感謝
二人でタクシーに乗り込むと、博也くんは運転手さんにいつものホテルに行って欲しいと伝えた。手を繋いだまま、博也くんが私を見る。
「さっきの人元カレ?」
「えっ?!」
博也くんはいつものように優しく微笑んでいる。私の前で見せるいつもの顔だ。
「な、なんで?」
「うーん、奈子ちゃんの反応で分かった。吉村くんが前に言ってたんだ。職場に奈子ちゃんの元カレがいるって」
吉村に知られていたことが衝撃だった。それと同時に博也くんと吉村が私の知らないところでそんな話をしていることも衝撃だった。
「お、怒ってる?」
「なんで?」
「だって、私は博也くんの元カノとかあまり会いたくないし……博也くんも嫌な思いさせたかなって」
今は博也くんのことが大好きだし、望月さんのことはいい上司だとは思うけど恋愛感情は全くない。だけど、一回は好きになった人。私だったらヤキモチ焼いちゃうな……
「嫌な思いなんてしてないよ。感謝こそすれヤキモチ焼く理由ないじゃん?」
「えっ、感謝?」
「だってあの人が奈子ちゃんと別れてくれてなかったら、もし結婚なんかしちゃってたら、こうやって俺と付き合ってくれなかったでしょ?」
「……っ」
「奈子ちゃん、他の人と結婚しないで、俺と出会ってくれてありがとね」
この人は、この人は本当にずるい。とっても甘い顔で、とっても優しい顔で、溢れ出る愛情をたくさん伝えてくれるんだから。
あの頃、泣いてばかりいた私。望月さんが好きで、でも上手く行かなくて、仕事が好きで集中したいと思ってもできなくて。別れなきゃよかったって寂しい夜に思ってしまったことはある。でも、それは望月さんを好きだったからじゃない。ただ人肌恋しかっただけ。
博也くんのおかげで、今までの人生悪くなかったかもしれないと思えた。こんな風に、私を好きになってくれる人、他にいないと思うほど。
「博也くんも、私を見つけてくれてありがとう」
テレビの中にいる、憧れの人。普通は絶対出会えない人にこうやって出会えたのは、博也くんが私を忘れないでいてくれたからだ。
***
「まさかまさかだったわ」
次の日、望月さんがまた給湯室で私に話しかけてきた。そうだった、昨日望月さんにバレたんだった。あの後ホテルでまたまた甘い時間を過ごしたせいですっかり忘れていた。
「あ、あの、どうかこのことは内密に……」
「分かってるって。俺、そんな最低な奴じゃない」
望月さんは苦笑して、自分のカップを取り出した。不意に、私の首筋に目を止める。
「意外」
「えっ?」
「あんだけ牽制しといてキスマークとかつけねーんだな」
「牽制?」
訳が分からなくて首を傾げると、望月さんは「こっちの話」と楽しそうに笑った。
「お前が最近綺麗になった理由も分かったし、これでようやく諦めつくわ」
「そんな、諦めだなんて」
「いや、ほんとに。お前に振られた時のこと、未だに夢に見て魘されてたから」
信じられなかった。そんなに執着がないように見えていたのだ。私も自分ばかりで、彼のことをちゃんと見られていなかったことに気付く。
「んー、あの話は言わない方がいいかな」
「あの話?」
望月さんは顎に手を置いて考え込んでいるようだった。そして私をじっと見据える。
「んー、いいや」
「えっ、何ですか?」
「色々大変だと思うけど、頑張れよ」
結局望月さんはそう言って、給湯室を出て行った。スッキリしたような、ちょっとだけ切ないような、複雑な気持ちになった。いやそれよりも、あの話って何だよ。