雨でも降っていればそれなりに雰囲気のひとつもあっただろうに、とフーゴは彩度の高い青空を仰ぎ見た。雲もなく、のびやかに広がる空は実に晴れ晴れとしている。遠くで鳥が二度鳴いたのを聴いた。

 真黒なスーツを着て、固い革靴を履いて。ネアポリスの町を歩く。朝の空気はスッキリと澄んでいて、心地が良い。ふと、ブティックのショーウィンドウが目に入る。ひらひらしたのや、ふわふわしたの。どれもがパステルカラーで彩られており、まるで夢の世界だ。フーゴは足を止めてショーウィンドウに映った自分を眺め、さっと前髪を整える。

「あら、フーゴ」

 背中から声が掛ったので振り返ると、腰を曲げた初老の婦人が柔らかな面持ちで立っていた。フーゴは視線を合わせるために、浅く屈む。

「シニョーラ、どうしました?」
「いいええ、久しぶりに貴方を見たものだからつい声を掛けてしまったわ」

 ごめんなさいね、と手を口に添えて控えめに笑うので、フーゴの方まで頬がゆるんでしまう。すると夫人は「そうだ」と付け加えて。

「今日はなんだか大人な装いねえ」
「……ええ。私用なんですがね」
「似合ってるわよ。気を付けて行ってらっしゃい」

 すると婦人はにこやかにほほ笑んで、ゆっくりとフーゴに背を向けた。フーゴは、婦人がそのまま向かいのマーケットに入っていくのを、なんとなくぼんやり見てしまっていた。

 こうやって町中で声を掛けられるたびに思い出す男が居る。かのブローノ・ブチャラティだった。彼は実に人望が厚く、住民に好かれていた。ひとたび昼食をとりにリストランテへ入れば「昼飯かい?」と強面の男から声が掛ったし、夜の街へ飲みに出歩けば「一緒にどう?」と目もとの涼しい女性から誘われていた。

 それに比べれば、フーゴ自身はまだまだだなあと思わずにはいられない。彼が以前そうしていたようにしてみせれば、少しでも彼に近づくことができるだろうか。

 彼と同じになりたいと考えているわけではない。けれど、フーゴにとってのギャングの憧れやお手本はブチャラティという存在そのものだった。彼の言う事はいつだって自分達を成功に導いていたし、彼のする事はいつだって正しかった。

 それなのに自分は一度だけ、たった一度だけ彼の正しさを疑ってしまった。だから今、こうして生きたまんま、ジョルノというボスの元で暮らしている。やっぱり、ギャングとして。

 間違っているとか、そうじゃないだとか。そういった葛藤はもう飽きるくらいにした。そしてジョルノもいつだったか「君がパッショーネに生きてくれることが、いいんだ。許すとか、もうそんなんじゃない。貴方だって分かっている筈ですよ」と言った。

 形式的には「許された」方に分類されたフーゴは、ジョルノの手元へ唇を寄せて誓いを立てたのを思い出す。それまでじわじわとフーゴを追い詰めていた重たいのがすっかり取り払われた。甘えている、と言えば、もしかしたらそうなのかもしれないけれど。フーゴを苦しめた重圧は後悔であったし、また自責の念であった。今更変えようのない過去というのは今までに何度も経験してきたものの、あれほどに押しつぶされそうになったのは初めてだった。



 次にフーゴが足を止めたのは花屋の前だった。店先の一番目立つ場所で真っ赤な薔薇が主張して、その隣でカスミソウが頼りなげに収まっている。しかしフーゴの視線を捕えたのはそのどちらでもなく、水が張ってあるバケツの横に三輪だけ残っていたオレンジのガーベラだ。吸い寄せられるかのようにそれへ近づけば、みずみずしいその花びらがフーゴを出迎える。

 思っていたよりもその花は大きくて、茎だってしっかり太かった。ちかちかと、光ってみえる。

 結局女性店員の「花をお探しですか?」の声が掛るまで、ずっと眺めていてしまった。どれだけの時間見入っていたのか分からなくて、照れ隠しに取り繕った笑顔を貼り付ける。

「……お店の花を見ていたら、花を買っていくのもいいかなと思って」
「デートでしたら、向こうの薔薇の方がおすすめですけど」
「いや、デートじゃあないんです」
「あら、そんなにしっかりキメてるからてっきりそうかと思いました」

 お喋りもそこそこにして、フーゴが「三本ともください」を言えば、店員は「グラッツェ」と手際よく花束を作ってくれた。「リボンは?」の問いには「お任せします」と返して。

 そうして出来上がった花束を受け取れば、先ほどちらっと視界に入ったカスミソウが少し混じっている。

「おまけしときましたから」

 今度はフーゴの方が「グラッツェ」とはにかむ。こちらこそ、と彼女はフーゴの手から代金を受け取った。お釣りのコインを手渡しながら「いい花でしょう」と彼女が呟くので短く「え」と声が漏れる。

