帝王観察日記 | ナノ


 散らばった硝子や砂利を踏む複数の足音が聞こえる。誰なのかはわかる、承太郎と典くんだろう。後ろを垣間見るとやはり二人はこちらから数歩あけた先で、静かに佇んでいた。あたしが口を開けて声を発する前に、そこらじゅうをピンと張り詰めた空気で覆われる。何事か。承太郎とDIOの目線がかち合っているのだ。どちらも互いを射殺さんばかりに、否、射殺すつもりで、一ミリも一ミクロンもずらされることなく何十秒もそのまま。典くんはそれに疑問を持つわけでもなく依然静かに待ち続けている。声を出す事は禁忌のようにみえた。DIOの手を握っている自分の手に力が入る。またこの男が何処かに行こうとしてしまったら次はもう、どうしたらいいかあたしにはわからない。ただ何かに祈りながら誰かが喋り出すのを待つだけ。それだけだった。

 ややあって、ふうと溜息を吐く声が聞こえる。

「強情なのは誰に似たのやらなあ」
「…! DIO、っ!?」

 浮遊感に思わずうわっと声を上げる。DIOが私を抱えたまま立ち上がった。大事なドールを片腕に抱えるようにあたしを持っている。その持ち方重くないのかしら、まあ吸血鬼だから大丈夫なのかもしれないけれど。「身体は大丈夫なの?」と聞くと、「血を飲んだおかげか走れるほどにはくっ付いた」と返事が来た。動じてはいなさげだが警戒しているのかスタープラチナを傍に出す承太郎を尻目に、DIOは何でもない面持ちでこちらの額に自分の頬を擦りつけて遊んでなんかいる。

「どうした、来ないのか? リリィの存在に恐れたか」
「…」
「恐れているな? フフ、やはりどいつもこいつも情けなく甘いものだなァ、ジョースターというのは。そうやってお前達は他人に…あまつさえ敵の為にまで死に絶えるのだよ」
「情けねえのはてめーだろうが」
「……何、今なんと言った」
「情けなくてどうしようもねーのはお前だろ、と言ってんだぜ俺は」

 帽子のつばを指でくい、と下げる。表情は伺えなかった。

「俺も俺で動けないことは確かだ、仕方ねーから情けないのは認めてやる。だがこんな結果になるまでそいつを放ったらかしにしていたお前は更にその上だ、違うか」

 これじゃあどうしたらいいか解らないじゃねえか。てめーの不始末のせいだぜ。
 微かにだが、そう聞こえた気がする。

「…情けなくなどない」

 ただ、愚かなのだ。
 そう一言、空気の中に転がり落ちる。
 典くんは後方から両方を鋭く見据え、靴音を鳴らし承太郎より前に出た。縦に入った勲章が映える両目で吸血鬼と向き合う。あの日の彼はもうどこにもいない。

「貴方がもし、承太郎のお母さんを助ける方法を持っているなら…僕らは貴方を殺さず引き下がろう、DIO。そのあとに世界を制服しようが僕らを殺そうが選択したのは僕らだから──」

 ──文句は言わない、好きにしろ。 辺りは、本当に静かだった。

「そこのところは恨みっこなしだ。但しその“恨みっこなし”が成立するのはホリィさんが助かったという事実が確立してからのものとする。ズルでもしようってのなら僕らは簡単には殺されてやらないと思ってもらおう」

 彼の言葉には、方法がないのならDIOにはどう足掻いても死んでもらうしかない、という裏の意味もしっかりと篭っていた。DIOは薄ら笑いを浮かべる。

「そんなものあるわけがないだろう」
「…そうかい」

 DIOという人物は。
 間違いなく悪党である。恨んでも恨みきれないくらい沢山の命を踏み潰し生き永らえ、血を飲み干し高らかに笑う、血を吸う鬼。そんな人物に入れ込んでしまった時点で図らずもあたしは悪側であり、文句は言えない立場で、自らもまた血を吸う鬼なのだから。異論はない、元々未練など彼くらいのことしかなかったのだし共に死ねるならそれでいいと思う。

