最後の一文を打ち終え、大きく手を上に伸ばして、バンザイを兼ねた伸びをする。残った業務もやっつけた。あとはこれをプリントアウトしてサインして、提出するだけだ。やっぱり文明の利器は最高。字が汚くても読んでもらえる書類を作れる。素晴らしい。
そして、これの提出をもって、あたしは非番となる。
非番と思っただけでちょっと笑いがこみ上げてくる。ここ何週間か攘夷活動が活発だった影響で、休みが残らず吹き飛んできたからだろうか。体は闘争よりも風を求めている。丁度いい天気だし、今日はこの出来上がった報告書を提出したら、ツーリングでもしようか。
そんな事を考えながら、完成した報告書を片手にスキップなんかしちゃったりして。
「副長、この前の討ち入りの報告書持ってきましたよ」
「ご苦労。置いとけ」
「はーい」
「やけに上機嫌だな桜ノ宮」
「そりゃあ、せっかくの非番ですから。これからツーリングにでも行こうかなと」
「なるほどな。いい気なもんだぜ」
「お土産買ってくるんで許してください」
「マヨネーズでいい。今日はノンオイルで爽やかに行く」
「あっはい」
それお使いじゃん。と言いたいのを飲み込んだ。土方さん、よく見たら目の下にくまがあるし、さっきからしきりに目をこすっている。あくびを噛み殺して、しかめっ面にもなっているし。多分、すごく眠いんだ。
「今日は何徹目ですか?」
「二、いや、三か……?」
「睡眠不足は能率低下の原因ですよ。キリの良いところでお昼寝をおすすめします」
「いや、そうもいかねェ」
「なら、衛生隊長の権限で無理矢理寝かせましょうか?具体的には眠剤を強制投与して」
「患者の権利も大切にしてくれ」
「なァに言ってるんですか。権利を護るのはあくまで患者の生命や尊厳を護るためでしょう?手段を守って目的を守らないのは本末転倒だと思いますが」
「お前はピーチクパーチク……。ツーリング行くんじゃないのかよ」
「土方さんを寝かしつけるという重要な任務を思い出したので、ツーリングはちょっとだけ先送りです」
押し入れを勝手に開けて、布団を引きずり出し、部屋の真ん中にセットする。
「バカ。そっちだと北枕だろうが」
「そうなんですか?」
「俺はこっち」
「あ、そう」
いつもの事ながら、荒っぽいんだか繊細なんだかわからないお人だ。
土方さんはため息をついて、筆や硯を片し、道具たちを硯箱にしまい込んだ。やった。折れてくれるみたい。
「30分でも眠れば、少しはスッキリすると思います。眠れなくても、目を閉じて横になっているだけで少しは休めるはずです」
「ったく。お節介な衛生隊長様だ」
言いながら、土方さんは上着とベストを脱いで、白スカーフを取って、とお昼寝の準備を着々と進めている。上着を受け取りポケットの中に入れっぱなしのものを文机に置いて、縁側に出てブラシで軽く汚れを落としてから、ハンガーにかけた。ベストも同じように手入れする。
これは大昔の習慣に近い。父親は飲み会か何かで疲れて戻ってくると、仕立てのいいスーツでも平然と床に放り出すから、自分がこうしていた。懐かしい。
シャツを拾って、「洗いますか?」と聞けば、洗うと返された。多分、ここに缶詰になっている間、替える余裕さえなくしていたのだろう。煙草の匂いよりも体臭が先行している。不快な臭いではないけれど、この人らしくない状態だ。
よっぽど疲れているんだろうな。自分にはこの人の仕事は手伝えないけれど、少しでも楽になってもらえれば。そう考えながら、黒いスラックスを受け取って、ハンガーにかけた。
「お前、いい嫁さんになれるな」
「いやだなあ。毎日でっかい子供の面倒見るのは」
「俺がやろうとしたら、お前が先回りしてやってたんだろうが!つーか男のパンイチだぞ。出てけよ」
「別に今更」
「あーあ。人の素っ裸覗き見て顔赤くしてた頃は可愛かったのによ。うら若き乙女がそれでいいのかね」
「何年前の話してるんですか。第一、仕事で異性の裸に興奮してるようじゃ、救命医なんてできませんよ」
「なるほど。これも仕事か」
土方さんは一気に機嫌が悪くなった。なんでだろう。赤子が眠い時にぐずるような感じ、とは少し違うか。あたしの言葉にちょっと腹が立ったのかな。どこが悪いのか、自分ではわからないのだけど。彼は寝間着を着ると、布団に潜り込んだ。その枕元に話しかける。
「土方さん、どうかなさいましたか」
「なんでもねェ。目覚ましはセットしてあるからお前はツーリングでもなんでも行ってこいよ」
「あたしの言葉になにか失礼があったのでしょうか」
「うるせェ。眠れねェから、さっさと行けっつってんだ」
