something | ナノ
(ン年前まだ高校生だった頃に書いた話)
(若干手直ししましたがあまり変えてません)

今、自分が置かれている状況を表すならば、知っているようで知らない場所。少し名前の違う通り、中途半端に和洋が混じり合う建造物、いっそ猥雑と言ってもいい位にネオンに彩られた看板たち、縁日でもないのに和装を自然に着こなす人々、洋服を身に纏う人とは思えない容貌の何か、ちらほらと見つかる打刀を下げた男性。人々の服装はコスプレとは思えないほど緻密だし、異形の者の顔も和洋折衷の街並みもとても張りぼてには見えない。

雑踏の中からちょくちょく聞こえる単語からして、江戸時代の江戸にいる、らしいことは分かった。だけど、断じて言わせてもらうと、あたしが知っている江戸時代に携帯電話はなかった。高層ビルもなかった。みょうちくりんな頭をした生き物も歩いていなかった。頭上を妙な形をした飛行機が飛んだりしていなかった。

何かが絶対におかしい。

どうしてこうなってしまったのだろうか。妖怪によって井戸に引きずりこまれたわけではない。天才高校生発明家の後輩兼彼氏が開発した、風圧で作動するタイムマシンを背負って屋上から飛び降りたわけでもない。ただ、きちんと学生としての本分を終えて、家に帰り着いただけなのだ。汗を拭い拭い玄関の扉を開けようとカバンを覗き込んだら、薄暗い裏通りに佇んでいた。最初はとてもよく出来た夢だと思って頬をつねった。……痛かった。痛みで飛び起きて、夢だと分かることはなかった。とても残念なことだけども。

ここが夢の世界ではないと分かったとして、これからどうしよう。まさか、こんな場所にほっぽり出されたあたしに戸籍があるなんて都合のいいことがあるはずもない。かといえ、誰かの戸籍を買うにせよ、その伝手がないし、そもそも今の所持金は四千円だ。戸籍を買う以前の問題で、まともなホテルにはとても泊まれない。漫画喫茶であれば、数日は持ち堪えるだろうけど、雇い先を見つけなければあとが続かない。雇い先を見つけるには戸籍が必要。でも戸籍を獲得しようと思えば、お金がいる。ひょっとしたら、記憶喪失だと嘘を吐けば、戸籍はもらえるかもしれないけれど、何かの拍子にボロが出ても困る。戸籍が獲得出来ないのなら、戸籍がいらないような職業に就くか。でも、そんなところは、ヤのつく自由業の鉄砲玉か、闇医者、非合法の風俗、その辺りのブラックもいいところな職しかない。どう足掻いても、お先真っ暗だ。そんな仕事選んだら、戸籍を取ってもロクでもないのが人生の汚点としてつきまとってくる。かといって橋の下で暮らすような度胸もないし……。

妙な世界に来たはいいけど、一体どうすればいいのか。

冷静になると、それまで感じられなかった寒さが一気にやってきて、思わず、自分の腕を抱きしめる。それもそうだ。さっきまでは、確かに真夏だったのだ。夏休み前の午後一時だったのだ。それがどうしてか―行き交う人々によると―師走、それも午後九時過ぎになっている。しかも、先ほどまで汗をかいていたせいでひどく冷える。とりあえず、冷房病対策の薄手のカーディガンを羽織ったけれど、冬の寒さはこんなものでは防げない。まずは、服の調達が先か。だけど、和服の着方もロクに分からない。それに、今の持ち金ではとても和服なんて買えないだろう。というか、あたしが持っているお札が使えるのかどうかも疑わしい。

一体どうすればいいのか。心の中で先ほどと似たような問いを思い浮かべた。でも、答えは依然として見えない。分からない。

寒さで気が弱っているせいか、依るものがいない心細さ故か、先の見えない不安からか分からないけれど、目の前が滲んで見えてきた。ここはどこ。あたしはどうすればいいの。どこに行けばいいの。寒いよ。お腹すいた。帰りたい。ご飯を食べてお勉強して、お風呂にゆっくりとつかって、暖かい布団で眠りたい。寂しい。怖い。

不安や恐怖が次から次へと溢れてきて、気がついたら、地面にへたり込んで、幼子のように泣きじゃくっていた。

「おい、どうした」

唐突に声をかけられて、びくりと体が震える。声をかけられてようやく、自分がへたり込んでいる場所は路地裏といえど、天下の公道であることを思い出す。途端に人目が気になったけれど、道ゆく人は、皆、あたしに関心を払うことなく歩いていく。例外は目の前に立っている男性だ。

「なにかあったのか?」

あたしは泣き止まなくては、と目元をハンカチで乱暴に拭った。だけど、涙はなかなか引っ込んでくれない。泣き声を聞かれたくなくて、彼の言葉にただ黙って首を振る。

「何があった」
「…………」
「んな薄暗いところでメソメソしておいてだんまりはねーだろ。おい、ここじゃあアレだから立て」
「ほっといて、ください」
「おめーを放っておいてなんかあったりしたら、俺の目覚めが悪いんだよ」

低い声はどこかぶっきらぼう。言葉のところどころにしゃっくりが混じっていることから酔っていると分かる。阿呆らしいやり取りに、涙も引っ込んだのが分かった。こんな押し問答でも人と会話ができて、酔っ払いだけど誰かに心配してもらえて、少し、少しだけ気も晴れたのだ。だからなのかもしれない。ついうっかり余計な一言を言ってしまった。

「アンタの都合なんて、あたしは知らない」
「……ほーー。そうかそうか。じゃあ……」

低い声がさらに低く、地を這うような低さに変わった。しゃっくり交じりなおかげで迫力はない。相手はただの酔っ払い。そのはずなのに、背筋が凍るような感覚がして、男性に顔を向けると同時に勢いよく腕を引かれる。遠慮のない力に引っ張られて大通りに引っ張り出される。とっさに、視界の隅に入った通学鞄をひっつかんだ。

