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二人で座って食事をするには寂しく感じる大きなダイニングテーブルを挟んで、土方さんとあたしは向かい合っている。この部屋が禁煙だと思いだした土方さんは、取り出した煙草を不承不承しまい直した。死んでも煙草を手放さないんだろうな、こういう人は。煙草の箱を眺めていると、不意に父親のことを思い出した。

ああ、そうだ。あの人もかなりのヘビースモーカーだった。その日その時の気分によって、葉巻だったり紙巻き煙草だったりとまちまちだったけれど。父親の顔はもう思い出せない薄情な女だけれど、好んで吸っていた煙草の銘柄だけは覚えてる。ピース、パーラメント、ウィンストン……。あ、目の前の人の持っている煙草とよく似たものもあった。

遠い日の残像を振り払って、質問をする。

「その、いくつか質問しても大丈夫ですか?」

ああ、と簡素な了承を受け取った。質問をざっと整理する。最重要事項は、この先自分がどうなるかの把握。正直な話、あたしの身がどうなったとしても因果応報なのかもしれないと諦める気持ちもあるけど、任せっぱなしは彼に少し悪いような気がする。次いでこの世界の概要の把握。生まれ育った場所に帰ることは最早ない。とすれば、拾われた命を自分で繋いで恩を返すためには、この世界のことを学ばないといけない。自分がどのような扱いを受けるにせよ、この人にいつまでも頼りきりという訳にはいかないんだから。

「まず、この先、私はどうなりますか?」
「それは俺も今考えてる。ただ、全てをバカ正直に明かすわけにゃいかねえ。まさか『異世界からきました』だなんざ三文小説でもあるまいし」
「つまり、ありのままの事実を述べて支援を求めるのは避けたほうがいい、ということでしょうか」
「そうなるな」

土方さんは悩ましげに頭をかいた。そりゃそうだ。警察なのに、犯罪スレスレの行為を行うことになるのだから。色々逃げ出したい。自分の無力さが悔しいし、もどかしい。自分が一人でも生きられれば。戸籍なんかなくたって生きていけたら。自分が女じゃなかったなら。どれもこれも悔やんだって意味がないけれど、そうせずにはいられなかった。

「ごめんなさい」
「あ?」
「土方さんにご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
「ったく、生意気な口叩いたかと思えば、いきなりしおらしくなりやがる。忙しい女だな」

呆れたような言葉にも、ただただ謝ることしかできなかった。肺の奥から絞り出すようなため息が聞こえて、ますます肩が縮む。

「こちとらアンタよりちょっとばかし長く生きてんだ。知恵も回るし、コネもある。子供は黙って大人に頼っとけ」
「でも、私、何もできません。何も返せません」
「今は、の話だろ。足元も固まってねえのに、恩を返す返さないっつー遠い未来の話なんざする意味がねえ」
「それでも、土方さんに何の得もない話なのに」
「俺ァ警察だぞ。今のアンタを下手に放っておいて犯罪に巻き込まれた暁には、俺の仕事が増えるんだよ。つまり、アンタがここで生きられるように御膳立てすることは、結果的に俺のためになるってこった。アンタならこの理屈、分かんだろ」

諭すような言葉を受けて、考える。確かに起きてしまった犯罪を捜査したり、とっ捕まったあたしを尋問するよりも、あたしを真っ当な道に投げ込むほうが、全体としての手間は小さいのかもしれない。そうは言われてもやっぱり抵抗があるのは否めない。表通りを行く人達みたいに、こんな小娘なんて知らぬ存ぜぬを通したっていいんだ。あたしが悪いことをして捕まったって、『こんなガキ知るか』ですっとぼければいいんだ。でもこの人はそうしなかった。泣いているあたしに声をかけてくれた。無理矢理だけど、手を引いてくれた。でもあたしには返せるものなんて、この体くらいしかない。その不釣合いが苦しい。

