「約束、してくれるか」
自分の視点が今よりもずっと低い。だから、これは過去の夢なのだろう。いつも、空想の夢じゃなくて、過去あった事実の夢を見る。
「うん、やくそくする」
おぼろげな記憶の中で、大人達が悲しむ姿ばかりが印象に残っている。褪せた父親の姿も、どこか悄然としているように思えた。弟は、この状況でも大人しくしていて、きっと大物になるよなんて、棺の前に跪いた父親は震える声でそんな冗談をかましていた。
「あたしが、そーちゃんのおかあさんになって、おうちをまもるって、やくそくする」
そう。あたしは、小刻みに震える父親の背中に向かって、そう言ったのだった。
――結局、何一つとして守れなかったけれど。
*
寝苦しくて目が覚めた。顔を上げると、線香の匂いが立ち込める仏間じゃなくて殺風景な医務室の机。顔面の穴からいろんな体液を垂らして寝ていたせいで息が苦しかったらしい。印刷した論文はビチャビチャになっていた。うわ最悪。なんか滲んでるし。
論文をゴミ箱に捨てながら、見た夢を思い出す。戻れない過去への未練でしかない。結果として残ったものは何もないのだから。
「約束、か」
江戸の象徴を見上げながら「強くなる」と言ったあれも、一応約束になるのかな。あれから3年も経った。17だった自分はもうすぐ20歳で、身分の上では成人となる。けれど、一体どこが大人になったんだか。心は10年以上前から少しも成長していない気さえする。
「強くなるってなんだよ」
背中に追いつくとは?過去に向き合うとは?曖昧過ぎて笑えてくる。とりあえず健全な精神は健全な肉体に宿る的なノリで武道やってたらいつの間にか拾ってくれた人に雇われて仕事してるけど、あたし本当に強くなったのか?隣に立ってたあの人にちょっとでも追いつけているか?
走っても走っても、一歩も動けていない気がする。そもそも自分が走っているのか、目指す場所が見えているのかすらわからない。
椅子の上でぐにゃんとダレていると、立て付けの悪い引き戸がガタガタ音を立てて開かれた。夢の事とか、諸々で起き上がる元気が出ない。
「おい桜ノ宮――ってその顔どうした?!」
声の主はあの時隣にいてくれた人だ。名前を呼ぶ声はちょっとご立腹だったのに人の顔を見るなりトーンを変えた。
手鏡で顔を見ると、顔に色とりどりのペイントがなされていた。とっさに某一番隊隊長のいたずら書きを疑ったのは彼の日頃の行い故である。しかし、よくよく考えてみればインクが滲んだプリントを枕にして眠っていたので原因は多分それだ。ごめんなさい冤罪だった。
「あ、これは、印刷物の上で寝てて」
「なんかあったのか」
「いえ、別に何も」
なんか突っ込まれたらヤだなと思っていたら、土方さんはあっさりと「そうか」と言って違う話題に移った。少しだけ安心した。
「悪ィ、コレ勘定方に突っ返されちまった。字が汚すぎて読めねェ、だと」
「なんでワープロ打ち駄目なんですかねー。最後の署名だけ自筆だったらそれでいいと思うんですけど」
「お前が先進的すぎるんだよ」
「やだ、今日の土方さん妙に優しい」
「俺はいつでも優しいだろ」
本気か冗談かいまいちわからない言葉をついつい笑ってごまかしてしまう。普段なら郷に入っては郷に従え位言うのにね。それであたしは泣きながら山崎さんとか手すきの隊士に代筆してもらうのだ。
「これ、お前は解読できるのか」
「できますよ」
「じゃあワードに打ち込んで出力して、今なら篠原の手が空いてるから代筆してもらえ」
「分かりました」
「終わったら飯でも行くか」
タイプを止めて土方さんの顔を見上げると、なんか生ぬるい視線。なんでこんな優しくされてるんだろう。
「やだ、土方さん優しすぎて気持ち悪い」
「んだとゴラァ!人が親切にしてやれば……」
苛ついたように後頭部に手をやって、三白眼がこちらを睨む。けれど、怒気はすぐに鳴りを潜めて、どこか気遣わしげな雰囲気になった。……ああ、泣いていた事に気付かれていたのか。じゃあ、元気出さなくっちゃ。タイプのペースを速めていく。このくらいなら多分すぐに終わる。