「俺もおめーの都合なんざ、考える必要ねーよな?」

腕を引かれながら見た男性の顔に、ぞわりとするものを感じた。打刀を下げているということは、お侍さんだろうか。無造作に整えられた黒髪は短い。全体的に整った、どこか冷たそうな顔立ち。背は高い。着流しがよく似合っている。

ただし、整った顔には、犬歯をむき出しにした、人を癒すとか励ますとかというよりも、どちらかというと他者を威嚇する効果の方が高そうな笑顔が浮かんでいた。よく見ると、こめかみには青筋が浮かんでいる。こんな表情が似合うのは、お侍さんというより、ヤのつく自由業の若頭だ。ちょっと怖い。

……人は見た目ではないという。だけれども、やはり、だいたいの出会いにおいてまず最初あたりに見るのがその人の容姿である以上、容姿も人の魅力を構成する一部であると思う。……見目麗しい人でなくとも十分魅力的な人は少なからずいる。逆に見目麗しくても内面が驚くほど醜い人間もそれなりにいる。別に見た目がこの世の全てではない。

……長々と言い訳らしき口上を述べていたけれども、彼につい見とれてしまったのだ。切れ長の目の奥に宿る強い光に。少なくとも子供ばかりだった自分の周りにはあまりいないタイプだ。そのためか、何となく、気になる。怖いけど。

「あの……」

あたしの腕を掴んだまま早足で街を歩く男性。携帯電話で誰かと話をしている。時折彼があたしをちらりと見る。そんなことしなくても腕の感触でいるかいないかは分かるでしょうに。
二十代そこそこの男と歩く十七の小娘。周りの人は誰一人、あたし達に気を払っていないとしても、ちょっとこの状態は恥ずかしい。第三者からみたらこれってラブホテルに向かう援交少女とその相手に見えないかな。……うーん、すっごく犯罪チック。彼女さんにでも遭遇したらこの人、あらぬ誤解を抱かれちゃうよ。ロリータに出てくるオッサン扱いになっちゃうよ。下手したらこの人逮捕されちゃうよ。

「あの、腕を離していただけると」
「駄目だ。腕離したら、お前逃げるだろ」
「今更逃げも隠れもしないので離してください。……腕が痛いです」

パッと腕が離された、と思ったら、今度は手を繋がれる。思わず目を見開いた。硬くて熱くて大きな手。それに比べて、冷え性の小さなあたしの手。手一つとってもこんなに違う。父親以外の異性に手を繋がれたことのないあたしにとっては、初めての経験だ。
無意識の内に、繋がれた手をじっと見つめていたらしい。男性が怪訝そうな顔をしてあたしを見つめていた。

「なんだ。文句あんのか」
「こっちはこっちで気恥ずかしいです」
「あーいえばこーいう。おめーの言うこと聞いてたらキリがねー」

……なんか、より犯罪的な光景になった気がする。これじゃあ、完全にこの人、買春してますの状態だよ。さっきよりもマズイよ。恥ずかしいし。だから、意を決して、この人に現状を伝えることにした。

「この状態って、家出少女を買った男が連れたってホテルに向かう図ですよね」

空気を噴き出すような音と共に、男性がつんのめった。何度かジタバタして、それでも地面に倒れることはなかった男の人は、あたしをその鋭い目で睨んだ。だけど、赤ら顔で睨まれてもあんまり怖くない。

「婚前の娘がなんつーこといってんだ!つーか誰がてめーみてーなガキに欲情なんかすっか!」
「うわぁ、すっごく失礼です」
「十代前半の餓鬼なんざ誰が買うか。ロリコンじゃあるまいし」
「十七ですけど」
「は?」
「私、十七です」
「わかりやすい嘘つくんじゃねーよ!どっからどー見たって十三とかそんなんだろ!」
「十七ですって!というか、あなたがロリコンであろうとなかろうと、周りからそう見えることそのものが問題です」

まじまじとあたしの顔を見つめるその人の顔には「こんなチビが十七なんて嘘だろ」という文字がはっきりと浮かんでいる。低身長で悪かったな。成長期はとうに過ぎたからこれ以上伸ばしようがないんだ。

彼は頭のてっぺんからつま先まで眺めて、胸のあたりで目を止めた。自意識過剰でなければ、視線の先はセーラー服を押し上げる膨らみだ。赤のスカーフではない、はず。男性はそっぽを向いてなにか独り言をぶつぶつ呟いて、またあたしに向き直った。

「ついて来い」

どうやら、男性は今の自分がどういう目で見られるのかを正確に把握できたらしい。今度は腕をつかまれることも、手を繋がれることもなかった。あたしの胸の奥を何かが刺さったような鋭い痛みが走った。……自分で触れ合わないよう仕向けたのに、おかしな話だ。

*

ついた先は、あたしとこの人が接触したところからさほど遠くない高級ホテル。入口にはきちんとホテルの制服を身にまとったドアマンが立っていてドアを開けてくれた。ロビーには綺麗なシャンデリアがぶら下がっている。シャンデリアの飾りがキラリと光る様は目に痛い。

……さっきの電話は、部屋を取るためのか。

びっくりしてロビーで立ち止まるあたしをおいてスタスタと歩いていた男性だけど、しばらくして、怪訝そうな顔で振り返った。

「んなとこで立ってんな」

あたしはその言葉に弾かれたように動いた。気のせいかチラチラと視線を向けられている気がする。それもそうかもしれない。和服中心のこの街で、セーラー服を身に纏う人間は異端中の異端だろう。この人が容姿端麗で、刀を持っているせいもあるのかもしれないが。あたしは視線を気にしながら、彼の隣を歩いた。こうして彼と並んでみると、結構身長に差がある。三十センチ近くあちらの方が大きい。

