「おわろっか」 少女の言葉に金色の髪をした吸血鬼の頭が縦に揺れる。愛しい人を見る眼差しで自分を見る彼女に、彼は弱々しくも、幸せそうな微笑みを浮かべた。 「灰になるまでずっといてあげる。お母さんのお墓探してちゃんと入れてあげるから安心しといて」 腕を離して、DIOの隣に座る。あたしに目を向けるDIOに対して自分の太腿を掌で軽く叩いて見せる。 さいごのコイビトごっこ、付き合ってくれるでしょ。 数秒してから何をすべきか察したのか、ごろりと図体ばっかでかい体が芝生の上に転がって、金色の頭が太腿に乗っかる。髪を指で梳いて、ふふ、と笑う。 「なにがいい?」 「なにがとはなんだ」 「百年頑張ったご褒美」 さっき言ったでしょ。といわれたDIOは思い出したらしく、ああそうかと頭を転がし宙を仰いだ。 「浮かばない?」 急に言われてもな。深い溜息をつかれ、話題が滞る。 「…じゃあ、さっき褒めてくれるかって聞いてたし、あたしが世界中の人間分褒めるのはどうかしら」 「なんだそれは」 半分だけ笑ってくれた。 「頑張ったよDIOは」 「…」 「ずっと一人でたくさん頑張った」 「…」 「えらい、いいこ」 何度も金色を撫で付ける。 「…がきじゃあないんだぞ」 「かわんないわよ」 DIOの表情はこちらから見えない。外側を向いてしまっている。 「……百年前」 「ん?」 「お前がいれば …こうももがくことはなかったのか」 「でも百年前にいたらこうはなれなかったかもしれないわよ」 温室の端に咲いてる薔薇の香りがする。 それもそうだな。しばらく黙っていたのち、DIOは穏やかにそう言った。 今が良いのだからそんなことを言っても仕方ないと、DIOは偽か本物かもわからない笑い声をあげる。空を見ると真上にあった月が大分傾いていた。もう、終わる。薔薇の芳しい香りを鼻腔にたっぷり吸い込んで、惜しむように少しずつ吐いた。 「思えば……おまえは何度も、気付かせようとしていたろう。俺に、じぶんが、本当は何がほしかったのか」 本当はな、ずっと前から気付いていたのかもしれない。 悪戯っ子のような口調で、内緒話をするように、ただ安らかに。口許が弧を描いているのが想像できた。 「見込みがなかった。だから、本当はそんなものなんかじゃなく、別のものがあるはずだと…視野にすら置かないようにした。まあ、つまり、ムキになっていた。もう、お前が生まれるずっとずっと、うんと前からのはなしさ」 声のトーンはいくらか明るかった。「それをお前はたった一人で、まったく」と楽しい思い出話をするかのような口調で、色々吹っ切れたように体を転がしこちらへ顔を向けた。疲れは取れてないが、明るく見える。小生意気な白猫、お前がいなければ俺は絶望したまま死んでいた。手が、また絡み合う。百万回ならぬ、百年生きた猫。 「DIO」 「なんだ」 「あたしも、あなたがいなかったら絶望して死んでいた」 「……お互い様だな」 「そうね、お互い様」 すう、と息を吸う音。 はあ、息を吐く音。 眩しそうに目を細め月を眺める赤。 「らしくない終わり方だとおもわないか」 「うん、すごくね」 「…これでいい」 「そう」 「すまない」 「ていおーさまなら一生俺の存在に縛られて生きろくらい言って」 「言えたらどうなるんだ」 「だからDIOはDIOなのよ」 「…」 「そういうところがすきだもの」 「…」 「DIO?」 「お前は俺のここそこが好きだというが俺がリリィに対して言えていなくはないか」 「全部好きでしょどーせ」 「なんだその謎の自信は」 ええとそうだな。 指折り数えられてから、結論が出される。やはり一番は隣に立ってくれていたこと、だろうか。 「なんだ、存在ってことは全部でしょ」 「ニュアンスが違うといったら……いや、それでいい」 その通り、全部が愛しいさ。 「こちらを射抜くような目も、甘いものを頬張る頬も、癖のある髪も、小さい手も、あんな風に渡したようなリボンを使い続けているところも、天邪鬼なことを言ってもずっとそばで座っていて、悪夢を見た日はハンカチを持ってそこに居て、ずっと、誰よりもずっと、俺を見て知ってくれていたお前が」 「………もういい」 「…どうした」 「…」 「照れているな」 「うるっさいこっちみないで、…ちょっとこのバカ頬っぺた突っつかないでっ」 肩を揺らして笑う。