「まァとりあえずは、攘夷戦争の孤児で今の今まで戸籍がなかったっつー扱いにして、適当に戸籍を作らせるか……。その言い訳が通らなかったらそん時はそん時で、俺がなんとかする。んで明日は戸籍の手続きだ。戸籍が早いとこできたら、お前名義でお前の部屋を借りる。できなかったら、俺の名義で借りる。後は最低限の家具と家電、皿や服なんかの生活用品も買う」
「あ、あの、お金……」
「金の使い道がねえ独り身の道楽とでも思えばいい」

土方さんの優しさに付け入ってばかりだ。それがとても痛い。眼の前の人の顔を見ることができなくて、テーブルクロスの繊細な刺繍に視線を落とすと、盛大なため息が聞こえた。

「よし、デザート頼むか」
「ええ!?」
「なんだよ文句あんのか」
「お金」
「さっきからそればっかだな。……俺も食いたいから頼む。お前はついでだ。これでいいだろ」
「……ご相伴に預かり光栄です」

手渡されたメニューを渋々めくると、これまた見知っているようで知らないお菓子の名前。どれが無難なんだろう。土方さんの味覚って信じていいのかな。なんか、不安だ。

***

土方さんは味覚がおかしい。喫煙者の味覚ってこんなおかしかったっけ。いやあの人はそうじゃなかったよね。あたしは目の前の光景に絶句するしかなかった。

あたしと彼は、インスタ映えしそうな名前の割にごく普通の見た目の団子を注文した。そこまではいい。名前負けしてそうな地味な団子だけど、値段相応に美味しいからいい。問題は土方さんだ。もっと正確に言えば、土方さんの味覚だ。彼はおもむろに懐からマヨネーズの容器を取り出すと、赤いノズルを団子に向けた。そしてぶちゅるるると汚い音を立てて絞り出していく。マヨネーズの太いラインが引かれている。視線に気がついたのか、端正な顔がこちらを向く。嫌な予感。こういうのだけは昔からよく当たるんだ。案の定、彼は何を勘違いしたのか、串をこちらに差し出してくる。高そうなテーブルクロスに黄色いやつがかかったりしないか不安になって、反射的に皿を差し出してしまうのはあたしの貧乏性故か。

「一本食えよ。あんだけじゃ足りねえだろ」

一応お礼を口にするけれど、口角が釣り上がりながらも引きつってしまう。差し出された串を恐る恐るつまみ上げて件の物体を観察する。黄色い。これほとんどマヨだよ。三色団子なのに団子見えないよ。もうマヨだよ!この団子たった二本でいくらすると思ってんのこの人!?というか、さっきのアレはドン引きしたのであって、好奇の視線じゃないから。この人こういうときだけ感情センサーぶっ壊れるの?無意識に趣味を押し付けるオタク的性質持ちなの?それとも、生きとし生けるもの全てがマヨネーズ大好きだと思ってる?そういうのやってると嫌われるよ?

恩人に対してかなり失礼なことを考えながら、えーいままよ、と口の中に団子もといマヨを放り込む。柔らかい。口の中にマヨネーズ特有の酸味やら甘みやらが広がる。……まあマヨネーズを単体で食していると考えれば、食べられないほどではない、かな。自分から進んで食べたいかって言われれば、答えはノーだけど。こんなの毎日食べてたらあっという間に肥えるし肌も荒れる。土方さんは至って健康体の外見してるけど、これは民間人との運動量の違いなのかな?何らかの理由で代謝が落ちたら大変なことになりそうだなこの人。

「自分から豚の餌を食べるなんてすごい荒行ですね。将来の夢はフォアグラですか?」
「人の団子とマヨ食っておいてその感想ってひどくない!?」
「フォアグラがお嫌いなら霜降り肉と置き換えますか?」
「どっちも変わんねーよ!!……あー、総悟に会わせてェ。ああ、総悟ってのは、俺の部下だ。昔馴染みなんだが、アンタと歳も近えし、今度紹介してやる。アイツと気が合いそうだ」

真選組ではあたしと歳が近い人も働いているのか。どういうことをする組織なのかは今ひとつよくわからないけれど、眼の前の人の雰囲気とか、ごつごつして硬い掌とか、刀でなんとなく察する。多分、この人は戦う人だ。きっと総悟という人も、彼と同じなんだろう。それは分かるのだけど、どうして紹介する気になったのか。

