まどろむ意識のどん底で、ピ、と遠くで音が聞こえたような気がした。メローネは、夢のなかで海の底に居た。頭の遥か先まですっぽりと深い海に覆われてしまっていたけれど、呼吸は出来た。自身にエラがあるわけではなかったが、どうしてか苦しくは無い。

 音のありかが知りたかった。足をもたつかせながら辺りを泳いで回る。大小様々な魚が行き交って、メローネのすぐ横を通り過ぎていた。

 海の水は冷たくて心地良い。このまま泳いでどこまでも行けそうな気がした。暗い海にはギラつく太陽の光が照らしている。あまりよくない視界のまんま、メローネは音のありかを探った。

 しかし念入りに探るまでもなく、急に意識は引きあげられた。額に痛みがあったからだ。痛い。メローネは未だくっついた瞼のまんま「なに」と低く唸った。

「こんなとこで寝てんじゃねえよ」
「あ、プロシュート」

 まだ眠たい瞼を擦りながらまぬけな声を上げる。プロシュートは不機嫌そうに突っ立っていて、片手でライターを弄んでいた。どうやらさっき感じた痛みは彼のデコピンによるものらしい。

 短く「詰めろ」と言うので、メローネは三人掛けのソファの端へ寄る。そうすればプロシュートはどっかり腰掛けた。かちんと乾いた音がして咥えられた煙草に火が灯る。

 じりじり焼けるその先端は、プロシュートが吸えばあかく光った。

「エアコンつけたの」
「暑ィからな」
「リモコンの音だったのか」
「何が」
「さっきの夢のはなし」

 とん、とガラスの灰皿へ灰が落とされる。灰皿の中には何本もの煙草が刺さったままである。メローネはそれを手に取って、ソファの隣にあるゴミ箱へ中身を捨ててやった。空っぽになった灰皿の底には海の絵が描かれている。

 それはちいさな海だった。色とりどりの魚達の鮮やかさは、灰に汚れてすっかり褪せてしまっているけれど。メローネはお気に入りだった。

「おい」
「ん」
「灰皿」
「はい」

 手に持っていた灰皿を差し出してやれば、プロシュートはまた煙草のうしろをぴん、と弾いてその灰を落とす。器用なもんだよなあと思った。

 メローネはまた一つ灰に埋もれた魚を見て、夢の魚を思い出した。自由気ままに泳ぎ続ける魚達が羨ましく思えたのだ。自分達は今やパッショーネに飼われた所謂始末屋であるので、自由なんてものは無い。言われた通りの時刻に言われた通りの人間を殺す。それは自分達にとって、いつも見ているテレビ番組を見るくらいのことだった。しみついていることだ。

 そこに倫理や道理は働かない。言われた通りに働けば報酬を貰えて、人並みの生活は送れる。人並み、というには人並み外れた人生ではあるけれども。

 プロシュートは、よくメローネに言って聞かせた。まともに弔ってもらえるだなんて思うな。まともに墓に入れると思うな。それにふんふんと頷くのはいつものことだ。メローネは、まるでプロシュートが自分自身に言い聞かせているように思えた。メローネを通して、彼自身に言っているような。

 それを言ったところで彼はまた先ほどのように不機嫌そうにするのは目に見えているので、わざわざ口に出すことはないのだけれど。

 メローネは小さな海の灰皿をテーブルに戻した。ひっそりとした沈黙の末に、彼に向って手を出す。手のひらを上にして。

「……なんだよ」
「俺にもちょうだいよ」
「お前吸わねえだろ」
「味見したい」
「テメーで買って来い」
「やだ。あんたのがいい。銘柄知らないから買えない」

 ち、と舌打ちをした後に結局プロシュートは一本寄こした。緑色の箱だった。何やら英字が刻まれていたけれどよく見えない。

 メローネは受け取ったそれを口に咥える。そのまま吸ってみれば、ひんやりとミントが香った。

「あれ? メンソールだったの」
「口ン中スっとすんだろ」

 するとプロシュートは「ほら」とライターを近付けるので、メローネはその手元へ煙草を寄せる。じり、と先っぽが焼ける。彼のそれと同じにあかく光った。口の中がスっとするというよりは、喉の奥に氷でも押しつけられたかのようだった。

