互いの急所を直撃した衝撃に悶え苦しみ。それから二人協力して、梯子を下ろしたり、籠城に必要なものをセッティングしたりし。そうしてようやく落ち着いて話し合える状況になった。
土蔵の1階。古いけどまだ使えるダルマストーブの火を灯りに、花見で使うゴザの上で二人膝を突き合わせて、状況を整理する。
「俺は薬で昏倒する寸前になんとかこの蔵に逃げ込み、そこでおそらくお前を呼び出した例の女中に閉じ込められた、と」
「以前の洗濯物の件からしばらくの間は犯人特定不能な嫌がらせだったんですけどね。それだけじゃ効果がないと思ったのでしょうか」
「俺ァとばっちり……ってわけでもねーか。元はと言えば俺に懸想してる女の仕業だからな」
「すみません、ここまでエスカレートするなら、洗濯物の件で土方さんに問い詰められた時に、正直に話していればよかったですね」
「それは……お前が恋愛関係になるとポンコツになるの知ってて、お前らのいざこざを静観してた俺が悪い。あのアマのパパなんて関係なく、『てめーになんざ興味ねェ』ってガツンと言っときゃよかった」
土方さんは紫煙を荒っぽく吐いて、苛立ちを散らすように頭をかいた。
あたしに仕事押し付けて自分は遊んでた件を土方さんが把握している以上、何があってもこの人はあの女性には靡かないだろうと思って慢心していたのがよくなかった。こうも直接的な手段に訴え出るとは。
「本当に、ごめんなさい」
「気にするな。この件は俺の落ち度もある。つーか元はと言えば原因は俺で、巻き添え食ったのはお前の方だろ。悪かったな、俺の色恋沙汰で嫌な思いさせて。俺が今回側杖食ったのは道理だったな」
といっても、土方さんだってもらい事故のようなものなのだから、彼が謝る必要なんてない。その人に頭を下げさせる原因を作った自分が恨めしい。
「呼び出しがないといいな」
「そうですね……携帯忘れちゃいましたし……」
「センター長には俺からも言っておく」
「そうですね、お願いします」
空気が重たくなったところで、土方さんはあぐらをかいたまま膝を打った。
「この話は止めだ。続きは外に出てからにするぞ」
「……分かりました」
「結果的には俺も一緒でよかった。お前一人でこんな場所に閉じ込められる方が心配になる」
「そんな、子供じゃないんですから、蔵から出られないくらいで泣きませんよ」
「どうだか。あん時はそんなに暗くない路地裏でメソメソしてただろうが」
「それ、ずっと前じゃないですか」
むくれると、それが面白かったのか、土方さんは珍しく年齢相応の屈託のない笑みを浮かべた。たまに職務を離れた時、こんな笑みを浮かべてくれるのが嬉しい。あたしがそういった顔をしてもいい相手だと認識されているのが、たまらなく嬉しかった。思わず緩んだ顔を見られたくなくて、ダルマストーブで暖を取るふりをして暖かな火の正面を向いた。
「お父さんは、悪さをするとよく蔵に閉じ込められたって言ってました」
「へえ、俺と同じだな」
「土方さんもそうだったんですか?」
「ああ。蔵があるような家だと定番らしいな」
「最初は泣き叫んだけど、二回目からは慣れちゃって、あちこち物を漁って、蔵の真剣を振り回して、中にあった由緒正しいツボか何かを壊しちゃったって言ってました。それで今度は庭の木に逆さ吊りにされたんだそうです」
「お前の親父さんも、お前に負けず劣らずの悪ガキだな」
「土方さんもそうでしょ?蔵に閉じ込められるくらいなんだから」
空気が僅かに変わった気がする。それは開けっ放しの2階への開口部から風が吹き込んだからではなく、土方さんの纏う気配が変わったからかもしれない。たなびく紫煙を見上げる彼は、何かを憂いているような、そんな顔だった。憂い顔も男前だなと思うよりも先に、胸がぐっと苦しくなった。
「まあ、確かに近所のクソガキぶん殴ったのは確かだがな――」
「どうして、殴ったんです?」
「『妾の子』って言われたからだったな」
『妾の子』、いわゆる私生児。そうか、土方さんは、そうだったのか。自分が親戚に引き取られた時の事を思い出す。なにか煩わしいものでも見るような視線。この人も、そんな視線を向けられてきたのだろうか。
「大した事じゃねェ。俺の親父の家は田舎じゃちっとばかし名のしれた豪農でな。俺は顔も知らないソイツが死んで、お袋も死んで、行き場がなくなって引き取られたのがガキの頃さ」
