必要

 翔さんのために作ったシフォンケーキは、家の台所のゴミ袋にすぐに捨てた。でもそれは私の心を容赦なく抉って。燃えるゴミの日が来るまで、私は毎日泣きそうになって慌てて鼻を啜った。
 翔さんとはあれから会っていない。ゼミやレポートで忙しかったから。というのも本当。翔さんに会うのが怖くてバイトに行けない、というのも本当。翔さんと一緒じゃないと眠れないのも最初の三日だけで、その後はまるで翔さんと出会う前に戻ったようだった。
 私はレポートに熱中して、他のことを考えないようにした。おかげで、翔さんのことは少し傷が癒えた気がする。

「おう」

 そんなある日、大学の図書館で滝沢に会った。前は毎日会っていたから、何だか久しぶりな気がする。滝沢は分厚くて難しそうな本を持っていて、滝沢もレポートに追われているのだとすぐに分かった。

「最近バイト行ってる?」
「ううん、レポートやばくて」
「俺も。一回しか行ってねぇや」
「そう」
「あ、そういや新しいバイト入ってきた。女の子なんだけどさ、……」
「ごめん、忙しいからもう行くね」

 新しいバイト。女の子。その子もきっと翔さんを好きになる。そして……。そこまで予想がついたから私は滝沢の話を遮って自分の席に戻った。傷が癒えたなんて嘘だ。今でも翔さんのことは火傷みたいにヒリヒリと痛い。
 お正月は実家に帰った。実家でもしなければならないほどレポートに追われていて、全然ゆっくりしたという実感はなかった。もうすぐテストだ。そうしたら更にバイトになんか行けなくて、翔さんとも会わなくなる。新しい子が入ったなら私がいなくてもいいだろう。渡せなかった香水は今もバッグに入ったまま。未練がましいな。もういいって言われたのに。自嘲してPCに向かった。
 実家からアパートに帰って、数日後。悠介さんからメールが来た。『最近忙しいの?』と来たので、『すみません、レポートに追われてます』と返した。バイトをやめると悠介さんに言えば、翔さんに伝えてくれるだろうか。そう思って指を動かそうとした時、画面が新しいメッセージに切り替わる。そこには。

『翔がおかしい』

 と書いてあった。おかしい。一体どういうことだろう。 頭を悩ませていると、また新着メッセージ。

『喧嘩した?なんか毎日ボーッとしてる』

 喧嘩、じゃない。きっと。私は翔さんに捨てられた。このまま飽きられて終わり。

『新しいバイトももうやめちゃったよ』

 やっぱり、翔さんと何かあったのかな。もういい加減バイトに手を出すのやめたほうがいいよ。

『すずちゃんは俺のこと嫌いになったのかなって、泣きそうになってる』

 嫌いになんて、なれるわけないのに。好きすぎて苦しいくらいなのに。もういいって言ったの翔さんでしょう?なのに……

『すずちゃんに会いたいってうるせぇから、行かせた。もう着くと思う』

 いつの間にか零れていた涙が、机に大きなシミを作っていた。驚く暇もなく、ピンポンとインターホンが鳴る。それを鳴らしたのが誰か分かっていたから、私は玄関のドアを見つめたまま動けなくて。もう一度鳴る。次に、コンコンと小さな音が聞こえた。そして。

「すずちゃん、ごめん……。会いたいよ……」

 そんな弱弱しい声。私は思わず立ち上がり、ドアを開けていた。そこには久しぶりに見る翔さんの姿。ああ、相変わらず美しい人だな。憂いを帯びた瞳も、悔しいくらいに綺麗だ。

「……俺……、誕生日に二人で過ごせなかっただけであんなに拗ねて、大人げなかった。ごめん、反省してるから離れていかないで」
「っ、翔さん……」
「すずちゃんはもう、俺のこといらない?」

 酷いのは、翔さんのほうだ。そんなわけないのに。翔さんの姿を見ただけでこんなに涙が出てくるほど大好きなのに。そんなこと、聞かないで。

「すずちゃん、俺」

 翔さんが少し躊躇った後、ゆっくりと私に腕を伸ばす。恐る恐る私に触れた手は、そのまま私を抱き寄せた。

「すずちゃんがいないと眠れない。紅茶も美味しくない。何も楽しくない。携帯の前ですずちゃんからの連絡待つのも疲れたよ」
「っ、う、うう」
「レポートの邪魔しないからさ、そばにいていい?お願い、一緒にいさせて」

 頷いた私の頬に、額に、唇に。翔さんは何度もキスを落とす。もし翔さんが私に飽きる日が来たら。今まで何度も想像して覚悟してきたことなのに、何も考えられなくなる。翔さんの魔法が私の全身に染みわたっていくように、それでもいいから今翔さんに触れたいと思ってしまう。ああ、なんて馬鹿なんだろう。頭の中ではそう思っている。でも体が追いつかない。私の体は翔さんの温もりを求めている。優しくも強引なキスに、私の頭は痺れていって。その後結局机に向かうことはなかった。