「こんな高そうなホテル」
「このまま屯所に帰ったら面倒なんだよ」
「だからって」
「いいから、ついて来い」

エレベーターの前で再び手を取られる。あたしの手をすっぽりと覆う大きな手。やっぱり熱い手だ。大人の男の人の手。それがあたしの手に触れているだけなのに、胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。乗り込んだエレベーターはぐんぐん上昇する。階を登るに連れて、あたしの緊張もどんどん高まっていく。意図せずにして、男性の手を強く握ってしまう。

「やっぱ、冷えてんな」
「へっ?」
「おめーの手だ。ま、あんな寒空の下でそのペラッペラの格好じゃ、冷えて当然だ。なんせ今日は今年最後にして最大の寒波らしいぞ」
「そう……なんですか。どうりで冷えると思っていました」
「屯所の奴らは雪が降るとか何とか言っていたな」
「……屯所?」
「ああ、俺は」

男の人が、何か言いかけて、エレベーターが目的の階に到着したことを告げた。すっと手が離れていく。あたしは残念な気分に浸りながら、エレベーターを降りた。

上から数えた方が早い階にあるフロントで「本日このホテルを予約したヒジカタですが」と名乗った彼は、係りの人に付いてホテルの廊下を歩いている。この人ヒジカタさんっていうのか。肘肩……違うよね。心の中でヒジカタさんの漢字を考えながら、私は彼の後を歩いた。真っ赤な絨毯は汚れやシワがない。長いこと履いていたせいで、靴底に穴が空いてそこから石が入っているローファーで歩いているのに、足音がほとんどしない。絨毯にどれだけお金がかかっているのかを考えるとこの上を歩くことに抵抗を感じた。

この階層はいわゆるエグゼクティブルームが集まっているらしい。その証拠に、すれ違う人の身なりもかなり立派だった。首から上は犬っぽかったけど。セーラー服や着流し姿のあたしや彼は少し浮いているらしい。その犬っぽいのに結構ジロジロ見られた。

「客とあんま目ェ合わせんな。絡まれるぞ」

腕を引き寄せられて、耳打ちされた言葉に素直に頷く。男性はほんの少し目を細めて口角を僅かに上げた。……ひょっとして、笑っているの?

「こちらでよろしいでしょうか?」
「ああ。いきなりで悪かったな」
「いえいえ。我がホテルはヒジカタ様に助けられたようなものだと支配人が常日頃仰っておりましたから」
「……それは半分嫌味だろ」
「……否定はしません」

苦笑気味の案内人は「ではごゆっくり」という言葉を残して去って行った。会話の後半あたりから苦々しいと言わんばかりの表情をしていたヒジカタさん(仮)。一体このホテルとヒジカタさん(仮)の間に何があったというのか。

部屋の出入り口の近くでぼんやりしていたあたしを他所に、彼は部屋に入るなり、照明と暖房のスイッチを入れ、ユニットバスの扉を開けて、大きなバスタブにお湯を貯め始めた。さすがエグゼクティブ。お風呂も立派だ。

「何そんなところで突っ立ってんだ。さっさとこっち座れ」

ヒジカタさん(仮)が示すのは窓ガラスにほど近い椅子と小さなテーブル。カーテンはまだ閉じられていなくて、窓の向こうには夜景が広がっている。美しい眺めに思わず感嘆の声をあげてしまったけれど、普段家から眺めている夜景とは全く違うそれに少し心が暗くなるのを感じた。

あたしは元の場所に帰れるのだろうか。漠然とした不安が胸の中を覆い尽くしていく。さっきまでヒジカタさん(仮)と手を繋いでときめきを感じたことが嘘のようだった。

「そんなに夜景が珍しいか」
「……そう、ですね。初めて見ます」
「その割には、シケたツラしてんな」
「……ごめんなさい」
「これでも飲めや」

ゴトンと鈍い音を立てて置かれたのはお茶が入った湯呑。香ばしい匂いはほうじ茶だろうか。どうやら彼なりにあたしがリラックス出来るように気を遣ってくれたらしい。不器用だけど優しい人。きっと、根っこから悪い人ではない……よね?ちょっと怖い人だけど。お礼を言ってちびちびと飲む。胃の辺りが暖かくなった気がした。

「飲まないのですか?」
「俺はこっちでいい」

土方さん(仮)はそう言って備え付けのコーヒーメーカーを指差す。知っている物とは微妙に違う形。自分はこの世界ではとことん異物だ。そう思い知らされた気がして顔を伏せた。

「またシケたツラだ」
「……本題は、何でしょうか」
「まァ、そんなに焦るなや」

ヒジカタさん(仮)は酒が入っているせいかそうでないのか分からないけれど、楽しそうに喉の奥で笑っている。笑っているだけなのに、寒気とは違うもので体が震えた。きっと、あたしの恐怖を煽ったのは、彼の笑う仕草だけじゃない。目の前のこの人が、笑いながらも、その双眸に光を宿しているせい。まるでよく切れる刃物のような光は、あたしを逃がさないとでも言いたげだ。

……ついて来るんじゃなかった。そう強く思った。この人に何かされる前に、このまま走って部屋の入り口のドアを開けて……多分無理だ。そんなことをしようものなら、この人は、すぐそばに立てかけてある刀であたしを斬り捨てるだろう。斬られはしなくとも、それなりに痛い思いをするのは確実だ。痛いのは嫌いだ。どっちに転んでも痛い思いをするのには変わりない気がするけれど。

……やっぱりついて来るんじゃなかった。

「今更後悔しても遅いぜ。……お前もバカだ。仮にも年頃の娘が、軽々しく男に着いていくもんじゃねー」
「用事が済めばさっさと、」
「出ていくから本題を言えってか?短気は損気だぞ」
「私以上に短気そうな人だけには言われたくないです」
「へェ、俺のことをよぉーく見てるじゃねーか。まァ、そうだよな。……この部屋に入るまで、ずっと、俺を見つめていたもんなぁ?」