ああほんと、邪気も悪意もへったくれもないあほっぽい笑顔。きっとジョナサンや承太郎達が見たら腰を抜かすに違いないわ! やっと彼も“人並み”になれたのだ。笑う顔が愛しくも、もっと早くこうなっていればこの男もこんなことにはならなかったのではないかと考えれば辛くなって、勝手にじわじわと涙が溢れた。 「リリィ」 「…………DIOのこと言えないわね。これが百年前とか承太郎達と会う前だったらって、ちょっと思ったの」 「歩んだ道は無駄ではなかった。それだけで十分だ。どうしてお前が泣く?」 頬肉を突っついていた手であたしの涙を拭ってから、呆れたように顔と体をこちらの腹の方へ転がし、満足感の含まれた溜息をつく。 「───朝日に照らされた道、夕暮れのカフェ、青い空や海、友人と歩く休日の昼の遊歩道。顔を覆う絹のヴェール。一つの汚れもない白絹のドレス」 「…新しい子守唄?」 「いいや、お前に似合うと思うものだ」 よく似合うのだろう。あちらの道でしか手に入らないものばかりなのだから。 「リリィ、悲しむことはない」 「…さっきまで悲しんでたのはどっちなの」 「楽しんでおいで」 「…」 「歩み終わった先で待っていよう、感想を聞かせてくれよ」 「…すっごく長くて飽きちゃうかもよ」 「お前は淡白だから長くて飽きることはないさ」 「話終わったらどうするの?」 「来世に着くまで別の話をしながら、手を繋いで歩けばいい」 なにもかも吹っ切れた態度をして、こっちの肩の力ががっくりと抜ける。そーいう風に、無責任なこと言っちゃってさ。でもそれはこの人が一番分かっていて、先の未来を嬉しそうに話したりなんかして、この人はもう完全に呪いから解き放たれたのだ。 「なあ優しい白猫。お前が母なら、子供はどれだけ幸福なのだろう」 あたしはそんなにいい母親になんかなれないわよ。冗談めいた笑い声をあげてからこちらに向いている頬に手を当てて、目を閉じる。 空が白んできている。朝日はもうすぐそこだ。もうじきこの男は聖なる日に焼かれて灰になる。百年分のなにもかもが、ほんの数秒で消えるのだ。…まだよ、まだ来ないで。お願いだから。もっと一緒にいさせて。あと数分だけでいいから朝日の上る時間を遅らせてください。できれば太陽なんて今すぐ壊れてください。信じちゃいない神様に祈る。 こんなことなら変な意地とか自己暗示とかしないで、早く言っておくべきだったかな、なんて後悔をしている。白む空を見上げながらうわ言のように彼へ声をかけた。 「DIO」 「…どうした」 「リリィになる前の名前、覚えてる?」 「ああ、覚えている」 「呼んで」 「…」 「ぎこちなくて、いいから」 ユリ。 ぎこちない舌足らずで、でも確実にあたしの以前の名前を呼んでくれる。 「…ユリ?」 「うん、百合だよ」 「ユリ、ありがとう」 「あたしこそ、ありがとう。あたしに…名前をくれてありがとう、愛してるっていってくれてありがとう」 親愛ではない、真愛のキスをもう一度。とDIOに言う。 でかい図体が起き上がる。 目が閉じられて、どちらからともなく、唇が触れ合った。ふわりと、冷たくて、柔らかい。初恋は檸檬の味なんていうけどどっちかっていえば鉄錆によく似た味。DIOは口を離して腕を伸ばし、こちらの体を包み込んだ。あたしは心臓の鳴らない胸に耳を当てて目を閉じる。小さな子供が母親に抱かれて眠るとき、そうするように。 「あたしを、あの日…見つけてくれてありがとう。生き返らせてくれてありがとう。百年間生きつづけてくれて、ありがとう」 今、伝えなければいけないから。震える喉から絞り出すように紡ぐ。 「あたし、生きてて良かったよ。DIOに──ディオに会えて良かった」 広すぎる背中に手を回して。その大きな胸に涙の粒を幾つも落としながら。あたしはこの時、初めて生きてる事に感謝をした。 「百合、…リリィ、私の、天国」 呪いを残す自分を許してほしい。