「どなたに差し上げるのかわからないけれど、きっと喜ぶわ」



 喜んでくれるかどうかなんて今さら分かりっこない。それどころか、こうして顔を見せることすら許されるのかどうかも、フーゴは分かりかねている。いつか行かなければ、と先延ばしにし続けていたところを「そろそろ行かないんですか」とジョルノにせっつかれたので腹を括ったのだ。フーゴは今、町はずれの教会にいる。

 別段古ぼけているわけではなく、掃除がしっかりと行き届いている教会だ。丁寧に掘り出された白い燭台の上へ立つ蝋燭には火が揺れている。シスターが弾いているのであろうピアノが何処かから微かに聞こえてきた。その旋律はまだたどたどしいもので、どうやら稽古の途中のようだ。少し弾いては止まって、同じところを繰り返している。

 涼やかな音色を聴きながら、教会の奥へと抜ける。青々とした芝生が生い茂っており、立ち並ぶ墓標のそれぞれに花や写真、指輪なんかが手向けられていた。フーゴは芝生を踏み進める。頬を撫でていく風が、手にした花束のガーベラを揺らす。ほのかに甘い香りがした。

 大きな花を付けるシャラの木の下で足を止める。木のそばにある墓標には「ナランチャ・ギルガ」の名が刻まれていて、いよいよ本当に、フーゴの中でナランチャは死んでしまったことになった。もちろん彼の死を疑っていたのではない。ただ、こうして墓を目の前にするのが怖かった。

 自身が選んで、決めて。結果彼らから離れた。そして、自分のあずかり知らぬところで彼は命を落としたという。誰が死んだっておかしくなかったのだし、全員がそれを覚悟していた筈だ。また、フーゴもちゃんと分かっていた。分かっていたからこそ、身を引いた。結果、生き残った。

 この世界では結果が全てだ。過程の説明など言いわけに過ぎないからだ。だから、形としてフーゴは裏切り者となり、全てが終わったあとでまたジョルノの元へ帰った恥知らず者となった。組織の中では、過程はうやむやになっている。分かっている結果は、「フーゴは一度組織を裏切った者だ」ということだけだ。

 説明して許してもらおうだなんて思わなかった。それに、許されるわけがないと思った。フーゴの葛藤や後悔は、きちんとジョルノやミスタには理解されている。が、上の者がいくら「フーゴは信頼できる仲間だ」と言えど、下の者が簡単に「分かりました」なんて、言うわけがないのだから。

「ナランチャ」

 名を呼ぶのもいつぶりだか分からない。「フーゴ」と呼び返すナランチャは居ない。その事実がひしひしとフーゴを追い立てた。

 彼とて覚悟してブチャラティと供に行ったのだ。悔いはあれど、後悔はしていないだろう。だけど、あまりにもあっけなさすぎる。

 フーゴには未練があった。彼と過ごしたであろう未来に対する未練だ。何度間違って叱られたって、次の日には勉強を教えてくれとせがむ彼はもう見られない。年上のくせに、年下かと思うくらいにはしゃぐ彼も。仕事を終えて得意になっている彼も、お気に入りのリストランテでスパゲティを頬張る彼も、チンピラよろしくナイフを振り回して激昂する彼も。全て、失ってしまった。

 フーゴは喉を詰まらせながら、オレンジのまぶしい花束をそっと墓標の前へ置く。紫色のリボンが寂しげだ。

「たまにこうして来てもいいかい」

 返事はない。また風でガーベラがふわりと揺れる。それをナランチャのイエスだと思い込めるような勇気もない。

 それからフーゴは黙って祈った。彼のやすらかな眠りのために。



 来た道を通って、また教会を抜けた。すると道沿いに黒い車が止まっている。見知った車だった。

 運転席の男はフーゴに気がつくと車から降りる。ジョルノだった。

「今日行くと言ってたでしょう。お迎えにきました」
「……一人でも帰れますよ」
「わかってますよ。でも、二人で帰ろう。フーゴ」

 しばらくフーゴは突っ立ったまんまジョルノから視線を外していたが、車の助手席側のドアを開けて待っているジョルノが「さあ」と促すので、その通りに助手席へと乗り込んだ。

 シートへ身を預けると、溜息が一つだけ出た。

 運転席に座るジョルノがキーを回してエンジンをかける。フーゴは「君はナランチャのところに行かないんですか」と切り出して、それらしい会話をしようとしたが「僕は先週来ましたので」の返答で、もう話が終わってしまった。ややあって、ジョルノは「今日は君だけで彼も満足でしょうしね」と言った。景色が流れて、教会はもうすっかり見えなくなった。

 だから出掛けに思ったのだ。雨でも降っていればそれなりに雰囲気のひとつもあっただろうに、と。真黒のスーツにぼたぼたと涙が落ちた。ナランチャの死に泣いているのか、己の不甲斐なさに泣いているのかもはっきりしない。

