにとっては重要なことだった。
欠けてしまった穴を埋めたかった。どうして欠けてしまったのかとか、どうして穴が開いてしまったのかとか、そういうことは振り返らないことにして。
過去を思い出せば辛くなる。何気なく口に出たこの言葉にすらブチャラティは「忘れちまったっていい」と言うのだ。
ジョルノはただ漠然と「そうかあ」と思った。
「ブチャラティ」
「ん?」
「今日は雨だから、やっぱりでかけたくありません」
ソファの中で膝を抱えて丸まってみる。散々言ったあとになって言い出し辛くはあったけれど、やっぱりでかけたくなくなった。反故にする言葉は思ったよりも容易く唇から滑り出る。
「なら家に居ていい。お前が出掛けたくなるまで、外に出なくったっていいさ」
ジョルノを甘やかす言葉のどれもが、ジョルノの頭をふやかして、とろけさせていく。いいのか。ブチャラティがいいと言うのなら、いいのかもしれない。
嬉しくてたまらない。このままソファで夕方まで二人で眠ってしまいたい。どちらともなく目を覚まして「おはよう」を言う。それからまた寝なおして、夜に目が覚めてもまた「おはよう」だ。そんな休日だって悪くない。なにも悪くない。
許す彼は今まさに隣に居るし、強請ってもいないのに彼の広い手のひらが膝を抱えるジョルノの首元をやけにあまやかに撫でた。
「なあ、ジョルノ」
言いながらブチャラティがジョルノの耳の裏へ指を這わせてくる。不思議といやらしさはなかった。
このまま黙っていても、彼は自分の頭を撫でたりしてくれるだろうか。甘やかして、許して、包み込んで。そんな風にしてくれるだろうか。
「お前が少しでも辛いときはいくらでも休ませてやる」
「ええ」
「困ったことがあれば、すぐにオレに言え。なんでもしてやる」
ブチャラティの暖かい手がジョルノの頭の上に降りてきた。宥めるように、言い聞かせるように。ジョルノがしてほしいようにしてくれる。
「なにも言わなくったってなんでも分かる」
「そうみたいですね」
「オレはいつでもお前のそばにいるよ」
するとなぜだか言いようのない寂しさがジョルノを取り巻いて離さなくなった。
おだやかな言葉ひとつひとつに、確かな彼の優しさがあるのに。ジョルノの知っている柔らかな微笑みが目の前にあって、ジョルノの弱い部分をすべて包んでしまっているのに。
彼の背中の後ろのほうがどんどん黒ずんでいく。今にも真っ暗闇に着き落とされそうだ。
それがどうしたって恐ろしくて、ジョルノはとっさにブチャラティの腕を引っ掴む。
「なんだ?」
「それは約束ですか」
すると彼は何を今更、と鼻で笑ってから、いつものすまし顔を向けてくれた。「当然だろ」と言うブチャラティの輪郭がぼやけてしまいそうで、ジョルノは彼の腕を更に強く握り込んだ。
「あんたといくら約束を取り付けたって。全部嘘になってしまうのに」
眉を潜めて訝しむブチャラティが、こてんと首を傾ける。
「何言ってんだ。どこまで疲れてるんだ? お前」
「じゃあ簡単な約束です。明日の朝ぼくが起きて、誰より先におはようって言ってください」
いよいよブチャラティが腹を抱えて笑いだしてしまうので、ジョルノの手から彼の腕は離されてしまった。
なんだそりゃ、と言葉にしようとも上手く言葉に出来ないくらいに意表を突かれたのか、ブチャラティは結局ひとしきり笑い終えたあとに呼吸を整えつつ「あのなあ」となんとか口に出す。
「お安い御用だよ」
「……って、言ってほしいんだよな。ぼくは」
「おいおいジョルノ。聞こえなかったのか? オレはお安い御用、かしこまりましたと言ったんだぜ」
言った通りだった。そう言ってほしいだけだ。自分は。
ジョルノは、伸びて来たブチャラティの腕からすり抜けるようにしてソファから立ち上がった。分かってしまうからだ。彼は自分を抱きしめようをしたことが、分かってしまったからだった。
もう少しだけどわがままを言ったって多分彼は許すし、好きなだけ話していけばいいと言うのだろう。まったく都合よくできているものだ。
行き場を失った彼の手がだらりとぶらさがるようにして収められたのを見て、ジョルノが選んだのは決別だった。
「ぼくの知っているブチャラティは、こんな風にただ優しい人だけのじゃあなかった」
「たまには厳しくしてみせようか」
「出来ないことを出来ると言わない人だった。お前となら出来るかもって、言う人だった」
ソファに腰掛けたままのブチャラティをしっかりと見つめつつ、ジョルノは確かめるように続ける。
それでも尚食い下がり続ける彼の執念に心が折れそうになるが、やめなかった。
「すべてを背負う人だった。責任感の強い人だった。そんなあの人が、ぼくに託したんじゃあないか」
あとはまかせたぞ。そう言った彼の声を忘れることは、誓ってもうない。寂しさや悲しみに背を向けて、蓋をして。無様な欲だけで彼の優しさを追ってはならない。
「嘘はきらいでしょう」
「好きだよ」
「だからあなたは違うんです」
こんなに目覚めが悪い朝は初めてだった。ぬくまった毛布に身を包んで、シーツの上で丸くなる。
自分勝手な夢を見てしまった。ジョルノはなかなか起き上がる気になれなくて、毛布で頭まで被ってくっついたままの瞼に今まで見ていた夢の像を映す。
己の中にまだ偽物が巣食っているようで気分が悪く、いっそもう一度眠ってしまいたかった。
しかし偽物が居着いてしまったのは、ジョルノ自身の弱さに他ならない。故人に縋って、もしも生きていたらだなんて考えたって。全て虚しいかたちで自分に返ってくるのに。
そんな風に考えてしまう日もあると誰だかも言っていたような、テレビで言っていたような本で読んだような。ならばその日が今日だっただけのこと。そう言いわけをしたジョルノは、毛布に潜ったままようやく目を開けた。
ほんとうの彼は、ネアポリスやイタリア、世界中のどこにも。ジョルノの中にだっていない。
「おはようございます。ブチャラティ」
こんな、何気ない朝の挨拶ひとつでさえも、彼と交わすことは二度とない。