まやく
派手な音を立てて男が海に落ちた。これであの醜い雑言から解放されたと思って大きく息を吐いた。とたんにバシャッと音が聞こえて、また野太いあの声がわたしを罵倒する。はっと暗い水面を覗き込んだ。手足を縛らなかったのは失敗だったかもしれない。大体ここまでだって、不手際ばかりだった。ああ、嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ!とっさに近くの棒を取って男を沈めようと殴った。殴って殴って、やがて男はぶくぶくと空気を吐きながら海に沈んでいく。しばらくしないうちに何もも見えなくなった。これで今度こそ安心だ。思わずその場にへたりこむ。男を殴った棒はその先が血に濡れていた。床も汚れてしまった。後で念入りに掃除をしなくてはならない。
どこからかばしゃりと音が聞こえて思わず肩を跳ねさせてしまうと、となりかくっと笑い声が聞こえた。
「笑わないで」
「いやなんだか可笑しくて。君は本当に臆病だね」
「臆病だったこんなたいそれたことしないわ」
「臆病だからできたんだよ」
「……そうかしら」
「さぁ?」
槙島はそれきり黙って、また海を眺める。まだ戻らないらしい。わたしはとりあえず血を拭こうと思って、バッグからタオルを出して床を拭いた。沈黙の合間に、波が船を打つ音がして、そのたびにわたしは肩を震わせた。そうこうしているうちに、空が白み始めた。
隣ででつまらなさそうに水面を眺める槙島に視線を移す。今回の件に力を貸してくれた、不思議な得体の知れない男だ。おそろしいと思わないわけではないが、それよりも人を惹き付ける魅力が彼にはあった。気付いた槙島が目を細めてわたしにキスをした。たった今人を殺したばかりだというのに男の目は凪いでいて、わたしは恐ろしくなって目を伏せた。
「ねぇ」
「なんだい」
「早く陸へ戻りましょうよ」
そうだねと言って槙島は操縦席に入っていった。わたしは壁に背を預けるように座りながら、ぼんやりと海と空を眺める。ぶぅんと耳障りな音を立ててエンジンがついた。船が動き出す。ベタつく海風を少しでも避けようと中に入ると、楽しそうに船を操縦する槙島がいた。
ふと、さっき沈めたばかりの男を思い出した。ありったけの罵詈雑言を吐いてわたしを貶めた男。馬鹿なばかりに殺されてしまった男。最期の断末魔は音にならず海へと消えた。槙島の横顔をそっと盗み見る。まだぶくぶくと沈んでいく音が耳の奥で鳴っていた。わたしはこの男といるといつもそうだった。ぶくぶくと息を吐きながら苦しみ藻掻きながら溺れていく。事実、わたしはこれ以上ないほどに彼に溺れているのだ。あの不思議な目がわたしを見る、それだけで気持ちが舞い上がる。まるで初めて恋をした中学生みたいだ。初めてじゃないだろうにと思って嘲笑する。どうかしたのと槙島が言った。どうもしないわ、と返す。それから心の中で、わたしね、あなたが好きなのよと告白した。
140704