あくまで気丈に、自らの怖気を悟られまいと減らず口を叩いてはみたものの、ニヤリと笑う彼の指摘に絶句してしまった。反論しようとして口を開いたはいいけれど、唇が震えている上に頭が真っ白になって言葉が出てこない。見透かされていた悔しさやら羞恥やらで顔が熱い。きっと、酔っ払いの彼よりも赤い顔をしている。この人、全然いい人なんかじゃない。

「か、からかうのはやめてください」
「顔真っ赤だぞ」

いちいちこの人の相手をしていたら夜が明けてしまう。そう思ったあたしはそれまで彼に向けていた視線を夜景に逸らした。

「図星を指された位で、拗ねるなよ」
「酔っ払いの相手が面倒になってきただけですよ」
「俺ァ酔ってねーよ」

酔っ払いほどそう言うんだよ。内心で野暮なことを言いながら、ちらりとヒジカタさん(仮)を見遣る。やはり顔が赤い。この人はコーヒーよりも水を飲んだ方が絶対いい。

「茶番はこれくらいにして、本題、だな」
「最初から茶番抜きにやってくださると嬉しいのですが」

ボソっと注文をつけたあたしを一睨みして、フンと鼻を鳴らす。一瞬だけ、メドゥーサに睨まれて石になった者の気分が分かった気がした。やっぱりこの人堅気じゃないよ。それはこの人が刀を持っている段階で分かってたことだけど。

ヒジカタさん(仮)は机の上においてあったメモ帳にボールペンでスラスラと文字を書いていく。意外にも整った字に目を見張りながら、見せられたそれを読み上げる。

「シンセングミ、ヒジカタ、ジュウシロウ」
「とうしろう、な」
「失礼しました。ヒジカタってこう書くんですね。分からなかったです」
「よく言われるな」

名前だけを伝えてぼんやりと考える。
曲がりなりにも高校生という身分だったので、生徒手帳が身分証明書だったのだが、ここではあまり有効ではないだろうから出さない。

そう言えば、「シンセングミ」なる組織に聞き覚えがある。

土方さんが書いたのは真選組。私が知っているのは、新撰組の方だし、たしか新撰組は京都のはず。江戸にはいない。やはり別世界、と考えるのが自然かな。細かい人名はよく知らないが、多分、なんか違うだろう。そもそも、あたしが知る幕末にはこんな高層ビルは無かったし、街灯は全て電化されていなかった。いいとこガス灯でしょ。

しっかし、参ったな。あたしは理系だから、地理しかとっていない。全く違うこの世界でも、多少知識があれば、切り抜けられることはあっただろうに。

こんなことになるんだったら、日本史を取るべきだった、と後悔しても正しく後の祭り。この人について来てしまったことといい、人生は戻れない選択肢の連続とはよく言ったものだとつくづく思う。でも、幕末から明治維新辺りの混沌って覚えるの面倒なんだ。WWTとかWWUは割といけるんだけど。

「おい、聞いてるか」
「すいません。聞いていませんでした」
「人が親切にしてやりゃお前は……」

ヤバい。怒らせた。どうか斬られたりしませんように。顔にそう思ったのが出ていたのか、土方さんはこれみよがしにため息をついた。

「もう一度言うぞ。お前はどこから来た」

核心をついてくる。酔っ払いのくせに。内心で毒づいた。……きっと、生来勘の鋭い人なのだろう。でも、今はその勘の鋭さを恨みたい。けど、彼をなんとか納得させられれば、帰る糸口が見つかるのかもしれない。

「えっと、どうして?」
「最初はそのセーラー服。ただのコスプレかと思ったが、コスプレ衣装みてェに安っぽくねェ。天人を興味深そうに眺めていたからお上りさんとも取れないこともねーが、その割には泥臭さがねー。……それにだな」

土方さん(確定)はゆっくりと立ち上がり、私の前に立つ。キョトンとしたまま動かないあたしを他所に、土方さんは私の胸元付近に視線を合わせてしゃがんだ。土方さんの大きな手がカーディガンの小さなボタンをプチプチと外していく。

「やっぱりな。臭いっつーのは、密室だとよく分かるんだよ。……誰にやられた?見たところ致命傷のようだが、どうやって回復した?」

カーディガンの下には、血に染まったセーラー服。百貨店ブランドのそれの胸のあたりには可哀想なことに、切れ目が入ってしまっている。ここまで出血しているということは、即死を免れたとしても、失血死だ。……私は普通の人間だ。刺されたら普通に痛いし死ぬ。誰にやられた?どうやって回復した?……そんなのこっちが聞きたいよ。

「確か私は、学校が午前授業で、家に入ろうとして……あ」

胸の赤い染みを見て、目を閉じて、行動を思い返していると、家の鍵を取り出そうとカバンを覗き込んだ後の事が頭に浮かんだ。

焼け付くような胸の痛み。胸元をみると、銀色の刃がにゅっと飛び出している。そこからじわじわとセーラー服に赤いシミがひろがっていく。次の瞬間には、銀色は胸から引っ込んで、あたしは、地面に倒れていた。そして、私の顔をしげしげと覗き込む彼女の顔は一瞬――。

「大丈夫か。顔が青いぞ」

あたしを心配した土方さんの言葉にも返事ができないくらい私は混乱していた。

――いや、まさか、そんな……、そんなこと、あるはずがない。

落ち着いて返答しようと深呼吸をしても息が苦しい。唇が痺れる。胸を抑えて椅子から崩れ落ちるようにして地面に横たわる。

苦しい。死ぬ。吐き気がする。嫌だ。怖い。苦しい。

「これ使え!」

手渡された紙袋で口と鼻を覆って袋の中の空気を何度も吸ったり吐いたりする。そうしているうちに、普段通りの呼吸が戻ってきた。ふっと一息ついて体を起こす。土方さんは、体に手を添えて、身を起こすのを助けてくれた。