呪いじゃなくて証でしょ、そういうとDIOはそうなのだろうか、と気鬱に言った。 目指していたものではなかったが、これも、確かに“天国”だ。天国を見つけられたから、目的は全て果たせた。これで眠ることができる、死に物狂いで生き続けなくて済む。 あたしの背中を抱く腕に弱々しくも力が入る。ぎゅう、と確かめるように抱き締められ髪を撫でられた。 泣くな。 情けない掠れ声なんかで言われたから、じゃああんたも泣かないでよ、と言い返す。「暫くは無理そうだ」と、やけにゆっくりで、震えた声で笑った。 嗚呼、こんなのはあんまりなのではないか。彼は百二十年ももがいて足掻いてやっと答えと呼べるべきものを見つけられて、人として満足な幸せを手に入れられたというのに。恨んで妬んで奪われて奪って満たされなくて苦しんだディオブランドーの人生とはなんなのか? こんな事を考えるのは自分のポリシーとしてどうかとおもうが、考えれば考えるほどあんまりだ。彼の百二十余年分を誰か返してよ。 彼は確かに酷い加害者だ。悪でしか生きられなくなった悪人であり、そして間違いなく何よりも哀れな被害者なのである。 ───でもこの吸血鬼は、幸せになれたからそれでいいと言う。“天国”が見れたから、もう満たされたと言う。 運命はこう位置付けた。それならば、足掻かずにここで安らかに終わっておくべきなのだ。彼は既にそれを知っていた。 この男を縛り付けるものがようやく取れたのに、また縛るなんてできなかった。あたしはどう足掻いたって握り直したこの手を離さなければいけない。 ───…そういえば、生きてと言われたのも、生きててありがとうと言われたのも、初めてだ。少し、嬉しいものだな。 と、彼は言った。心臓が痛かった。 「…」 「DIO、眠いの?」 「そう だな とても、眠い」 「……じゃあさ、前みたいに子守唄、うたってあげるし…少し眠りなよ。ほらもっかい膝枕、してあげる」 「…そうしよう」 「少ししたら、起こしたげる から」 金色の柔らかい髪が、再び膝の上に散らばる。次はこちらに顔を向けてくれたままだった。 「………リリィ、ひとつ、頼みごとをきいてくれるか」 「なあに」 「……」 「DIO?」 「頭 を、撫でていてくれないか」 眠るその時までずっと。 掠れた声が震えていた。 「いいよ」 自分の声も震えていた。 「いくらでも撫でてあげる」 撫でる手の感触に心地よさそうに目を細めながら、微笑む赤。ずっと撫で続けた。優しく、愛しさを自分の中にあるだけ全部込めて、時々あの子守唄の鼻歌を歌いながら。DIOの瞼が静かに下りて、薄い涙の膜を輝かせながら閉じられる。そこには髪を滑る手の音と、鼻歌、二人分の息遣いしか聞こえなくなった。 何度子守唄を歌ったか分からなくなった時、山吹色が地平線から顔を出した。やだ、やだ、待って、まだ行かないで。お願いだから。 「さいごにお前から、生きててよかったと聞けて安心した」 起きていたのか、突如発せられたDIOの声に息を飲む。 俺でも“与えられた”のだなあ あの父親でさえ出来たのに自分には出来なかったこと。だけれど、ようやく、俺もそちら側になり得たのだ。お前のおかげで“与える人”になれたのだ。 暢気な調子で、満足そうに、そんな事を呟いた。 ───最後に聞きたいことがあった。あたしは止めていた手を動かし金色を撫で、問い掛けた。 「DIO、今……しあわせ?」 少してから、すう、と気管に空気が入る音がする。 「とても しあわせだ」 開けられた赤は、こちらを見る赤は、輝いていた。 もしあたしがこんな半端な存在などではなくて、この太陽で彼と共に同じように灰になってしまえれば。 どんなに穏やかなのだろうと思う。 一瞬だけ、朝日に照らされた赤と金を垣間見る。それは月の下で見たそれよりもずっとキラキラ輝いていて、どんな宝石もただの硝子玉にしか見えなくなっちゃうくらい、清らかで、綺麗。あたしはこの先も、この美しい光を忘れる事はないのだと…確信して、目を閉じた。 木陰から日が降り注ぐ。目を開ける。 DIOはもういない。 ボロボロに崩れた灰の塊と布切れが無残に転がっている。 