「じゃ、あたし蹂々苑がいいです!」
「図々しいな!」
「焼肉ですかィ」
「げ、総悟」
珍しく私服姿の沖田さんは医務室に入って人の顔を見るなり、ぶっと噴き出して笑い出した。蔑みの響きが強い笑いだけど、まあ沖田さんだし、あんまり怒る気はしない。こういうのってある意味天性っていうか。他の人、(やらないと思うけど)例えば伊東さんとかにコレやられたら多分怒る。
「なんですかィそのひでー顔」
「論文の上で寝てたらこうなってました」
「税金で印刷した有り難い枕ですねィ」
「人様の建物ぶっ壊して稼いだお金で御飯食べるの美味しいですか税金泥棒」
「破壊は創造への第一歩でさァ」
いい感じの事言ってるけど、その破壊にも創造にも税金投入してるからね。そう言いかけたのを飲み込んで、書類をワードに打ち込んでいく。鎮痛トローチが1ダース、必要な理由は、と。
「いい夢見れましたかィ?」
指が止まる。いい夢、いい夢か。それが何か、自分にはわからない。沖田さんのガワに入っていた時見た夢は土方さんを抹殺する夢だったけど、それっていい夢なのかしら。よく分からないけれど、自分を見つめ直すという意味ではいい機会だったのかもしれない。
「まあ、少しは」
沖田さんはまじまじと人の顔を見た。少し化粧が崩れている自覚があるのでそっと顔を背ける。丁度パソコンがあるので文字入力に集中するふりをすればいい。
「蹂々苑行くならフリードリンクつけてくだせェ」
「なんで俺に頼むの?」
不思議な事に沖田さんも突っ込んでこない。何この生ぬるい対応。
「死相でも浮かんでましたか」
「その辺の高架から飛び降りそうな気配がビンビンでさァ」
「そんなバカな」
光沢のある画面に映り込む自分の顔は、いつも通りにしか見えない。土方さん達の考えすぎか、それとも死線をくぐってきた彼らにしか見えないものがあるのか。
「アンタ、フラッと死んじまいそうで見てておっかないんでィ。ねえ土方さん」
「さあな。野菜ばっかり食ってるせいで肉が足りてねェんじゃないかと思っただけだ」
「栄養素とカロリーはある程度計算してますよ。計算通りに食べられない事が多いだけで」
「それ計算した意味ねーだろ」
確かに。文字を打ち込みながら苦笑する。もう殆ど終わりそうだった。パソコンって便利だなあ。生まれついての悪筆にも書いたものを読んでもらえるのだから。
「まあ土方さんと同席なのは気に食わねェが、タダで焼肉食えるってんなら話は別でィ」
「帰れ」
紛糾している二人を尻目に最後のエンターキーを叩く。そしてそれをプリンターに送信した。給紙ローラーとヘッダーが踊る音が二人の会話に交じる。吐き出された原稿をざっと見て誤字脱字その他不備がないかを確認。
「副長、できました」
「おう、俺が持っていくからお前は顔洗ってピエロみたいなその塗装落としてこい」
「はい」
少し離れた場所にある女子用の厠で、クレンジングジェルで顔を洗う。水をぶっ掛けて現れた素顔は、たしかに酷いものだった。いつもより少し腫れぼったい目、うっすらと浮かんだクマ、青ざめた唇。これが透けて見えていたのかもしれない。
「疲れてるのかな」
鏡の前の自分が笑顔らしき表情を作る。口角は上がっているけれど、目は全く笑っていない。こんなんだから心配されるんだ。
「強くなる、か」
何も変わらないな。いつまで経っても、路地裏で泣いていた小娘のままだ。顔をうつむけて、上げて、洗面台に張った水の中に顔を突っ込んだ。
――足だけは止めるな。
水の中で、あの時に言われた事を思い出す。自分が何をすべきなのか分からなくてもいいから、道なき道でも茨でも歩く事だけは止めるなと。
息が苦しくなって蛍光灯の無機質な明かりを見上げる。思い出すのは陽光にきらめく刃。自然と持ち主の輪郭も描いていく。いつでも背筋を伸ばして、まっすぐ前を見て。そんな横顔に憧れた。