「まだ顔が白いが、もう大丈夫だな」

こくりと頷く。もう息苦しさも唇の痺れもない。顔が白いのは、きっと、思い出してしまったから。

どうしてこんな重大な出来事を忘れていたのか。

「家に入ろうとして、鍵を探すためにカバンを覗き込んだ時、後ろから刺されたんです。そしたら、あそこにいました」
「刺されるってお前、何の恨み買ってたんだよ」
「それは、人生長いこと生きていれば恨みの百や二百買うこともあるでしょう?」
「……もういい」

お前はどこから来た。もう一度同じ質問を繰り返す土方さんにため息をつく。すると、文句があるなら口で言え、と凄むような口調で言った。目がすごく怖い。もう一つため息を漏らして、無言でカバンを漁る。一冊本を取り出してざっと中身を確認して、椅子に座っていた土方さんの前に差し出す。

「あまり、私自身も信じたくはありませんけれど、多分、違う世界から来ました。証拠と言ってはアレですが、ドウゾ」
「……『第一次世界大戦』こっちは『第二次世界大戦』」

夏休みの課題学習の資料にと購入した写真集だ。両戦争の二つの陣営の資料。それなりに値段もしたが、その分、写真も多い。パラパラとしか見ていないけれども、興味深いものも幾つかあったので買って良かったと思う。彼は最初らへんを開いて写真を眺めていた。その写真はそれぞれ違うデザインの軍服を着た男二人がお互いのタバコの火を交換しているというもの。争うのは結局人なのだとつくづく感じさせる一枚だ。

「俺を騙そうと用意するには、金がかかりすぎてんな。それに、年号が進みすぎている。どこか違う星かと思いきや、写っているのは明らかに地球人」

ちょっと整理させろ。そう言って本を置いた土方さんは、タバコを流れるような手つきで取り出した。片手にタバコを持って灰皿を探しウロウロし始めた。そんな彼に『禁煙』と書かれたプレートを私の胸の前に掲げると、なんともげんなりとした表情になった。

「ラウンジで吸ってくる」

そう言い残して、部屋を出て行ってしまった。土方さんはきっとニコチン依存症だ。酒も飲むようだし、将来は肝臓がやられるクチの人だな。自覚症状が出にくい分、一番病気になると厄介な部位なのに。ご本人が聞けばきっと、余計なお世話だと怒り出しそうなことを考えながら、風呂場に急ぐ。今の内にお風呂に入ってしまおう。さっきから汗を流したくて仕方がなかったのだ。

髪の毛を洗い、体を洗い、バスボムを放り込み、肩まで溜まったお湯に浸かる。それだけで一日の疲れが取れる気がした。今日はいろいろあった。日焼け止めはなくすし、家に帰ろうとしたら刺されるし、挙げ句の果てによく知らない男と同じ部屋に泊まってるし。んで、これから……。

今なら喫煙中の彼の目を盗んで逃げられるのかもしれない。でも、そうしたところで、この世界のどこにもあたしの居場所なんてない。いく宛もない。それに、土方さんの言った通り、元の世界では致命傷となる傷を負っている。多分、あの世界の土を踏むことは二度とないだろう。できれば理解したくなかった事実が、分かってしまった。

これから、どうなるのだろう。

元いた世界とほとんど変わらないお世辞にも親切とは言えない人々、液晶の向こうでしか見たことがないような異形が我が物顔で歩くこの街で、お金どころか戸籍もない身でどう生きていけばいいのか。持っているのは使えるかも分からない僅かな現金とキャッシュカード、落とした衝撃で液晶パネルがひび割れた可哀想なスマホ、そろそろ寿命を迎えそうな充電器、全くこの世界に符合しない雑多な本、筆記具に教科書くらいなものだ。どれもこれも、この世界ではあまり役に立ちそうもない品々ばかり。頼れそうな人はあの土方と名乗る男だけ。その男もどこまで頼れるか分からない。彼の真選組における正確な身分さえ私は知らないのだから。

そもそも、一度、確実に死んだ自分が、この世界でなぜ生きているのか。不思議に思って胸の傷をつつっと指でなぞる。あのとき刺された場所が茶色い筋になっていた。……痕が残ってしまった。これでもまだ婚前なのに。

傷口を眺めているうちに、ふと、暖かい血がさっと冷えていくような考えに行き着く。

ひょっとしたら、今自分が見ていると思っている出来事は、全て、失血したせいで意識が朦朧としているせいで見ている幻なのかもしれない。いつなのかは分からないけれど、ある時に最初から存在しなかったかのように――。

……そんなはずない。生きている。桜ノ宮すみれという人間は、この世界に存在している。

……本当に?この状況を知覚しているのはあたし自身だけだ。今目の前のものが自分に都合のいい妄想でないことなんて他人には証明できない。あたしにも証明できない。

でも頬をつねったら痛いし、湯に浸かれば温まる。水面に頭のてっぺんまで浸かれば……。

ふっと思いつきのように浮かんだ行動をそのまま実行していると、

「オイ!!!」

浴槽に沈む体は水面から引き上げられた。

*

薄暗いラウンジで煙草を吸いながら、ぼんやりと考える。

久しぶりに気分よく酔っ払って街を歩いていた。経緯はどうあれ休みは休みだ。どう消費しようかと思いながら街を歩いていたら、不意に女の泣き声が聞こえてきた。路地裏からだ。

普段の俺なら泣き声をスルーしていた。泣いている女を使ってこちらの気を引いて、死角には刀なり棒きれなりを振りかぶった男が立っている。そんなことがたまにあるのだ。だが、今日、俺が聞いた泣き声は、聞いているこちらまで不安に駆られるような、そんな泣き声だった。気がつくと泣き声が聞こえる路地裏に足を向けていた。

下を向いて泣いている女の顔は分からない。だが、プリーツスカートから覗く足は子鹿のように細く、女はまだ幼いのではないかと思わせた。女は俺が横に立っているのに気づかない。だから、声をかけた。