「アンタも、まあダチとはまではいかなくても、話し相手ぐらいは必要だろ。ヤツも俺みたいな年上ばっかに囲まれててな、友達居ねーんだ」
「彼のほうの都合がよろしいのでしたら、その時は」
「どーせあの馬鹿はどこぞでサボってんだ。適当に呼び出すさ」
「サボってていいんですか」
「良いわけねーだろ。まァ、アイツの場合、居ても居なくても変わんねーからな……」

土方さんは黄昏れた視線を夜景に注いだ。あたしを捨て置けなかったことといい、部下に問題児を抱えているっぽいことといい、この人かなりの苦労性じゃないかな。そして、あたしはそんな苦労性の人にさらに苦労をかけている。けど、今は落ち込んでいる場合じゃない。

「もう一つの質問いいですか」
「ああ」
「そもそもこの世界ってどうなってるんですか?」

土方さんはどこから説明したもんかな、とひとりごちて、煙草の箱を取り出した。何度この流れを繰り返せばいいのだろう。名前を呼んでテーブルの上のプレートを指差せば、彼は盛大に舌打ちした。部屋を貸した人へ悪態をつく様子が微笑ましいものに感じてくる。父親も構内が禁煙になった後、何度も研究室で煙草を吸おうとして、その度に学生に怒られていたっけ。……普段はめったに思い出さないのに、今日はよく父親のことを思い出す日だなあ。

「いっそラウンジとか喫煙室にでも移動しますか?」
「いや、いい」
「でも吸えないとイライラしません?」
「まあな」
「じゃあ行きましょう。大丈夫です。葉巻の副流煙を吸って育ったのでそこそこ頑丈ですから!」
「いや、それ大丈夫じゃないから」

あたしは思う。

健康に害があるとわかっているのに、なぜ喫煙者の皆々様は煙草を吸いたがるのか、と。

***

ホテルの比較的低いフロアに位置するラウンジの一角。喫煙者の肩身が徐々に狭くなりつつある今日日、ラウンジの全席が禁煙なんてことも珍しくない世の中にあって、このホテルのラウンジにはシガーラウンジと呼ばれる喫煙可の区画があった。未成年を紫煙の中に突っ込ませるのは気がひけるが、行きましょうと背中を押されてはやむを得ない。べっつにぃ、俺ァこのホテルにとどまってる間くらい禁煙できたしぃ?コイツがシガーラウンジのシガーコレクション見たいなんていうから連れてってやるだけだしぃ?

我がコトながら大した強がりだ。だが、気遣いはありがたい。

後はアイツが着替えるのを待つだけなんだが、如何せん遅い。女の身支度は時間が掛かるもんだが、それを抜きにしたって遅い。まっさか、またアイツ妙なことしてんじゃねえだろうな。湯の中で泳ぐ黒髪を思い出す。学にはとんと疎い俺だが、真選組の医務室担当医のクソジジイから、こんな話を聞いたことがある。

自殺は衝動的なものが多い。悩みを抱えている人間が頑丈なロープや通過電車やらを見ちまった時、その選択肢が不意に過ってしまうのだと。

思い返せば、風呂のアレも衝動だったんじゃねえのか。アイツには十分な悩みがある。そんな状況で窒息するのに十分な湯を見て、自死という選択肢が過ったのだとしたら。首筋を常ならぬ汗が伝い落ちるのを感じた。

――もう変なことはしません。

その言葉と時折見せる暗い顔が同時にフラッシュバックした。まだアイツは予断を許さない状態だ。だってのに俺は暢気に何やってんだ!一度不吉な予感がよぎってしまえば、おちおちと座っても居られねェ。叩き出された部屋の前に立つ。知らずノックが鋭くなったことは不可抗力だ。

「おい、開けるぞ」

答えも聞かずに扉を開いて、俺は後悔した。部屋の立派な姿見の前には、着物の帯を何をどう間違えたのかあちこちに絡ませながら、泣き出す寸前の目で鏡を睨む女が居た。いざという時はと帯剣して部屋に討ち入ったが、事情が読めて脱力した。なんのことはねえ。いつまでも出てこないのは、着付けができねーからだった。