「…本当にないのか」
「無いものは無い」
「本当に探したのか」
「しつこいぞ花京院典明。殺したいのか生かしたいのかどちらなのかはっきりしろ」

 しかし、この星の子達は悪を叩き潰す正義ではあるが、少しばかり優しすぎるのが難ありだった。

「……貴方は。彼女とは生きたくない、…のか」
「フン…お前達がそれを言えばお前達の存在意義が無くなるぞ?」
「いいのよ、二人とも。あたし達はもう満足だから」

 充分すぎるほど。互いの事は理解し合えたし、幸いお土産に持っていけるくらいには思い出もある。船出にはぴったりだ。

「…、リリィさん。あなたは、どうしてそう」
「満足、か。フフ、ああ……そうだな、俺も確かに満足…なのかもしれない」

 そう零したDIOは大きく息を吸って、吐き、空を仰いでいた。

 存外、気分が晴れやかだ。
 吸血鬼は云った。

「あれだけ憎たらしく見えた星々も今では、何だがな、それなりのものにはみえなくはない」
「おい、待ちな。どこへ行く気だ」

 踵を返すDIOに承太郎が鋭く声を掛ける。DIOは横目で承太郎を見ながらやれやれと肩を落とした。

「逃げるとでも思うのか? 人が多くなってきた、これ以上目に付くのはちと面倒だ。自分の家に戻る」
「…だが何で戻、」
「明朝6時。私の館の庭にある温室の、一番目立つ木の下に来い。こんなではあるがこれの前でくらいなら約束は守る男だ。リリィが保証する」
「これって誰のことよ。なんであたしが保証なんて…」

 その時に、私が選択した答えを教えてやろう。

 首を傾げる二人にニタリと牙を見せ憑き物が晴れたような顔で笑いかける。DIOはあたしをしっかりと抱え直し橋の上を走り抜けて、建物の屋上へと勢い良くジャンプした。

「っ、わ…ッ」

 遊園地のアトラクションのようだ。背すじがぞわぞわして思わずDIOの首元に絞め殺さんばかりの力でしがみ着くが、背の高さも相極まり、絶好の景色が目の前に広がっていた。

「どうした、楽しいか?」
「…うん。たのしい、すごくっ」
「…」
「DIO?」
「固まってるものだからと嫌味で聞いたつもりが、とんだ見当違いだったようだ」
「なにそれ」

 自然と、微笑みが零れる。あたしは、こんな風に自然に笑えるような生き物だったろうか。あたしは、変わったのかもしれない。少なくともこの隣にいるだれかさんのせいで。黄金の髪が風に靡いて激しく乱れる。綺麗だ。飴細工のよう。不規則に気流に従い揺れる目の前の束達を、この手で鷲掴んでやりたい気になる。目が合った。恥ずかしいから肩に頭を預けて知らんぷりする。

「…あたしやっぱり生まれ変わったら鳥がいいかも。 …なんつって、ね」
「何か言ったか」
「なーんでも」

 まるで物語の中のお姫様になった気分だ。この吸血鬼は差し詰め王子様か?はたまた姫を連れ去る魔王様か。あんたはどっちの気分なの?そんなことを言ったら「ファンタジーものの書物ばかり読み過ぎだ」と呆れ顔で一蹴された。一理ある。馬鹿馬鹿しい例えだとは思うが、今はそんな気分なんだからいいじゃない、あたしだって浮かれたくもなるのよ。
 ああ楽しい。楽しくないわけがない。どうして、もっとはやくこうしていられなかったのか。考えたって仕方がないのだけれど。この時間が終わらなければいいとさえ思う。でも終わりは来てしまった、だから一粒ずつ噛み締めなければいけない。冷たい夜風が耳に擽ったくてDIOの首の肌に右頬を、鼻を、唇をくっつけて、息を吸い込む。そんな外界の景色から逃げるようなことばかりしてるから「実は高いところが苦手なんじゃないか」と聞かれた、そうではないと答えておいた。噛み締め刻み付けて、一生経っても忘れられないようにしなければならないのだ。

「……ねえ、DIO。あんた、もしかしてさ───」
「なんだ?」
「…ううん、いい。後でいう」


 館に着くと、DIOはあたしを下ろし、手を引いて中へ入って行った。どこに行くの、と訊く。DIOは自分は着替えるからリリィは台所へ好きなお菓子を取りに行けと云った。

「ああ、紅茶も忘れずにな。今夜は暇になったのだしピクニックでもしようじゃあないか?」
「……」
「…リリィ? 具合でも悪いか」
「いや、迷うわね。どのお菓子にしようかしら」