警察だから。そんな言い訳を誰ともなしに繰り返しながら、表通りに女を引っ張り出した。その時に始めて女の顔をみた。

年は十三かそこら。身長はその年の女だったらそんなもんだろう。ネオンに照らされた顔は色白で可愛らしさが全面に押し出されていた。一部の男共が好きそうな顔立ちだ。だが俺はこの女にどことなく総悟と同じ雰囲気を感じ取った。きっとこの女は見た目通りじゃない。それが性格かなにかは分からなかったが、騙されるとエライことになりそうだと直感した。

……果たせるかな、女は13歳などではなかった。……17歳、最早詐欺といってもいいと思った。でもまあ確かに、胸のあたりは妙に大人びていた。顔を埋めてみたい、真っ先に浮かんだ感想だ。流石に実行に移したりはしない。誓ってもいいが、俺はロリコンじゃねー。手を繋いだりはしたが、決してそんな意図があったわけではない。……確かに「そう」見えてしまいそうな光景であったことは否定しないが。だが、断じて俺はロリコンじゃねえ。

とりあえず、―恩を売った相手がいて融通が効く―ホテルに転がり込んで、改めて女を見た。ポーチに呆然と立ち尽くす女はどこかちぐはぐな雰囲気を漂わせている。それは年に釣り合わない顔と不釣り合いな肉体のせいだけではない。具体的に何処かはわからないが、根本的なところが釣り合っていない。警察官としてのカンだ。からかわれて顔を真っ赤にするくらいにはそういうことに耐性はなさそうだが、所々での切り返しをみるに頭は回る部類だろう。だがいくら頼るものがいないにせよ見知らぬ男にホテルまでついて行くのは度胸があるっつーか、後先考えないっつーか。この女に失うものがないのかもな。

女は、写真ばかりが載った本を俺に見せてきた。写真はどれもこれも、白黒で、でも確かに作り物とは違う男達の生活が写されていた。そして、どういう背景であの写真が撮られたのか知らない俺にも、胸に訴えかけてくるものがあった。俺が知る限り、あんな写真はどこにも無かったし、どこの本屋にもあんな本は売っていなかった。出版社も知らねェ。
別世界からきた。改めて考えてみると、アイツのキテレツな言葉が急に真実味を帯びてきた気がした。なんてこった。

別世界云々も気にならないわけじゃねェが、アイツが刺された理由も気になる。

多分、アイツは自分を刺した相手のことをよく知っている。だからこそ、自らの死をあっさりと受け入れたし、自分が恨まれていることも熟知していた。自分が死んだ場面を思い出した時のあの過呼吸は……。

俺はそこまで考えて、吸わないままに短くなってしまった煙草を灰皿に押し付けた。我ながら勿体無い真似をした。

もういい。アホくせェ。なんで俺が見知らぬガキの面倒を見なくちゃならねーのか。俺はもう一本煙草を取り出して、火を付ける。だが、一向に吸う気にならなかった。あまりにも考えることが多すぎる。

薄暗い路地裏でべそをかくアイツを拾ったはいい。問題はその先だ。あの娘を、一体どうすりゃいいんだ。あの分だと戸籍もあるかどうかも怪しい。あいつを庇護する者はおそらくいない。あの警戒心の薄さを見る限り、自分を一時的にせよ救うと考えればたといどんな悪漢にもついて行ってしまうだろう。下手に放り出して面倒なこと―誘拐、暴行、窃盗……例を挙げればキリがない―に巻き込まれてもらったら、困るのは警察である俺だ。だが、放り出さないにせよ、あの娘を幕府にどう報告すりゃいいのか。まっさか書類に『別世界からきた小娘』だなんて書けるわけがねェ。そんなことしたら俺ァ気狂い扱いで総悟あたりに介錯されちまう。もしくは、アイツが幕府の連中にいいようにされるか。後者なら俺には関係ねーから別に構いやしないが、前者はごめんだ。

とはいえ……。考えかけて、また、短くなった煙草を灰皿に押しつぶした。

ああ、頭が痛い。

やっぱり、近藤さんの言葉を無視するべきだったか。

――「トシぃぃぃ!お願いだから、もう休んで!!三日ぐらい休んで!お願い!お前が休んでくれるなら、俺ゴリラでも何にでもなるから!!」

そんな近藤さんの意味はよくわからねーけど、とりあえず必死なことは伝わってくる言葉を聞き入れて、ふらりと屯所を出たはいいが……まさかあんなのを拾っちまうとは。

あーーーーーもう馬鹿馬鹿しい。考えるのももう馬鹿らしい。

こんな時はさっさと風呂に入ってしまうか。温かい湯につかれば、少しは頭の血の巡りもよくなって、ちょっとはマシな案が浮かぶだろ。ああ、その前に、あのガキの服を買わなくては。まっさかあの血まみれのセーラー服でお天道様の下を歩かせるわけにはいかねえ。

俺は結局煙草をまともに吸うことなく、ラウンジを後にした。

*

女物の服を某安売り店で買って―店員の奇怪なものを見るような視線が痛かった―部屋に戻ったはいいが、部屋を出る時には窓際にいたアイツの姿が見当たらない。

瞬間的に『敵前逃亡』の四文字が浮かんだ。部屋をざっと見渡して、そういえば風呂を沸かしていたことを思い出した。風呂のアメニティの中には剃刀があった。それに、タオルか何かをシャワーヘッドにくくりつければ首吊りだって出来る。膝がつくような高さでも縊れることは出来る。以前見た首吊り死体がふと脳裏に浮かんだ。あまりに鮮明な記憶に冷たい汗が額を滴り落ちる。

――オイオイ。厚意で提供された部屋で死体とかシャレになんねーぞォォ!!