「どうやったらそーなんの?」
「わかりません……」
「やったことないんなら最初っから言え」
「すみません」
「あんまり遅いもんだからてっきりくたばっちまったのかと思ったぜ」
「もうしないって言ったじゃないですか」
「信じられるか」

小娘がうつむき、榛色の目が前髪に覆われて見えなくなる。影になった唇は血の色がなくなるまで噛み締められている。これ以上この話を続けようが、俺に得られるものは何もねェ。一旦ヤニを吸う気になった体はヤニを欲している。この話はやめにして、さっさと着せちまうか。頭は悪かねえようだし、そのうち勝手に覚えんだろ。

「着せてやるから大人しくしてろ」
「すみません、お願いします」
「足袋くらいは履けよ。洋装と違って全部着た後に履くんじゃ着崩れするぞ」
「あ、はい」
「よし、触るぞ」

ブラジャーを付けたままで居てくれたおかげで、やむを得ずコイツの体をべたべた触ることになるこっちの気が楽だ。買ってきたタオルを巻いて体型を補正し、長襦袢を着せて、いくつか買ってきた着物の中から一着選んで着せてやる。小紋ならあのラウンジでも浮かずに済むだろ。最後に帯を締めてやれば、そのへんにいそうな町娘の完成だ。適当に女の従業員をつかまえてやらせればよかったっつーことを思い出したのはその直後だ。

「似合うな」
「ありがとうございます」
「着方は覚えたか」
「……まだ無理そうです」
「アンタにとっちゃ不便だろうが、これも江戸に馴染むには必要なもんだ。休みの間は手伝ってやるが、その後はてめえでやれよ」
「重ね重ねすみません」

こっちもあっちも悪いことをしてねえのに、俯いてばかりの女の姿を拝むことほど、気分の悪いことはねえ。見知らぬ地に放り出されて心が弱っているだろうことを加味したとしても気に障る。

この女、自責の念が強すぎる。心の隙間に付け込む野郎どもが大勢いるこの地でこれは致命的だ。弱みに付け込まれて泣かされた女なんざ、この稼業を始めてからこっち飽きるほど見てきた。今のままだとコイツもその女どもの仲間入りをすると思うと、ため息が漏れる。なんだってここまで面倒見てやらにゃいかんのだとは思うが、中途半端に手ェ出して放り出すのは士道に反する。し、何より何度も謝られっと普通にイラつく。特にヤニ不足にあえぐ心にはてきめんだ。

ちょうどいいタイミングだ。ここで言っとくか。

「おい、もう謝んのはやめにしようや。今のアンタがやるべきことは事あるごとに俺に頭下げることか。違ェだろ。なあ。今アンタにできることを考えて言ってみろ」
「……私一人で、生きていけるように、この街での立ち回り方や身の回りのことを覚えること」
「わかってんなら謝んな。つまんねえことに思考を割く余地があんなら、他のこと覚えたらどうだ。その方が俺も楽だ」

女はごめんなさい、と言いかけ、しばらく口を閉ざす。またうつむきになる。地面に視線を注ぐ様子が、すみれの花を思わせた。いや、んな花あってたまるか。見てる人間まで暗くなるような花なんざ、あってたまるか。

「ありがとうございます。土方さんの手を煩わせずに済むように頑張ってみます」
「ああ、そうしてくれや」

泣き笑いのような笑顔は、花というには悲しいが、まあ及第点だ。

「よし行くぞ。まずはお勉強の時間だ。つっても、俺は腕っぷしばかりで学のねェ芋侍だから、教えんのは得意じゃねーが」
「その点は私が合わせますから大丈夫です」
「復活したら復活したで可愛くねーな」
「しおらしいほうがお好きですか?」

どこぞのバカを連想させる小憎たらしさだが、ずっとうつむき加減でいられた頃よりは部屋の空気がマシになった。それでいい。出会って半日も経たないごく短い付き合いだが、コイツの平常はこんなもんだと分かってきた。