 煙で肺を満たして、ゆっくり息を吐く。薄暗い室内に立ち上る煙は、窓から差し込む街灯の光でぼんやりと白く浮かび上がり、やがてゆったりと消えた。

「噎せたりしねえのな」
「それはさすがにないけど」
「へえ」
「別にハジメテってわけでもないし」
「そうかい」
「でもやっぱ苦しい」

 海の中ではあんなにものびやかだったのに。酸素が海水になったみたいだった。まるで今の方が溺れているようだった。

 灰皿の淵へ煙草を当てて、とん、と叩いて灰を落とす。不慣れだったので少しもたついた。それを見たプロシュートが人を馬鹿にした笑い声をあげたけれども知らないフリをする。

 あんたはきっと酸素が煙になったって生きて行けそうだよな、と胸の内で悪態をついた。

 灰皿は、それから二人分の灰を受け入れる。メローネの好きな小さな海はすっかり灰に埋もれてしまって見えなくなった。

 ややあって、短くなりきったプロシュートのそれは、底へ擦りつけられて冷たくなった。

「仕事だったの? 今日」
「ああ」
「お疲れ様。これあげる」

 メローネは吸いかけの煙草を指でつまんで彼の口もとへ持っていった。瞬間プロシュートは眉を潜めたが、黙って口を薄く開けるので、そこへさし込んでやる。

「もう要らねえのかよ」
「味見って言ったじゃんか」
「贅沢な奴」

 言いながらプロシュートは受け取った煙草を一気に焼いた。もくもくと口からは煙が吐き出されて、また部屋の天井へと消えて行った。

 この人は煙がなきゃ生きていけないんだと、メローネは思う。自分とは違うのだとも。

「なんでずっとココ居んの」
「はァ?」
「……帰らねえの?」

 じ、と見つめたプロシュートの瞳は疲れた人がする目だった。プロシュートはしばらく答えなかったので、メローネは居心地の悪そうに首の後ろを掻く。

「居ちゃ悪いか」
「悪かねえけど」
「お前が居たからな」
「は?」

 それからまた少し間が開いたのは、プロシュートが二本目の煙草の火を消したからだ。するとプロシュートの腕が伸びてきて、隣へ座るメローネの肩を引っ掴んだ。

「お前が居たから」
「聞こえなかったわけじゃないんだけど」

 身を寄せられて、身構える。視線を逸らせば、今度はその顎を取られて顔を付き合わされた。げ、と思うよりも先にプロシュートの顔が近付く。

 強引で人の気も考えないところは、いかにも彼らしい。結局それへいつも流される立場にあるのはメローネだ。薄い唇がまた開いて、次はメローネの耳元へ食らいつく。肩が跳ねる。抗議の声は口づけでかき消された。

 軽い音がして、唇が離れる。

「……俺さ」
「なんだよ」
「なんでアンタなんだろうな」

 女なんて星の数ほどいて、言い寄ってくる女なんて山ほどいるのに。どうしてアンタを選んだんだろうな。メローネは常に疑問だった。それはまた彼にも言えることでもある。どうして自分なんだろうなとよく考えるのだ。

 でもそれは考えるだけ無駄なことだった。答えにはたどり着けない。それもよく分かっている。どうして。

「嫌か」
「違う」
「迷うならやめたっていいんだぜ」

 そんなことを言いながら、メローネの頭へ手が這う。髪を梳かれる。さら、とプロシュートの指を髪が滑った。

 やめる気なんてないくせに、とは言えない。自分だってそうだった。嫌じゃない。こうして彼に触れられることも、触れることも。でもどうしたって不安になることもあるのだ。建設的でない関係だった。

 メローネがあれこれ考えている間にも、プロシュートはその頬を撫でて耳たぶを甘くつねった。メローネの存在を一つ一つ確かめるようにするので、なんだかくすぐったい。未だメローネに触れつづている右手へ己の手を重ねてみた。