あんな風に、生きてゆきたい。隣に立って、あの人の見ているものを一緒に見てみたい。そう思った。けれど、いざやってみようとすれば、隣で見ているよりもずっと難しいとわかった。いつまでも何をするべきかなんて分からなくて、何も進めていない気がして、この3年間何度も悩んでた。
悩む度に、同じ結論に至る。進めているか否かに関わらず、足だけは止めてはならない、と。足まで止まったら、本当に見失ってしまう。足を進めていれば、いつかは追いつけるはずだから。それまでは着実に歩を重ねていこう。
顔を拭いてとりあえず化粧をやり直す。コンシーラーを駆使してアラを隠し、唇の色の悪さは下地の段階で誤魔化した。
鏡に向かって笑顔を浮かべれば、少しマシになった自分がいた。
急がないと。土方さん達が待っている。
「あ、すみれ先生。どこかにお出かけ?」
「局長」
厠を出て一つ目の角を曲がったところで近藤さんと出くわした。いつも元気な人だ。そんな彼はあたしの顔を見るなり首を捻った。
「ん?先生、少し顔色が優れないけど大丈夫?」
「あー、少し徹夜が続いてまして。さっきなんて机の上で寝落ちしたら印刷した論文をダメにしてしまったんです」
「俺も書類の上で寝ちまうのはよくやるよ。それで墨が滲んでトシに怒られるんだ」
「同じですね。インクが顔についちゃってすごい顔になっていると言われました」
ははは、と近藤さんは快活に笑った。その笑顔を見ていると、少しだけ気持ちが上向いたように思える。あの人の強みってそういうところだよなあ。例えるなら太陽みたいな。こればっかりは土方さんにも沖田さんにもない、彼だけのとびっきりの長所だ。
「これからどこかに行くの?」
「土方さ……副長と沖田隊長と一緒に焼肉に行こうかと話していました」
「お、いいね!俺も行こうかなー」
「それは名案ですね。沖田隊長も副長もきっと喜びますよ。あ、でも」
「うん?」
「そうなると、私がいたら、お邪魔になってしまうかもしれませんね」
「いやいや、男三人で焼肉なんてむさっ苦しいだけだっつーの!先生が居てくれた方が何倍も美味しくなるに違いない!」
「それは大げさですよ」
笑い声を響かせながら医務室の前に来たところで、用事を済ませて着替えてきた土方さんに出くわす。彼はどこか生温い視線を注いでいる。
「すみません、お待たせしてしまいましたか……?」
「いや、今来たばっかだ。ただ、」
「ただ?」と鸚鵡返しにすると、土方さんは目を細めた。なんだろうこの表情。
「お前、よく笑うようになったな」
「え、もしかしてお気に障りましたか?」
「馬鹿。なんでそうなんだよ」
「馬鹿って言った方が馬鹿なんですよ」
「まあまあまあ。先生違う違う。トシはさ、先生が昔よりも笑うようになった事を嬉しがってるんだよ」
言われてもよく分からない。首を捻ると近藤さんは困ったように笑った。医務室から沖田さんがひょっこりと顔を出す。
「先生は自分で気がついてないんでしょうが、アンタ、愛想笑いを浮かべると綺麗すぎるんでさァ」
「綺麗じゃダメですか」
「笑顔に限らず完璧すぎるものは偽物っぽく映りますぜ。世の中の相場ってのは、ちょっと傷がある程度で丁度いいのさァ」
サド抜き王子様の沖田さんとか、マヨとニコチン成分をカットした土方さんとか、ストーカーしないゴリラじゃない近藤さんを思い浮かべた。少女漫画かってツッコミを入れそうになる。うん、確かに完璧なものは偽物っぽい。
「少し傷があるくらい、か」
化粧が落ちない程度の力で顔に手を這わせる。昔から、目の前の人の表情が曇るのが嫌で、だから可能な限り話に合わせて笑うようにしていた。そうすれば少なくともその場は丸く収まる。
ああ、そっか。そんな事を考えているから笑顔が作り物めいてるとか言われるのか。
「そうそう。普段俺が冗談言って笑う時も、完璧な感じだからさ」
「それはアンタがつまらない冗談を言うせいだと思う」
「俺はさ、そんな笑顔よりも先生がこう、くしゃって感じで笑う方が好きだ」
ここにいる三人はお為ごかしとかそんなものを言わない人だ。その信頼が言葉に真実味をもたらす。