「てめーのしおらしいはべそかきそうな時だろーが。そんなのの横じゃ煙草も湿気る。ガキはガキらしく笑ってろ」
「私子供じゃないです。お料理だってお掃除だって、自分一人でできます」
「そういうところがガキなんだよ。大人ってのは、わざわざてめーから大人だって宣言しねーもんだ。つーか、んなもん奉公に出てるガキンチョでもできるわ!」
「えーまじかー!」
「白々しい、驚くならもっと自然にできねーのか」

部屋でこんなやり取りを延々と続けていたおかげで、ラウンジに滑り込んだのは夜もだいぶ遅い時間だった。どっちが子供だか分かりませんね、など宣うチビの脳天に手刀をくれてやる。致し方がない事情があったにせよてめえのせいだろうが。

ラウンジは薄暗く、客はまばらだった。三味線の音のおかげでお互い無言になっても間が保てそうだ。背の低い机を挟んで一人がけの椅子が向かい合っている席を選んで座る。ちょうどいいことにシガーラウンジには誰も居なかった。小娘は外の夜景をそっちのけにして、シガーコレクションを眺めている。

「あ、これ、父親が吸ってた葉巻です」
「買わんぞ」
「いえ、ちょっと懐かしいなって。もう10年も前の話だから、覚えているのは銘柄ばかり。匂いも思い出せないんですけどね」

思わず顔が引きつる。重そうな過去がちらっと顔だしてるんですけどォ!重いよ!重いよ!父親はどーしたぁ!禁煙だよね、君のパパ禁煙したんだよね!禁煙10年も続けるってすごいなあ!自分の直感に背いた花畑地味た解釈を、慈しむように葉巻を見つめる目が簡単に打ち砕く。あ、お父さん死んでるわこれ。

そんな寂しそうに笑われると、こっちが悪いみたいじゃねーか!折角憎まれ口が戻ってきた矢先に!

「すみません、これください」
「買わないんじゃなかったんでしたっけ」
「いいんだよ。たまには葉巻も悪くねェ」

要は煙草と同じだ。なるだけ冷たい煙を楽しむ。それだけなのだが、さて、どうやるんだっけか。映画とかでどうしてたっけ。とっつぁんとか竹内アニキとかどうやって葉巻に火ィ付けてたっけ!?悩んでいるとするりと葉巻が奪われ、店員から拝借したカッターで手際よく葉巻の吸口が作られる。あっという間に火まで付けて手渡された。コイツの親はガキに何教えてたんだ。微妙な気分を抱えつつ一吸いすると、まあ美味い。が、こんなめんどくせーもんいちいち吸ってられっか。

「父親に言われて作ってたので」
「そうかよ。……それ、親父の形見か」
「今では唯一の」
「葉巻といい、そのライターといい、アンタの親父は随分こだわりがあったんだな」
「そうかもしれません」
「事故か?」
「殺人です」

いとも簡単にぶつけられる重い過去来たァ!コイツの10年前って7歳とかそんくらいだよな。コイツ若いのに人生ハードモードじゃねーか!神様コイツに何の恨みがあったの!?

「そ、そっか〜。若いのに大変だね〜」

家事掃除が全部できるってこたァ、今まで一人暮らしか放任だったつーことか。雰囲気がどことなく孤独を感じさせるが、そんなコイツでもこの状況は堪えているらしい。……こりゃしばらく面倒見てやんねえとダメかもな。ここで手ェ離して、何日化してドブ川さらったらコイツが出てきましたなんてことになった暁には、その後何日か目覚めが悪くなっちまう。

「親父が死んで、お前も殺され、しまいにゃこんな場所に放り出されるか。神様かなんかに祟られてるとしか思えねェな」
「賽銭箱に50円しか入れなかった程度で祟ってくる神様とか嫌です。それに私が死んだのは自業自得です。……あと、私、恵まれなかったわけじゃありません。後見人さんは財産を横領しなかったし、孤児院の先生もちゃんとご飯食べさせてくれたし、学校にも行かせてくれました」
「いや、両方当たり前だよね。全部君が受けるべき権利だよね。健康的で文化的な最低限度の生活だよね」
「後見人さんも先生たちもちゃんと私を見守ってくれました。相談にも乗ってくれて、一人でも生きていけるように、私に生活の方法を教えてくれました。それに、こんな場所でも、私に手を伸ばしてくれる人に出会えた。だから、私は恵まれています」