そう言われると、食い下がるわけにもいかない。仕方がない。お土産でご機嫌になる事を祈って、予定通りツーリングに行こうか。
「今日の気分はノンオイルですよね。煙草のカートンも買ってきましょうか?」
「……頼む」
「分かりました。いつものマヨボロソフトですね。じゃあ、灰皿を片したら出発します。遅くっても日付が変わる前には帰ってきますから」
頭まで布団をかぶって、会話を拒否された。なんでだ。
ゴミ箱に煙草の吸殻を捨てて、たわしでアルマイトの灰皿をこすり洗いしながらため息をつく。
「男心って本当わかんない」
妙に機嫌が良くなったかと思えば、一瞬で悪くなった。秋の空も驚くような変わりようだ。いっそトッシーこと土方さんのもう一つの人格に入れ替わってたってならまだ納得がいくんだけど。あのレスポンスは土方さんそのものだったしな。
洗った灰皿を拭いて、一点の曇りもなくして。乾いたアルマイトのそれを片手に土方さんの部屋に戻ると、彼は布団の中に収まって眠っていた。眉間のシワが、少しほぐれて、ちょっとだけ安らかな寝顔に見える。
「土方さん、灰皿洗いましたよ」
ごく小さな声で報告をしても、彼の寝顔に変化はない。その変化の無さが、自分の胸を甘くしびれさせる。なんでもないこの状態が、とても愛しく思える。
自分にも困ったものだ。もう懲り懲りだ。心の底からそう思ったのに、なぜかまた、恋愛に悩んでいる。いつからこんな事になってしまったのだろう。
沖田さんの姉上の一件か。いやあれはタガが外れたきっかけだ。もっと根幹的なのは……。
路地裏から引っ張り出されたのを思い出しながら頬を撫でると、少し眉がひそめられた。でも、すぐにもとの寝顔だ。
「あんなに油分摂ってロクに手入れしてないでしょうに、きれいなお肌」
率直に言って羨ましい。それなりに日に当たる仕事なのに色は白いし、シミはない。しかも自分よりも年上ときた。すべすべお肌いいな。あたしなんて暴飲暴食したらその分肌にキッチリ跳ね返ってくるのに。
刃のような一対の目は、今の間だけまぶたに覆い隠されている。少し惜しいけれど、身体の休息のためには仕方がない。むしろこの状況で開けてるほうが心配になる。
本当に、綺麗で真っ直ぐな人だ。いつからかは分からないけれど、自分は、抜身の刃めいたこの人の事が――。
「土方さん、あたしは貴方の事が――」
言いかけて、止める。起こしたら申し訳ないし、寝てる人に告白して満足するなんて、自慰に近い。自分が幸せになってそれで良しでは昔から何も成長していない。
「いってきます。おやすみなさい。よい夢を」
それだけを言い残して、部屋を出ていった。
*
静かに障子が閉められて、抑え気味の足音が遠ざかる。俺は目を開けて、上体を起こした。
「言いかけて逃げんのはナシだろ……」
俺の気も知らないで、あの女は。普段は可愛げのない言動を繰り返すくせに、たまにあんな風に接してくる。その落差で俺を殺す気なんだな、あの女は。そうに違いない。
「恥ずかしい女だな本当に」
悪態をついても、しばらく顔の熱は下がらない。クソ、こんなとこ総悟にでも見られたら一生笑いモンにされそうだ。早急に冷ます必要がある。冷静に、色々考えれば、この熱も冷めるはずだ。
いつから俺は、あの女、桜ノ宮すみれを意識していたのだろう。
かなり頑固で、パッと見はおとなしそうなのに根っこは苛烈で、手前のことなんざ微塵も興味がなくて、自分の命をなげうつ事に躊躇いがない。そのくせ他人の命には誰よりも鋭い女を、いつから俺は、異性として見ていたのだろう。
最初は本当に気まぐれ半分、警察官としての義務半分だった。手を貸してやろうと思ったのは、迷いながらも前進したいという気概が見えたからだった。そして足掻きながらもがきながらも成長していく様を見ている内に、興味が湧いた。路地裏でうずくまっていた枯れかけの雑草が、どんな風に花開くのか、見たいと思った。
そうだ。あのアホが迷うたびにケツを蹴っ飛ばす、それを飽きずに繰り返したのは、興味故だった。一つ乗り越えれば、コイツは何を見せてくれるのか。それが楽しみだった。しかし、楽しみだけではどうにもならないもんで、何度も手を焼かされた。あの女ときたら、人の言うことなんざ一つも聞きやしねーし、こっちがなんか言えばスグに打ち返してくる。生意気にも限界っつーのがある。躾けた奴らの顔が見てーくらいだ。
だが、手をかけた甲斐あって、すみれはいつの間にか、強くなっていた。剣だけでなく、心も多少は。少なくとも、路地裏で泣きべそをかいていた小娘の面影はなくなった。