急いで風呂場に飛び込むと、水面に真っ黒な頭が揺らいでいた。俺は何かを叫んでアホを引きずり出す。

あいつは少し驚いた表情を見せたものの、すぐに生意気そうな表情に変えてすっとぼけた。

「やだなあ。勝手に女性の入浴中に立ち入るなんて」
「お前、死ぬ気か」
「……まさか。でも、正直もうどうだっていいって気分ではありますよ」
「…………」

俺は女を無言で睨みつける。その視線を受け止めた女は肩を竦めた。こちらが睨んでも怯えないあたり、元々物怖じしない性格なのだろう、いや、いっそのことふてぶてしいととるべきか。この腹立つ態度といい、うっかり騙されそうになる見た目といい、どこぞのドSに少しだけ似ている。あいつに会わせたら案外気が合いそうだ。いや同族嫌悪という言葉もあるし喧嘩するか?そう考えながら、着ていた服を洗濯物入れに放り込んでいく。

「……フツーここで脱ぎますか?」
「文句あんのか」

女は無言で首を振って顔を天井に向ける。チラチラと出入り口を見ているが、残念ながら唯一の退路の前には俺がいる。それは女も分かっているのか、ため息を一つついて入浴剤の袋の文字を熱心に読み始めた。いや、正確にいうならば、読むフリを始めた、か。鏡を介してこちらを見ていることなんざお見通しだっつーの。

*

逃げ場がない。まあ、あんなことやってたら、そら、監視が必要って判断されるわな。……でも、あたしには自分で死ねるような勇気はない。それが出来るのならとっくの昔にやっていた。ここだけはあまり誤解されたくないから、折をみて土方さんに言っておかなくては。

あたしは土方さんが、するすると着流しを脱いでいくのを鏡を介してチラチラと見ることしかできなかった。筋肉質な上半身のところどころに刀傷と思しき古傷がある。こっそりと傷跡を目でたどっていると鏡ごしに確かに目があって、土方さんがふっと笑った。路地裏であたしの手を引いた時の笑顔とはまた違って、からかいの色が強い笑顔。お風呂でのぼせるのとはまた違う熱が顔に集まる。

「男の裸を見んのはハジメテか?」

しまいにはおちょくっているかのような――ううん、確実におちょくってる――発言までしてきた。また、羞恥で顔が赤くなった。……なんか、この人の前だと、からかわれてばっかりのような気がする。からかわれるのは、正直、苦手だ。この人相手にからかわれると心の底まで見透かされているような、そんな気分になるから尚更苦手だ。

「初めてでなんか文句あるんですか」
「いや。……真っ赤になっちまってんな」
「うるさい!もう上がります。お先に失礼しました!!」
「待てよ」

自分の格好のことは完全に失念していた。とりあえず恥ずかしくて逃げたくて、派手な水音を立てて浴槽を飛び出して、土方さんの隣をすり抜け――られない。あたしの二の腕を土方さんの大きな手がつかんで離さないからだ。あたしは無言で彼の手を振り払おうとしたけれど、できなかった。

「……なんですか」
「善意で提供された部屋で死人がでちゃあ俺の責任になんだよ」
「もう変なことはしません。……だから離してください」
「生憎俺は警察でね、前科がある奴は疑う習慣が身についちまっているのさ」

あれはちょっとした気の迷いだ。自分のことはどうだって良かったのは確かだ。でも別に本気じゃない。ただ、確かめたかった。何を言っているのか自分でもよくわからないけれど、そうなのだ。

あたしが下を向いて唇を噛んで黙っていると、不意に手が離された。思わずよろけるあたしに、洗濯カゴの中のタオルが被さってくる。

「下着は買ってあるが、今の所はワイヤー入りのブラジャーは勘弁してくれ。明日ちゃんとしたやつ買ってやる。服はアメニティの中にパジャマがあった」

言われた言葉の意味がわからずぽかんとしていると、土方さんの手があたしの濡れた髪をぐしゃぐしゃと乱した。そっぽを向いた彼の耳がほんの少し赤いのは酔いのせいか、それとも。

「……もう妙な真似はするんじゃねーぞ」
「はい」

小さく呟かれた言葉は、きっと、あたしを心配して言ってくれたもの。脱衣所を出る前の「ありがとうございます」があたしに述べられる精一杯の謝辞だ。

服を着ながら、土方さんのことばかり考えていた。

あんなことをする人だけど、きっと、彼なりに心配してくれていたのだと思う。その不器用な優しさが、彼の親切につけいることしかできない身には少し、苦しい。

彼の下心の有る無しはともかく、珍しい人だと思う。だって、普通こんな小娘の為にこんな豪華な部屋とったりしない。道中にはいかがわしいホテルだってあった。それなのに彼は、決して安くないであろう、ひょっとするとこの界隈のホテルの中でも一番高いかもしれない部屋をとった。小娘に見くびられないための見栄もあったのかもしれない。けれどそれだけではないだろう。

何度か怖い雰囲気になったけれど、結局彼は手を出そうとしなかった。さっきなんて裸で飛び出してしまったのに。今冷静に考えると、あれは貞操を投げ捨てるような行為だった。だけど、あの人は手を出さなかった。

なにかお返しができたらいいのに。そんなことを強く思ったけど、あたしには身寄り一つなく、財産と呼べるものはまさしくこの身一つしかない。多分、あの人はあたしに手を出す気はない。でもそれ以外に、あたしに何ができるだろうか。特技といえば、勉強と速読、手芸くらいのものだ。一般常識がだいぶ違いそうなこの世界で、それがどのくらい役に立つのか。

考えているうちにあくびが一つ漏れる。体が温まって、ここが決して危険な場所じゃないって分かると、今度は眠気がやってくる。体が命じるがままにダブルベッドに飛び乗って目を閉じた。まどろんだのも一瞬だけで、あっという間に眠りに落ちていった。

*

また、あの夢だ。いつもの夢。あの日の追体験。結局、死んで世界を飛び越えても、過去の自分からは逃げられはしない。

ところが今日は少しだけ違った。普段は聞こえない声が聞こえた。低くて、無骨な、だけどどこか気遣うような声がぼんやりとした響きを伴って聞こえてくる。何を言っているのかは分からない。だけど、その声で一気に今まで脳裏に映っていた情景が吹き飛ぶ。ゆらりゆらりと覚醒に導かれて行く意識。

えっと、この人、誰だっけ……?

