やっぱり酷いひと

 私は特別じゃない。翔さんは誰のことも好きじゃない。私はそう思っていたのではない。そう思い込もうとしていただけだ。

「じゃ、お疲れー」

 最近、翔さんは用事があるからと仕事終わりにどこかへ行くことが多くなった。もちろん一緒に帰る機会も減る。今日は珍しく翔さんが私の前を歩いていた。

「んー、今日忙しかったから疲れたね」

 大きく伸びをして、そう言って微笑む。はい、と返して、私は辺りを見渡した。あの女の人にビンタされる事件があってから何だかとても周りが気になる。翔さんのファンの人にいつか刺されやしないかと。

「どしたの」
「えっ、いや、何でも!」

 慌てて首を横に振ってごまかすと、翔さんは「そ?」と言って気にする様子もなく笑った。彼が前を向いたのを確認してまたキョロキョロしていると、気配もなく彼が振り返って。ばっちり目が合った。

「ほらやっぱり様子変じゃん」
「えっ、いや、あの、」
「俺には言えないこと?」

 そ、その子犬のような目をやめていただけませんかね……。何だかとても悪いことをしている気持ちになって困っていると、翔さんがぷっと吹き出した。

「顔険しいな。ごめんごめん。帰ろ」

 彼の大きな背中を見ながら、思う。
 どうして私にキスをするんですか?絶対に聞いてはいけない言葉だと思う。考えないようにもしてきた。いくら自分で考えたって誰かに相談したって、結局翔さん本人じゃないと分からない。そして私に本人に聞く勇気はない。それなら考えないほうがいい。考えれば考えるほど翔さんのことで頭がいっぱいになって後戻りできなくなる。
 この前の彼女も、きっと私みたいに翔さんの優しさに触れて自分は特別じゃないって分かっててもそう思い込むことで自分を保っていたのだ。なら私は、自分は特別じゃないって思い込もう。そのほうがきっと傷が浅くて済む。

「そうだ、今度智輝たちが鍋パしようって言ってたよ」
「そ、それって私もですか?」
「え、なんで?」
「だって、滝沢のことだからお前以外な!とか言いそうだし……」
「……智輝ってすずちゃんにそんな意地悪してんの?」

 ぶんぶん頷くと翔さんは苦笑いした。そして「仲いいんだなー」とも。仲はよくない。全然よくない。

「それとさ、今度二人で出掛けない?」
「えっ」

 二人で出掛ける、イコール、デート……

「ええっ」
「あ、嫌ならいいよ。ただ、頑張ってくれてるからお礼にって……」

 ああ、もう。特別じゃないって分かってるのに。少しだけ恥ずかしそうな翔さんに、心臓は勝手に忙しなく動き出す。抑えられない恋心は私の制止も無視して勝手に暴走する。

「もちろん大丈夫です!よろしくお願いします……!」
「よし!じゃあどこ行きたいか考えといて」

 そして、私のアパートに着くと、いつもみたいにキスをする。握られた手が熱い。唇が離れると翔さんはいつもすぐに帰ってしまうのだけれど、今日はあの子犬のような目で見たまま動かない。

「ど、どうしたんですか……?」

 恐る恐る聞くと、翔さんはそれでも何も言わなくて。やっと口を開いたかと思ったら、とんでもないことを言い出した。

「すずちゃんってさ、俺のことどう思ってる?」
「え……!」

 いきなり核心を突く質問……!どう答えるか必死で頭を悩ませていると、翔さんはまたとんでもないことを口にした。

「俺はさ、すずちゃんのこと可愛いと思うし好きだからキスするんだよ」

 翔さんは、本当に酷い人だ。

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