そこまでであれば、俺はガキの成長を見守る大人として、ただ目を細めるだけだったのだろう。花を愛でる、それだけでいられれば、どれほど楽だった事か。
きっかけは伊東の件で、俺がすみれを突き放した次の日だ。怒り心頭といった様子で俺の仕事場に乗り込んできたあの女は、俺に詰め寄った。
すみれが自分から距離を詰めて、至極真剣な面で俺の手を握っていたあの時を思い出す。あれからしばらく経ったのに、あの光景は妖刀よりも奥深くにこびりついている。
――あたしは、何があっても、最期まで貴方だけの味方だからです。
恐ろしいまでに真っ直ぐな覚悟は、狂気に近いものがあった。……いや、あの女はとうの昔、俺と出会うよりずっと前に狂っていた。おそらく、ガキの頃の経験がアイツをそうしたのだろう。
今から思えば、俺に言われたらなんでもやるっつーのは、どう考えたってヤバイやつだ。ヤンなデレに両足突っ込んでるぞアレ。だが、あの時の俺は、訳の分からねェ刀を拾って、まァ正直弱っていた。だから、アレの言葉が、ひどく魅力的に見えた。顔だけは割といいなと前から思ってたが、心の底からいい女だなと思ったのはあれがはじめてだ。
「いやいや、すみれがいい女とか冗談きついぜ」
これ以上あの件を蒸し返すととんでもない事になりそうだ。もう少し過去に目を向けるか。過去か。昔は素直で可愛かったのにな。岩尾のジーさんとこに預けて屯所に戻る時のあの小娘の顔は……イカンイカン。
今でこそあんなんだが、俺が入隊を許可しなければ、あの女は別の人生を歩んでいたに違いなかった。俺が条件付きとは言え、桜ノ宮すみれの入隊を認めたのは、総悟の言葉が大きい。
――近藤さん、土方さん、すみれさんはとっくに壊れてる。あの人ァもう。
「娑婆じゃ生きていけねェ、か」
総悟の言った通りだ。アレの大切な部分は、俺と出会った時にはすでに壊れていた。粉々に砕けた破片は、誰にも組み上げられる事なく、どこぞへと流されちまった。
確かに人の形はしている。親しい人間の死に涙を流す程度の感性は残っている。だが、根本的な部分は直ることなく、そのままだ。自己の認識。自分と他人の境界線。心の痛覚。すみれのそういったものは、13年前で時を止めている。
そうだ。桜ノ宮すみれは、他人が自分に向ける好意を理解できねェ。総悟がすみれに抱いている感情も、伊東がすみれをなにかと気にかけていた理由も、俺が何を思っているのかも、あの女には理解できない。
そんな壊れ具合だから、俺のところまで付いてきちまった。……俺が、連れてきちまった。
「連れてきた、か」
連れてきちまった女がいれば、置いてきた女もいた。目を閉じれば思い浮かぶもうひとりの女、故郷に置いてきて今度は俺を置いていった女を思い出す。確かに残る、温い日々も。焦がれるようなそれに変わりはない。幸せであってほしいと、アイツが死した今でも考えているそれに、偽りはない。本人や周りには口が裂けても言えなかったが、アイツは俺の特別だ。
だが、共にこのクソったれな世の中を走るなら、戦場で斃れるのなら、共に地獄で焼かれるのなら、狂気に浸されたあの女がいい。
未だに俺が内包している人格風に言わせれば、アイツとあの女はジャンルが違う。言い訳にもならねーのは百も承知だが、そう表現するしかない。
そこまで考えて、頭を抱えた。
「ったく、昼寝のつもりが眠れなくなっちまった」
帰ってきたらどうしてくれようか。あの女の事だ。おそらく約束通り今日中には戻ってくるだろう。これまでの傾向を考えると、おそらく夕飯ないしは夜食は屯所で食べようとするはずだ。……まずは飯だな。
目は閉じたまま、奴を引きずっていく場所を上げていく。考えているせいで眠れはしないが、美味しそうに飯を食ってるすみれの顔を思い浮かべりゃ、仕事の憂鬱は軽く吹き飛ばせた。
と、そこで、思考を遮るようにドタドタと派手な足音が縁側を賑わせた。どうにも嫌な予感がする。昼寝を返上し、隊服に着替える準備に取り掛かった。手始めに身体を布団から引き剥がし、次いで煙草を咥えて頭を冴えさせる。
「大変です副長!」
「どうした。何があった」
「大変です!桜ノ宮先生が!先生が車にィ!」
飛び込んできた隊士がもたらした急報。唇から煙草がこぼれ落ちて、布団を焦がしていく。
煙草を始末して、服を着替え、パトカーをかっ飛ばし、搬送先の大江戸病院に向かう。一連の行動は確かに俺のだ。だが、どうしても他人事のように思えた。
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