決然と顔を上げる女の顔には、それまでの悲嘆はなかった。今にも折れそうな心で懸命に立っている馬鹿な女の顔だった。知らず笑みが溢れてくる。そんな顔もできんじゃねえか。

「そうかい」
「はい、そうなんです。そして、土方さんにしか頼めないことがあります。いくら家事掃除ができても、自分から変な人に接触してしまうようでは、色んな人の努力が無駄になってしまいます」
「この星の歴史か。どっから説明したもんか」
「では江戸にぶんぶん飛んでるでっかいのがいることについての説明からでお願いします」

ざっと順を追って説明する。17年前、この星に突如として押し寄せた天人のこと。幕府はヘタレて開国し、反発した侍――攘夷浪士もしくは不逞浪士どもによって攘夷戦争という内戦が起きたこと。7年前の大きな戦争を最後に内戦状態から脱したが、未だに天人を追い出すのを目論む連中が粛清より生き残り、テロを始めとする反幕府活動、即ち攘夷運動を行っていること。そして俺達が武装警察真選組として攘夷浪士達を取り締まっていること。大まかな流れだけだが、それでも目の前の女の度肝を抜くには十分だったらしい。

「神様かなんかに祟られてるんじゃないですかこの世界」
「神様じゃねえがゴリ」
「土方さん、指、指」
「あっち!」

いつの間にか火が指先に近づきすぎていたらしい。指の股を焼いて情けねェ声が漏れる。葉巻を手放して、小娘の心配する声に短く答える。小娘は机の向こうから手を伸ばし、俺の手をとった。

「大丈夫です、冷やせばそんなに酷くはならないと思います。お水と器借りてきますね」
「悪い」

女はそう言って一歩踏み出し、着物の裾を踏ん付け、コケた。……こりゃあ、歩き方から教えねーと話にならねェな。

***

鼻を床にぶつけながらも、冷やすものを持ってきて、土方さんに手渡す。彼はあたしを憐れむような目で見ている。指を冷やしてふう、とため息をついた彼は、あたしに手招きをした。

「裾踏んだから裾が落ちてんぞ。整えてやるから後ろ向け」
「あ、ハイ」
「ったく。あんな大股で歩くんじゃねえ。さっきみたいにすっ転ぶぞ」
「気をつけます」
「普段も洋装か」
「はい」
「お前さんにとっちゃ慣れた服装がいいんだろうが、全身洋装じゃどうやっても浮いちまう。慣れるまでは我慢してくれ」

土方さんは手際よく裾を直していく。できたぞ、と背中を軽く叩かれ、ひとまずお礼を言って席に座る。

セーラー服を着て街を歩いていたときのことを思い出す。人混みの中ではあたしの格好を気にする人はあまり居なかったけれど、ちょっと人の少ないところにいけば、じろじろと見られていた。やはり頭のてっぺんから爪先まで洋装でいると目立つのだろう。

木を隠すなら森の中という言葉を思い出す。異端かつ非力な自分を隠し身を守るには、周りに溶け込めるような格好をするしかない。攘夷浪士達の攻撃目標には幕府だけではなく天人も含まれていることがあると土方さんが言っていた。大部分の町人たちが和装の中で洋装でいれば、天人もしくは幕府の要人の子などと誤認される可能性が高い。せめて自分がどうにか身を立てるまでは、和装がメインになるだろうか。裾を踏んで転んだことを思い出すと気が滅入るけれど、これも生きていくため、ひいては彼に恩を返すため。仕方がない。

土方さんが葉巻を吸っている間に、この世界の風俗を勉強しようとマガジンラックから適当な雑誌を手に取る。どこにでもありそうな大衆向けの雑誌の裏表紙に、こんな広告がでかでかと載っていた。

――医術開業試験受験者求む!