確実に知っている声だけど、とりあえず、眠い。もう少し寝たい。

意識がまた眠りに沈んでいくのを妨害するように、また声が鼓膜を震わせた。今度はさっきよりも少しだけはっきりとして聞こえる。でも、やっぱり何を言っているのかは分からない。

もう少し寝かせてよ。お願い、まだ眠いの。

その言葉に応じるようにまた鼓膜が震えたが、やはり何を言っているのかまではわからない。しばらくすると、体がぐらぐらと揺れて、一気に意識が覚醒にまで引っ張っていかれた。視界に真っ先に飛び込んできたのは眉間にシワがよった土方さんの顔。肩には彼の手が置かれている。すると、声をかけてくれたのかな。なかなか起きないものだから、体をゆすった。なるほどね。

「あ、おはようございます。もう朝ですか」
「いや、お前が寝てから三十分も経ってねー……って言おうとしたハナから寝んな!」

飯だ飯!お前まだ食ってねーだろ!

その言葉に呼応するように私のお腹がきゅいと鳴った。そうだ。あたし、午前授業だったから、お昼まだ食べてないんだ。すぐさまベッドから起き上がる。現金だなという土方さんの呆れたようなつぶやきは無視。

「お部屋で食べるのですよね?さすがにこの格好で上の階のレストランは場違いですし」
「ああ。上じゃあ、俺もお前も間違いなく笑い者になるだろうからな」
「土方さんは大丈夫そうですけど?」
「あそこは袴くらい着て来ねーと釣り合わねーよ」

そういうものなのか。それってかしこまった格好じゃないんだ。つくづく自分の不勉強を思い知らされる。そんなことを考えながら土方さんに手渡されたメニューを見た。よくわからない食材を用いた見知った料理名がずらりと並んでいる。……食べ物の好き嫌いは特にないけれど、ゲテモノを好き好んで食べられるようなチャレンジャーじゃない。幾つか食べられそうな料理をピックアップして、食材について土方さんに聞いてみる。彼はどれも不味いものではないと言っているが、自分から聞いておいてすごく失礼な話だけど喫煙者の味覚がどこまで正確かはわからない。ある程度の覚悟を決めないと駄目そう。未知なるものへの期待が半分、不安が半分で夕飯を待った。

懸念していたほどのゲテモノは出なかった。高級ホテルにふさわしい見事な外観と味だった。ただ誤算だったのは、土方さんがもう夕飯を済ませてしまっていたこと。あと値段も素晴らしかったこと。それに気がついたのは注文を終えた後で、取り消すことはできなかった。食べないのかと尋ねても、もう食べたの一点張り。そのおかげで、ただっ広いダイニングテーブルに二人だけ、しかも差し向かいに座って自分だけが食事をする羽目になってしまった。非常に申し訳なかった。なぜか食事中ずっと、土方さんはこちらを見つめているので居心地の悪さもうなぎのぼり。彼自身は睨んでいるつもりは毛頭ないのだろうけれど、目つき悪いからちょっと怖いですお兄さん。けど美味しかった。本当に美味しかった。気まずかったけれど。

「ごちそうさまでした」
「ああ」

美味しかったですと感想を言えばそうか、と返ってきた。そしてまた煙草を出そうとするので思わず苦笑してしまう。煙草が相棒みたいな人なんだろうなあ。笑っていると彼はひどく不機嫌な顔になった。

「土方さん、本当に食べなくてよかったんですか?」
「居酒屋で食ったからな」
「それお酒の肴じゃないですか」
「いーんだよ」

そんな食生活をしていると早死しますよ。あたしは彼にそういったけれど、ふっと鼻で笑われてしまった。あー、こういう人に限って生活習慣病にかかったりするんだよ。中学の保体の先生が言ってた。

「なんか言いたそうな顔だな」
「生活習慣病にかからないか心配です」
「……お前、世話焼きとか言われたことないか」
「まあ、年少の子がたくさんいたので」
「兄弟か?」
「兄弟ではないんですけど、そんなようなものです」

あたしがそう言うと土方さんは何かを察したのか苦いものを食べたような表情になる。……別に土方さんが気にすることもないのに。別に、あたしは。

「……悪ィな」
「いえ。あまり気にしていませんから」

ゆっくりと首を振って笑みを浮かべてみせれば、彼は痛ましいとでもいいたげな顔をする。そんな表情をしてほしいわけじゃなくて。

「そんな表情をしないでくださいよ」
「……そうだな」

重い沈黙があたしたちの間に横たわっていた。土方さんは何を考えているのか、鋭い双眸で眉間にシワを寄せて、あたしを睨みつけるように見ている。その鋭い視線は沈黙と相成って居心地の悪さを演出している。きっと本人には睨んでいるつもりは毛頭ないのだろうけど、いかんせんこの人は目つきが悪い。じっと見つめられると恋愛とは逆の意味でドキドキしてしまう。

「なあ」
「はい」
「今更だけどよ、俺に会ったことはないか?」

そんなこと言われても、あたしは世界線を移動したことはこの一回ポッキリだ―こんな経験そう何度もあってたまるか―。それに、こんな強烈な印象の人は一度会ったら忘れられないと思うのだけど。あたしが否定すると、彼は眉根を寄せて懐からタバコを取り出した。トン、と指先でタバコが入った箱を叩いて一本指に挟む。流れるような手つき。慣れた様子から、考える時の癖になっているんだろうな、と思った。だけどこの部屋、

「禁煙ですよ」
「あ」

土方さんが、しまったといった風情でタバコを咥えたまま固まる。どこか間の抜けた表情があたしにはおかしく感じられて、思わず吹き出してしまった。
無題(銀魂)

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