「兄弟がいたんですか」
「腹違いのな。だが、一番上の兄貴が俺を引き取って、手前のガキ同然に育ててくれたよ」
風防が割れたストーブの火のゆらめきに合わせて、微妙に明暗が変わる土方さんの半面像は、優しいものだった。
ホッとした。この世界が、彼に辛く当たる人ばかりでなかった事に、心底安心した。……あれ、でも、じゃあどうして過去に行った時の彼は家を出て。
「あれ、でも、じゃあどうして家を出て」
「11の頃、大火で家を焼かれた。それに便乗した暴漢が、家に押し入って兄貴の目を傷つけた。本当はやられてたのは俺だったのにな」
「…………」
「そっからの事は、俺も覚えてねェ。気が付いたときにゃ、野郎共は足元で呻いてた。そして、小刀もった俺を見つめてたのは、兄弟達の怯えた目と、えぐり出されて乾いた目玉だったよ」
この人に拾われた時に、どこか自分と似たところがあるような、そんな気がしていた。そうか。この人は、やっぱり、大切な人を護りきれなかった過去があったのか。他人を傷つけてすらも、状況を変えられなかった。そんな過去が。
目を閉じると、今でもあの光景だけは鮮明に思い返す事ができる。この人にも、近いものを見る事があるのだろうか。
「それから、俺は家を出た」
「そう、だったんですか……」
「悪かったな。こんな話して」
「いいえ。話してくださってありがとうございます」
「つまらん話だっただろ」
「そんな事、ないです。土方さんの事を知れて、よかったと思います」
過去は必ず現在と繋がっている。きっと、温かい記憶も怖い記憶も何もかもが、この人の礎になっているのだ。それを知れたのはよかった。
そこまで伝わったのかは分からないけれど、土方さんはフッと笑って、新しい煙草に火をつけた。
「俺だけが一方的にお前の過去を知ってるのも不公平だからな。丁度よかった」
そういえば、和田の件で、なんでかこの人、話した事のない過去を詳細に知っていたな。
「あれ、そういえばどうして、あたしの昔の事」
「この際だから、言っちまうか。……総悟が、昔、確か1年くらい前だったか?妙な枕を入手したんだよ」
「はあ」
「その枕が厄介な代物でな。枕を使ってるやつの夢を知り合いにも見せるっつー特性があった」
「……もしかして、あたしの枕、一時それだったんですか」
「そうだ。発信者の情報を知っていればいる程、より鮮明になるらしいんだが」
「土方さんはそこそこ鮮明に見えてしまったと」
「ああ。最終的に件の枕を燃やすまで悪夢は続いた」
「なんというか、その、すみません」
「いや、むしろお前の夢を勝手に覗き見て悪かった」
一般的に悪夢に分類される夢を延々と見せられた土方さん達に心底同情する。他の隊士も、内容こそわからない程度だったとしても、悪夢だったという感触は残るだろうし。とても申し訳ない。
「あれ、そういえば、土方さんのお兄さんはその後――」
話を蒸し返しかけて、止めた。あぐらをかいてストーブの火を見つめている土方さんの瞳は、見た事のない程、悲しげに見えたからだ。目を傷つけられた程度では人は死なないけれど、多分、病か事故かで早くに亡くなったのだろう。……だから、この人はあんなにも強くなろうとしていたのか。
「すみません。余計な事を言いました」
「別にいい」
う、気まずい。これ、何を話せばいいんだろ。顔を見れなくて、さりとてその場から逃げる事もできず、少し下がって土方さんの制服に目を落とす。……あ、ベンツ、ちょっと擦り切れてる。この布地、大きさであれば、織り込みで目立たなくできるかな。
「あああ、そうだ!あの、制服の後ろ、直しましょうか?」
「ん?……ああ、ボロボロになっちまってるな。できるのか?」
「さっき2階で隊服のズボンの切れ端を見つけたので、お時間さえいただければ。隊服を直している間は別のもの羽織って貰う形になりますけれど……」
「頼んだ」
「はい、おまかせください!」
喜び勇んで、代わりの上着と共布代わりの切れ端を持ってきて、頭につけるタイプの拡大鏡の埃を払い。奥に眠っていた裁縫道具を引きずり出して。一応ホワイトガソリンを充填したランタンも持ってきて。準備万端だ。