 ひんやりとしている。筋の通った長い指が絡まってきた。特に抵抗する意味もないので、メローネもまた自分から絡ませてみた。虚しさのなかに、熱を見た気がする。

「こそばゆい」
「あ? カマトトぶってんじゃねえ」
「う、そじゃない。何? 今日どうしたんだよ。なんか変」

 するとプロシュートはあからさまに嫌そうな顔をした。何か変なことを言っただろうか、とメローネは思いかえす。ぴくりと彼の瞼が揺れた。

「……お前が」
「俺ェ?」
「辛そうにするからだろ。お前こそ何かあったかよ」

 俯いてはいるものの、メローネに触れて確かめる手は止まらないでいた。鎖骨を通って胸元まで来たかと思えば、また頬をつねられて。

 別に辛いだなんて思ってやしなかった。ただ、なんとなくプロシュートのことを思えば切なくなっただけだった。ろくな死に方をしないだとか、誰にも看取られないだとか。そんな悲しいことばかり言う彼のことを思えば、いやでもそうなった。

 もしも違う生まれ方をして、違う育ち方をして。もっと違う人生を歩んだとして、また巡り合えたとして。誰の命を奪うこともなく、平穏の中でともにあれただろうか。彼の不安を取りされるような世界がどこかにあっただろうか。

「なんにもないよ」
「嘘つけ」
「アンタが居てくれさえすれば、怖いことなんて一個もない」

 正しい答えだかどうかは知らない。だけどそれがメローネに言える精いっぱいだった。プロシュートのために言ったわけではない。ただいつも彼がそうするように、自分に言い聞かせるように言ったのかもしれなかった。

 どんなに暗くて冷たい世界だって。広大な海に溺れそうになったって、煙にまみれて息もできなくなったって。きっと彼が居れば救われるのだ。自分は。

 メローネにとってプロシュートは拠り所だった。人としての心のありかだった。他人を欲するという欲が向いて、この腕で抱いていたいと思うのはいつだって彼なのだ。それがどんなに人の道理から外れていたって、すでに別の点において丸っきり人のあるべき姿勢からは外れてしまっているのだ。他の誰かなんて関係なかった。ただ二人でいる空間が全てだった。

「……お前恥かしくねえの」
「俺からしたらアンタの方が恥かしいけどね」

 メローネが笑うが早いか、ソファに縫いつけられる。

「余裕無いなんてアンタらしくないんじゃない?」
「さっきからお前喋りすぎ。煩え」

 だだっぴろい海に放り出されて。自由になって。苦しくなくて。悲しいこともなくて。しかしメローネはそれを幸せだとは思わない。不確かな音のありかを探してまどうのは嫌だった。彼の居ない世界に生きて、彼を知らないまま過ごすことなんて考えられなかった。

 あらゆる制約のもとに、それを甘んじて受けて。枯渇し続けながら生きる方がよかった。望む世界に一歩ずつ近づく方がよかった。傍らに彼が居るのなら、貧困に喘いだっていい。ただ彼が自分を求めて息を上げる。そんな世界がメローネのあるべきところだった。

 彼の熱はじっとりメローネへと移る。喉元にプロシュートの汗がぼたりと落ちた。薄い胸元に熱い手が這って来て、またくすぐったい。身を捩れば肩を押さえ付けられた。まるで誓いのように瞼へと口づけられる。それもくすぐったい。

 やっぱり恥かしいのは彼の方だった。

「メローネ」
「ん」
「……メローネ」

 何かを含ませたように名前を呼ぶ彼の瞳は細まっていた。許しを乞うような声色だったので、メローネもまた瞳を伏せる。何をしたって構いやしないのに。絡まったままだった指をほどいて、彼を引き寄せた。不安がっていたのはプロシュートだって同じなんじゃないかと思った。

 そうして彼が着ているシャツのボタンを一つずつ外してやる。息を飲むのが聞こえた。いつもは冷静に物事を俯瞰で見ているような人間であるのに、こんなときばかりは一人の男だった。そう思うと少し笑えるような気もする。彼をそんなにさせているのは自分なのだと自覚すれば、更に。

「プロシュート」
「なんだ」
「心配しなくたって、どこにも行きやしない」

 少なくとも、あんたから手を離すまでは。付け加えるか迷ったけれど、それはまた彼の不安を煽ることになるかもしれない。

 かわりに彼の手を取って、恭しく唇を寄せてみせた。その指先は彼のメンソールが香っている。

 メローネの安心は、いつだって彼の傍にあった。



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