江戸の医学を云々とかいう、いかにも公的機関が考えましたというなんとも野暮ったいセンスのキャッチコピーは正直どうでもいい。その下の立身出世、お家再興の早道!という文字列に心が動かされた。正確には前半の立身出世の部分。

「医術開業試験……?」
「ん?ああ、天人が来てからというものの、医学も目覚ましく発展してな。今までの漢方医だけじゃ江戸の医学の発展にゃ到底おっつかねえってことで、天人の最新の医学知識を身に着けた人間に、医者としての免許を授けようって話だ。1年半の修学のみが条件で誰でも受けられる、いわば立身出世の捷径ってんで、江戸どころか日本中の貧乏なインテリ共がこぞって受ける試験だよ。……それがどうかしたのか」

身を立てる。今、あたしが必要としているものがそれだった。少しでも早く身を立てることができれば、その分だけ早く土方さんに恩を返せる。あたしの知る時代であれば、医者になるためには医学部を卒業しなければならなかったけれど、ここではそうでない。学歴ナシ、技能ナシ、腕っぷしナシ、愛想もナシ。無い無い尽くしの女にとっては天啓に思えてきた。

「あの、土方さん」
「なんだ」
「この試験の受験資格は本当に1年半の修学だけなのでしょうか」
「ああ。だが、生半可な気持ちで受けるもんじゃねェ。恐ろしく合格率が低い。修学は1年半だが、前期試験と後期試験、この2つの合格に10年なんざザラだ」
「10年」

自分の今の年齢に10年を足してぞっとした。イメージが湧かないどころか生きているのかさえわからない。あたしはさておいて、恩を返すべきこの人が10年後にも生きているのか。人を斬り、毒煙を飲み、マヨネーズをこよなく愛するこの人も、そう長生きしそうにない。

「それに一応は独学でも合格できるとは言われちゃいるが、実際は予備校に通っている連中も多い。今のアンタの状況からするとほぼ間違いなく独学だろうが、完全に独学で事をなしたやつは聞いた限りじゃほぼいねェ」

三味線の音が遠い。思いつきで言ってしまったことに少し後悔の念を覚え始めた頃、土方さんは溜息をつくように紫煙を吐き出した。

関係ない話だけど、葉巻も似合う人だなこの人。ただ、記憶の中の人よりも少し忙しない吸い方をしているように思う。まだるっこしいのが嫌いな性分なのか、普段の仕事が忙しくて嗜好品を味わう余裕に乏しい人なのか、それともただのヘビーでチェーンなスモーカーなのか。多分全部だなこれ。

関係ない思考を打ち切るような「だが」の一言で我に返った。

「だが、アンタが本気でこの試験の合格を目指すのなら、紹介したいジジイがいる。真選組で俺達の面倒を見ている医者なんだが、コイツがクソジジイでな。年食ってるくせにガキの一人も居ないせいで、てめえの診療所の存続が危ういときた。ジジイがくたばりゃ、日頃の行いっつーか評判のせいで俺達の面倒を見る医者がいなくなる。俺としてもそれは避けたい」
「お医者さんがよってこないって何やってるんですか」
「まあ、ちょっとな。それはさておき、そんなところに現れたのがアンタだ。アンタがジジイの後継者になってくれるんなら、ありがてえのは間違いねェ。医者の確保のためっつー大義名分がありゃあ、アンタの存在が隊に露見してもやりやすい」

土方さんは刀のように鋭い目を向けた。まるで見定めるような視線に自然と背筋が伸びる。

「だが、前期と後期、どっちかでも試験を落としたらその時点で俺の援助は無いと思え。こっちも使えねえ奴のために金をやるほど有り余ってる訳じゃねェ。それでもやるか?」
「……考えさせてください」
「慎重だな。……まあここで即答されても、今日はもう遅いからジジイには会わせられねェからいいんだが」
「ありがとうございます。明日には結論を出したいと思います」
「ああ、アンタの人生だ。ゆっくり考えろ」

土方さんは鋭い目に似合わない柔らかい視線を注いでいる。煮え切らない回答にてっきり苛立つと思っていたのだけど、予想外の目に少し驚いた。決して悪いことではないのに、座りが悪くなるような、それでいて不快ではなくて、こそばゆいような。胸の内に湧いたこれは一体なんだろう。

胸の内に湧いた感情に名前をつけることができないまま、ラウンジを後にした。
夢か現か幻か(無題の続き)

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