まずは裏地を剥がないと。裾の部分はまつり縫いしてあるから比較的取りやすそうだ。冬場は総裏だからこの作業は結構面倒くさい。夏だったら背抜きだからまだ楽……いや、夏場は生地が少し薄いから、かけはぎ自体のハードルが上がるか。良し悪しだなあ。
「予算は無限にあるわけじゃねェ。削れるところは削った方がいいからな。助かる」
「そうですね。これ、新品で買うと結構高いですもんね」
裏地を剥いで、ようやく患部が露出して、一息ついた。針先で、糸の位置を整えて、それからほぐした共布から糸を引き抜いて、制服に刺していく。
「……にしても、器用なもんだな。共布から糸を引き抜いて、それで綾を再現してるのか」
「慣れればそこまで難しくありませんよ。やってみますか?」
「いや、俺には無理だな」
布地から目を離して眉間をもんでいる土方さんに苦笑した。確かに、これを裸眼でやるのはちょっと嫌になるかも。あたしは手元灯付きの拡大鏡をつけているからまだマシだけど。ダルマストーブもいい感じの明るさだし。でも、縫い物するにはまだちょっと暗いかな。
「暗いだろ。ランタンつけるからちょっと待ってろ」
「――あ、大分見やすくなりました。ありがとうございます」
流石ガソリンランタン。明るい。このくらい明るければ、大分やりやすい。
「それにしても、お前を嫁さんに貰う男は幸せだろうな」
「へ?」
「一通りの家事はできるし、稼ぎもいいし、気性はそこまで荒くない。頭もいい。まあ、茶ァ淹れるのは壊滅的に下手くそだし、ちっと人格に問題があるかもだが――、そんなもの、些細なもんだ」
「褒めてるのか貶しているのか、どっちかにしてもらえませんか?」
「ちょっとくらいポンコツな方が可愛いもんだ。それに夫婦っつーもんは片っぽだけで成立するもんでもねェ。ソレみたいに、足りないところを補い合うもんだろ」
糸と糸が折り重なって、布になる。目の前の黒い布のように。それが夫婦なのだと土方さんは言う。そういうものなのかな。身近な夫婦であろう父親と母親は、生憎と片方しか見た記憶がなかった。
縦向きに差し込んだ糸に今度は横向きに糸を差し込んでいって、布地を再建していく。黒物は目立ちやすいんだけど、割とうまくできそうでよかった。最後の糸を通し、木枠を外せば、そんなに目立たない感じだ。あとは熱した鉄棒をアイロン代わりに接着芯をつけて、裏地やらなんやをもとに戻せば終わりだ。
「――はい、出来上がりです」
「ここに穴が空いてたたァ、言われなきゃ分かんねェな」
「他、やる場所ありますかね?よくすり減るのは袖口とか……あ、やっぱり」
「頼んでいいか?」
「はい、お任せください」
見返しと裏地の境際の糸をうまく切っていって、問題の箇所が露出すれば後はこっちのものだ。ちくちくと糸を織り込んでいく。何本か布に差し込んだところで、寒さに指が固まってうまく動かないと気が付いた。曲げたり伸ばしたり、吐息で温めたりしても、夜の寒さには勝てない。ストーブもこのだだっ広い土蔵では焼け石に水だった。悪あがきにこすり合わせた手に、大きな手が重なった。
「小さくて、冷てェ手だな」
「土方さんが冷えちゃいますよ」
「ホラ、一旦休憩してカイロ握ってろ。上から温めてやるから」
腰や背中にカイロを貼り、靴の中にカイロを仕込み、そしてダルマストーブで暖を取っても尚、土蔵の中の染み入るような寒さをはねのけるには至らないらしい。打破できない状況は気弱を呼ぶ。
「いつになったらみんな迎えに来てくれるんですかね……」
「俺とお前がいないのには、全員とっくの昔に気が付いてんだ。今頃あちこち探し回ってるだろうよ」
「三十分置きの笛にも誰も反応しませんし……」
「落ち着け。待てば海路の日和あり、だ」
「むしろ土方さんが落ち着いているのが分からないです。書類とか溜まっているんじゃ」
「俺達は今ここでできる最善を尽くしているんだ。後は天命、近藤さんを待つばかりだ」
いつもならこういう状況で冷や汗をかいているのは土方さんの仕事のはずなのに、今日の彼はずっと落ち着いているように見える。でも、確かに彼の言う通り、自分達にできる事はもうやり尽くしている。後は、外のみんなに任せよう。
気を取り直して作業を再開し、糸がはみ出した裏を処理して、裏地をもとに戻して、これで元通りだ。他に修繕が必要な場所はない。
「おまたせしました!」
「新品同様だな」
「また何かがあったらお直ししますね」