それを見てから、明るくなった空を見上げる。この日初めてあたしは、太陽を憎んだ。おまえなんかさっさとくたばってしまえ。爆発して何もかも巻き込んで沢山の人に恨まれて死んでしまえばいいのにと、そう思った。 「半分吸血鬼にしといて、普通なんてよくいうわよ」 少女は───リリィは、灰をひとかたまりに集めながら笑った。 「あのね、青い空や海も。友達と歩く休日の昼の遊歩道も。顔を覆う絹のヴェールも、一つの汚れもない白いドレスも。ほんとうはね、なんにも要らなかったよ」 なんにも。なにひとつとして、あんたに勝るものなんてないと思うわ。灰を手のひらに取ってさらさらと溢し、少しだけを握って拳にキスを落とす。ありがとう、私に生を与えてくれた人。そっと開けられたリリィの赤は煌めいていた。 約束の時間を迎えた承太郎と花京院が塀の向こうから現れ、リリィの元に近付く。彼女のそばに散らばる灰を見た途端、信じられないというように目を見張った。 これが彼の答であると、理解せざるを得なかった。リリィは愛しそうに灰を見て、静かに微笑みを浮かべていた。「そんな遠いところに居ないで近くにおいでよ」。リリィは彼らを見据えて手招きをした。 「……………リリィさん」 「DIOの灰よ、正真正銘の」 「…………本当に、死んだのか」 「ええ」 「あいつの選択は、これなのか」 「うん」 「…」 こんなことって。どうしてあんたは。呆然と灰を見下ろしてか細く呟いた花京院の隣で、承太郎は静かに灰とリリィを見比べる。 「怒らないでね」 「…」 「言ったでしょ、どっちが助かればいいのか答えは見えてるって。無責任に苦しめたくて死んだわけじゃないのよ」 「…ええ、わかってます」 「ならいいのよ」 彼女は、彼らに向かって明るく、困ったような笑みを見せた。 「悪党なんかを幸せに死なせるってさ、そんな物語アリだと思う?」 承太郎は、何も言わなかった。 ややあって、硬く閉じられていた口が開かれる。 「………伝言がある」 「何かしら」 「じじいが、助けてくれてありがとう。だと」 「気にしないでって言っといて」 「……良かったのか、それで」 「良くても良くなくても、彼が望んだことよ」 らしくもなく泣きながらごめんごめんって言ってたわ、でも生きるのに疲れちゃったから、一番幸せな形で眠らせてあげたの。 「バカな人でしょ、百年ぶっ続けで突っ走ったりなんかするからね」 「…リリィ」 「はい、もうこの話は終わり。完結した物語にケチつけるなんて野暮な事だと思わない?」 立ち上がって、スカートに付いた灰もはたかずに、空を見上げる。 「もう少しちゃんと一緒に居れてたら、よかったかなって。気付くの遅かったかなあ、でも、綺麗に終われて良かったわ」 リリィは朝日の元で微笑む、疲れのみえる顔だった。 「あいつが待っているゴール地点まで、ゆっくりと歩いて行こうかしらね。きっと長い旅になるわ!」 おくびょうもののはつこい (実をつけなくても精一杯咲いた、100年越しの) この日、私の恋は優しく埋葬された。 「───あと、あたしは今でもねえ、あの言葉を呪いだなんだなんて思ってないのよ」 十何年後かの命日。一月十六日。 イギリスのとある一角、お墓の前には美しい白薔薇が粗末な十字架に絡み咲き誇っていた。そこに、墓場にはおよそ不釣り合いな真っ赤な薔薇の花を一輪、女性は供える。 「大切な宝物よ、全部ね」 女性は、白い薔薇の柔い花びらを撫でる。 「ていうかさあ」 その白薔薇の群の中にポツンと赤い百合の花が異色を放ち、咲いている。その隣には女性が添えた薔薇。 「白い薔薇だけならまだ良かったのに、赤い百合咲かすなんてほんと相変わらず悪趣味なんだから」 ま、墓参りの花に赤い薔薇を持ってくる自分も自分か。 東方百合はイギリスの風に髪を靡かせ、無邪気に笑う。赤は変わらず美しく煌めいていた。 「DIOのそういうとこ、好きよ」 ───悪の吸血鬼の気まぐれで生を与えられた四年前の少女は、十何年後か先の未来にて、彼に向かってそう笑うのであった。めでたしめでたし。 epilogue-END |