「誕生日に渡そうと思ってたんですけど……」

 ずっとバッグの中に入れていた香水を渡すと、翔さんは嬉しそうに笑った。そして、その場で付けた。

「いい匂い。すずちゃんみたいな甘い匂い」

 そう言いながら、鼻を鳴らし首筋に顔を埋めてくる。くすぐったくて身を捩るとぎゅっと抱きしめられて。欲情の色を瞳にはっきりと滲ませた翔さんの熱に呑まれた。昨日から何度愛し合っただろう。それでも足りないと言うように、翔さんは私の体を離さなかった。

***

「うわ、すげーなそれ」

 またまた図書館で会った滝沢が私の首筋を見て眉を顰めた。私は慌てて服で隠す。マフラーで隠していたのに図書館が暖かくて忘れて取ってしまっていた。

「翔さんと仲直りしたんだ」
「……うん、まぁ」
「それでそのキスマークって、あの人意外と子どもっぽいな」

 呆れたように笑う滝沢に恥ずかしくなってしまう。

『み、見えるところにつけないでください』

 そう言っても翔さんはやめてくれなかった。むしろ、

『見えるところにつけなきゃ意味ないよ』

 と拗ねたように言った。何度も吸い付かれて赤くなっていくそこに恥ずかしい気持ちが込み上げるのに、同じくらい嬉しい気持ちが増していくのが分かった。何だか翔さんのものになれたみたいで、嬉しい。

『特に智輝には見せつけないと』
『え?』
『ううん、何でもない』

 甘く笑った翔さんを、私はまた受け入れたのだった。
 翔さんは滝沢がどうとか言ってたけど、どういう意味だったんだろう。じっと見つめてみても分かるわけもなく。私は滝沢と別れてレポートに戻った。
 レポートが無事に提出できて、私は一ケ月ぶりにバイトに行った。珍しく早い時間にいた悠介さんは、私を見てニヤリと笑った。

「ふーん、仲直りしたんだ」
「うっ、ま、まあ……。あの、メールありがとうございました」
「いーや?隅のほうで小さくなって座ってる翔、きのこ生えてきそうで面白かったけどな。今日は爽やかに戻ってたから一発ヤッたんだと思って」
「……!そ、その言い方……」
「あ、もしかして一発どころじゃない?」
「……っ」
「図星ー」

 私をからかって笑っている悠介さんはどう見ても先生には見えない。真っ赤になって睨み付けても全く意味はなかった。

「ところですずちゃん」
「はい」
「翔ってさ、すずちゃんと一緒にいる時ご飯食べる?」
「え?え、まぁ、普通に……」

 今日も私が作った朝ご飯を美味しいっていっぱい食べてくれたけど……。首をかしげていると、悠介さんは笑った。とても優しい顔で。

「……アイツ、作るのは好きなくせに食うことには無頓着だからさ。すずちゃんがいるなら安心だな」
「え?」

 ああ、そういえば。ここでバイトを始めたばかりの頃、翔さんは食べないのかなって思ったことがある。もしかして朝ご飯もかなり無理して食べてくれたのかな……?

「普段からあんま食わねぇけど、ストレスたまると全く食わねぇんだ。すずちゃんがいなかったこの一ケ月もほぼ食べてない」
「え……」
「手かかって悪いけど、見ててやって。アイツのこと、必要としてやって」

 悠介さんの言っている言葉の意味はあまりよく分からなかった。でも、私は無意識のうちに頷いていた。それを見て悠介さんが満足そうに笑う。髪をくしゃっと撫でられた時、後ろから引きはがすように肩を抱かれた。

「……悠介に近付くと妊娠するよ」
「お前だけには言われたくねーわ」

 翔さんは警戒心剥き出しで悠介さんを威嚇している。苦笑いしながら二人の言い合いを聞いていた。

「お疲れー」

 その日は久しぶりに全員が揃った。結局私がいない間に来たバイトの子は翔さんに振られてすぐにやめたらしい。しかもその振り方が

『俺彼女いるんだ。すっごく可愛い子でね、あ、今度紹介するよ。君も好きになると思うよ。渡さないけどね』

 というよくわからないものだったらしい。結構積極的に色仕掛けなんかもしてたみたいだけれど、翔さんは悠介さん曰くきのこが生えるほど落ち込んでいてそれどころじゃなかったらしい。脈がないと判断したその子はすぐにやめてしまったのだと。……離れていてよかったかもしれない。私はきっとそれを間近で見て平気でいられなかった。
 みんなで他愛ない話をしながらお店を出たその時だった。

「翔……!」

 高い声が聞こえた次の瞬間、翔さんに女性が抱き付く。あっと言う間の出来事で呆気に取られていると。

「……美花……」

 その名前は聞いたことがある。翔さんの手が彼女を抱き締めようとして、でも戸惑うように彷徨うのを見て私は当然平気でいられなくて。私があげた安い香水の香りが彼女の甘い匂いに掻き消される。
 ずっとずっと、分かっていた。終わりは近いうちに訪れるのだと。私はただ、それに気付かないフリをしていただけなのだ。

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