 ジョルノは何か言いかけた風であったが、口を閉じてハンドルを切った。

 ジョルノが組織に入る前に、この車に乗ってみんなでリストランテへ行ったことが何度かあった。その度にナランチャはこの助手席に座りたがっていたっけな。後部座席のミスタと何かあるたびに言い争って、窓に頭をぶつけて。アバッキオが呆れたように鼻を鳴らしながらアクセルを踏んで、いつもブチャラティは「よさないか」とたしなめていた。自分はいつも黙って眺めていた。いつも、そうだった。その「いつも」は「いつまでも」あるのだと思っていた。そうではなかった。

「思い出したんですけどね」
「……なんでしょう」
「今日はミスタが苺のケーキを買って帰ってくるそうですよ」

 それが何か、と言いたいのを抑える。こっちは頭の中がぐちゃぐちゃになっていて、今にも叫んでしまいそうになっているのに。

 耐えながらフーゴが運転席を見やれば、ジョルノはハンカチを差し出した。「美味しくいただきましょうね」とフーゴの太ももへ置いてしまう。

 フーゴはハンカチを手に取った。まっしろで、なんの装飾も無い。ここは彼の優しさに甘えて、窓の外を眺めつつ目元を拭った。それからも、後から後から出てくる涙はなかなか止まらなかった。

「許すとか許さないとかじゃ、ないんだと思う」

 ジョルノの低い声がした。

「あの時。君が決断したときから、今まで。僕はずっと君を仲間だと思っている」
「そんな……」
「きっとナランチャだって、ブチャラティだってアバッキオだってそうだったでしょうね」

 もしもそうだったら、どんなに救われることだろうな、とフーゴは自嘲まじりに眉を下げる。

「それはフーゴ。貴方だって同じじゃないですか?」

 ぴたりと、空気が止まってしまったように思えた。フーゴは静かに目をしばたたかせる。涙がひっこんだ。

 フーゴの沈黙は肯定であったし、願望だった。彼らから離れてから、いくら忘れようとしても忘れられなかった。自分は間違っちゃいないと思っていた。だけれど、彼らが本当に間違っているとは言い切れなかった自分も居た。

 ギャングとは、かくあるべきだと思ったので一行から背を向けたのだけれど。もう彼らの事は思い出さないようにしようと思えば思う程に、だめだった。できなかった。

 自分の決断はあの時の組織からすれば正しかったのかもしれない。しかしブチャラティのチームのそれからは著しくかけ離れていた。それでも、自分のことを軽蔑しないでほしかった。というのは我ままなのもよく分かっていた。

 忘れられたくなかった。たしかにあの月日は在ったのだと。パンナコッタ・フーゴがチームの一員として在ったのだということを、忘れられたくなかった。それでも離れることを決めたが、いつだって彼らの身を案じていた。

 エゴだと言われればそれまでだとも、思っていた。

「いいんですよ。君が今こうして僕の隣に居る。それがいいんです」
「ジョ、ルノ」
「だからもう、君が自分を責めなきゃいけないようなことなんて無い」

 前にも似たようなことを言いましたかね、とジョルノは喉の奥で笑う。フーゴは手に持ったハンカチを握りしめた。

「聞きわけのない部下で申し訳ない」
「部下だなんて思ってやしないけど」
「いいや、今度こそもう平気だよ。ジョジョ」

 そうしてジョルノはパッショーネアジトのある通りへ車を停車させた。キーを引き抜いて「降りましょう」と告げるので、フーゴは助手席のドアを開けた。

 とたん、手に持っていたハンカチがフーゴの手を離れる。取り落としたかと思って下へ手を伸ばす。が、次の瞬間ハンカチはまっしろな鳩にかわっており、フーゴの手をすり抜けて向かいの屋根のむこうまで羽ばたいて見えなくなってしまった。それがジョルノの能力だと気がつくまでしばらく掛った。

 アジトの扉へ手を掛けて、ちらちらとジョルノがフーゴを伺っている。彼なりに考えて、元気づけようとしてくれたのだろう。フーゴは、今度は自分を情けないだなんて思わなかった。ただ、ジョルノが待つ扉の前まで寄って、一言「ありがとう」を言おうと思った。

 するとこちら側から扉を開けるよりも早くに、内側から扉が開けられる。ミスタだった。

「遅かったな」
「そうですか?貴方が待ちくたびれていただけでしょう?」
「はいはい。おかえり、ジョルノ」
「ただいま。さあ、フーゴ。入ろう」
「ケーキあるんだぜ、フーゴ。おかえり」

 フーゴは「ただいま」を言うのがあまりにも久しぶりすぎて上手く言えなかった。郷愁が胸にのしかかったからでもあった。そんなフーゴを見てジョルノもミスタもおかしそうに笑った。つられて、自然と頬がほころんだ。笑って見せるのは、どうやら上手くいった。




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