参ったな。いつまで経っても、この人達には追いつけそうもない。追いつけない事は悔しいはずなのに、今だけは不思議な温もりがあった。むずかゆいような、泣きたくなるような。死んでもそんな事を言うつもりはないけれど。
「やだなあ。年頃の女をつかまえて、完璧な笑顔よりもちょっとボロがある笑顔の方がいいだなんて」
「事実だろ」
「だからモテないんですよアンタらは」
「違いねェ!」
すっかり夜の帳が下りた廊下に、四人の笑い声がこだました。
*
肉争奪戦の様相を呈した焼肉パーティーもお開きとなり、フリードリンクでいい感じに酔っ払った近藤さんは同じく酔った沖田さんを連れて夜のかぶき町へ消えていった。
あたしと土方さんは二人の背中を見送って、紫煙越しに視線を合わせた。
「いいんですか、あの二人について行かなくて」
「どうせいつもの『すまいる』だろ。あそこに行くと女共がやかましいんだよ」
「土方さん、見た目だけは完璧ですもんね」
「なにその言い方。土方さんの内面が完璧じゃないみたいな」
「心当たりあるでしょ」
「くっそー、口ばっかり上手くなりやがって。剣もそんくらい上手くなりゃあな」
「じゃかあしいわ」
口を開いてしまったと思った。曲がりなりにも上司にやかましいはないわ。アルコールのせいかどうにも口が軽くなって困る。
「今なんて?」
「あ、ここの角曲がったとこに飲み屋さんがあるんですけど、そこがいい感じなんですよ。まさしく隠れ家って感じで」
「おい、さっきなんつった」
「いえなにも〜」
誤魔化すとヘッドロックをキメられた。そこそこ苦しいので腕をペシペシ叩いてギブを訴える。ネオンに照らされていても顔が赤いとわかる酔っ払いは「へっ」と笑うだけで相手にしてくれない。
「なあ、なんで泣いてたんだ」
角を曲がって飲み屋さんが見えたところで解放されて、そんな事を聞かれた。弟を抱えて震える背中を思い出す。
言ってもいいかな。なぜか、そう思った。前に進むために言うべきだと、漠然と思った。
「夢を見ていたんです。昔の夢です。物心つくかつかないかくらいの」
足を止めると、土方さんもピタリと足を止めた。少し先の明るい場所に彼は立っている。視線を遠くに向ければ、江戸の象徴たるターミナルがそびえている。あの時みたいだと思った。
「昔、約束したんです。死んじゃったお母さんの代わりに、私がそーちゃんのお母さんになって、家を守る。だからお父さんは安心して仕事に行ってって」
暗がりから明るい場所を見つめる。目が潰れてしまいそうなほどに眩しい人だ。
「結局、父も弟も家も、何一つ守れやしませんでしたが」
昔話をそう締めくくる。振り返った彼は何を思っているのか、少し煙草の先を上下させた。
「失ったもんは戻らねェ」
「分かっています」
「失えば思い返す事しかできねェ」
「そうですね」
「残された人間が死者にしてやれる事なんざありゃしねェ」
この人の古傷は、きっと近い場所にあるのだと思った。この人も、取りこぼした人なんだろう。彼の柔らかい部分に土足で踏み込んでしまったような気がして、胸に鋭い痛みが走る。
「お前が出来る事はなんだと思う」
「今日、それを考えていました。3年経ってもやっぱり分からないままでした」
思い浮かべるのは、あの日の父親の背中と、楽しげに笑ういつもの三人組。真反対だけど、その光景を見て抱いた感想は同じだ。
「でも、出来なかった事は分かるんです。――もう失いたくない。何も取りこぼしたくない」
抱えて歩こうとして落としてばかりの人生だった。そんな身に何が出来るかは分からないけれど、何か出来る事があると信じたい。
「だから、約束します。次は守るって」
今日の夢の続きのように、小指を差し出す。
「あたしも、真選組を守ります」
「大口叩きやがって。……上等だ馬鹿。やれるもんならやってみろ」
貶し言葉とは裏腹に、響きはひどく優しい。手が伸びる。
「指切りげんまん――」
いつかのように、小指が絡んだ。
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