「無理するなよ」
別に無理なんかじゃないのにな、と思ったけれど、言ったところで水掛け論になるのは分かりきっている。だから曖昧に微笑んで誤魔化した。なにか言いたげな目で睨まれたけれど、こんな状況で余計な諍いを起こすよりもいいと思うのです。
「……よし、暇つぶしに遊ぶか。確か、オセロと囲碁に将棋、花札もあったな」
「将棋と囲碁はルールが全くわからないです」
「マジか。じゃあオセロからやるか。三本先取で1セット。オセロ・囲碁・将棋・花札、どれかで3セット先取して勝利な」
「負けませんよ!」
携帯型のオセロの盤面を取り出し、適当に色を決め、石をおいていく。
やっぱり一人じゃなくてよかった。
*
合間合間にご飯やトイレ、それと三十分おきの笛による呼びかけを挟みながら、勝負は続いた。
オセロは一敗したものの、あたしの勝ち。将棋は土方さんにハンデを付けてもらったけれど普通にストレート負け。囲碁も同様。こいこいは札の引きが荒ぶったせいか、二勝二敗でサドンデスの末に負けた。
土方さん、自分から遊びだって言っておいて、負けるのは死ぬ程嫌なのか、手加減が一切なかった。せめてついさっきルールを知った囲碁将棋くらいは手加減してください。
「悔しい」
「もっと精進するこったな。山崎より手応えなかったぞ」
「土方さんが大人気ないんですよ!初心者に一切手加減無しで!」
「19枚落ちのどこが手加減無しだよ!これ以上の手加減ってなんだ、本を読みながら盤面も見ずに『7六歩』とかやってほしいのか?」
完全に舐めプだけど、多分そうされても勝てない予感はあった。多分あっちの方が一段も二段も上手だ。19枚落ち、つまり裸玉のハンデで負けるんだし間違いない。
「うう、悔しいーーー!」
「フッ、なにはともあれ、俺の勝ちだ」
「どうせ敗者ですしお好きになさってくださいよ」
「じゃあ遠慮なくいかせてもらうか」
とん、と肩を押されて、あたしの上体がゴザの上に転がった。頭をぶつけないように、後頭部を支えられている。土方さんはゆっくりと覆いかぶさってきた。頭部に衝撃が加わっていないのに、頭がグワングワンする。
「ひじ、かたさん……?」
「好きにしろっつったのはテメーだろうが」
「そう、なんです、けど……」
土方さんの目、怖い。灯りなんてほとんどないようなものなのに、何の光を跳ね返しているのか、ギラギラと光っている。あたしは、暗がりでこの目をする男の人を知っている。最初は六つの時。次は七つ。最後は3年前。
耳元で心臓がうるさい。歯がガタガタと震えている。あたしを見下ろす土方さんの顔が、誰かとすり替わりそうになる。思わず左手が刀に伸びた。違うと頭では分かっているのに、体は覆いかぶさる誰かを殺せと叫んでいる。息が耳障りな喘鳴を立て、回数も多いような気がする。
体の叫びを受け入れそうになった時、土方さんの低い声が、あたしの名前を呼んだ。
「すみれ。俺の目を見ろ。俺が誰か、言ってみろ」
「……土方さん」
「そうだ。俺だ」
「あたし、」
「これから俺が何をしても、俺を信じてくれるか」
ダブりかけた誰かの顔が雲散霧消した。土方さんが、あたしの奥底まで見透かすあの目で、じっとあたしの顔を見ていた。そうだ。この人は、和田某でも養父でも不埒な隊士でもなく、土方さんだった。誰よりも慕う人。この人と一緒なら、極楽だろうと地獄だろうと些末な事だ、そう思えるたった一人。
幻に惑わされて、とんでもない事をしてしまいそうになった。しでかそうとした事の恐ろしさに体が脱力する。刀に吸い寄せられた手が離れた。抵抗をなくした腕が、土方さんの首の後ろに導かれた。普段あたしの目線からは襟に遮られて見えない項に指が触れる。土方さんは、自分の急所に触られているのに、どこか満足気に目を細めた。
「……土方さんになら、何をされてもいいです。あたし、信じます」
いつかと同じ事を言う。すると、土方さんの分厚い胸板があたしの胸の上に重なった。右の耳朶を穿っている赤い石のついたピアスをかじりながら、土方さんはあたしの耳に吐息を吹き込んだ。
「いい子にしてたら、痛くはしねェよ」
こそばゆい刺激と、何かへの期待に、体が跳ねた。
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