 DIOはぽかんとしてから、くしゃりと顔を歪めクツクツと笑った。あたしの頭を一つ撫でて、温室の木の下に集合だといった。台所の入り口から少し歩いたぎりぎりの場所で、台所で考え込む私を暫く物憂げに見詰めていたDIOは、廊下の闇へ消えた。…のを、横目に見ながら考える。あの男はあんな風になんの混じり気もなく笑う人だっただろうか。物憂げに何を思ってたんだろう。何にせよ数分前の化け物はどこにもいない。ああ、彼も同じように変わった、のかもしれない。なんて、お茶を用意しながらの暇つぶし。

 冷蔵庫を見る。
 あたしが好きなラズベリーマカロン、口直し用のピスタチオ味も忘れずに。DIOが気に入ってた店の綺麗な模様をしたガナッシュと、たまたまあったレーズンバターのラングドシャサンド。チーズもある、カマンベールだ。あと茶葉、甘いのに合わせたアールグレイ。ポットはスタンドに、お菓子は自分で、これだけ持って温室へ行く。DIOはDIOで読みたい本を三冊くらい持ってきて先に座っていた。

「…本をなぜ睨む」
「あたしと話す気がないのかと思って」
「これでも抑えた方だが」
「そういう意味じゃなくて」
「本に嫉妬か。随分可愛らしくなったな?」
「まずここに熱々の紅茶があります」
「おいリリ、……ユニバース、ユニバースやめろポットをそこに降ろせ」

 DIOが本を置いたところで、柔らかい新緑の芝生が生い茂る隣の地面に座る。お菓子を食べたり、他愛のない話をして、いつもと変わらない深夜の会合。お腹いっぱいになったところで、ふと、DIOに提案をした。

「ね、ちょっとここ開けて」

 DIOの太ももと太ももの間に腰を下ろして、ソファーのように腰掛ける。二、三言遺憾の声を挙げられたが、譲歩することにしたのかDIOは何も言わずされるがままとなっている。今日も星は綺麗だ、憎たらしいくらいに。なんて温室の硝子越しに空をぼんやりとながめていたら、腕らしきものが伸びてきてぎゅう、とさらに胸の中に押し込まれた。…悪い気はしない、けど、こういう何にも起こらない密着感は慣れていないから少しだけ体が硬くなる。体が硬くなってちゃんと息をしてないせいか顔も熱くなってきた。いや、顔が熱いせいで息が出来ないのか、わからない、けれど。とても顔を隠したい、なんでもいいから、座る体勢を間違えてしまったかもしれない。しかしそんな人の気も知らずこの男ときたら、ぎゅうぎゅうと身体を締め付けてきては後頭部にぐりぐりと痛いくらい頭蓋骨を擦りつけてくるんだから溜まったもんじゃない、本当に痛いときたら。

「……ちょ、と、いたい」
「…」
「DIO?」

 縋るように。或いは惜しむように。
 片腕は腹から移動してあたしの首元を回り左肩を持って、足もダラリと伸ばされていたのが胡座をかいて、籠に入れられる虫のようにもっとあたしを包み込もうとした。吸血鬼は何も言わなかった。何も言わず、故にこちらも何も喋らず、ただ僅かに震えているみたいに聞こえる呼吸音を聴く事に集中していた。

「どうしたの」

 耳打ちする時のように静かに、優しく尋ねてみると、ほんの少しだけ腕が緩んだ。

「さっき言おうとしてたことなんだけれど、今言っていい?」
「……なんだ」
「あたしだけ置いて行くつもりでいる?」

 ピタリと呼吸が止まって、また何事もないようなリズムを刻む。体を捻らせて顔を伺うと、やっぱり依然として疲れた顔をしている吸血鬼は「さあな」「わからん」とだけ乾いた喉から溢した。

「あたしは嘘は嫌いよ」
「…」
「DIO」
「なんでそんなことを聞くんだ」
「それなら一生のお別れの前みたいなハグの仕方やめてよね、心臓に悪いわよ」
「……」
「…DIOは、どうしたい?」

 DIOの頬を掌で撫でると、彼はようやっと唇をまともに動かしはじめたのだった。

「自分のことは構わないからこれだけはどうにかのこしたい、と、思った事はあるか」
「…心当たりはあるかもね」
「俺はそんなものなどない、常に我が身が最優先だ。己を愛するが故だ、自分を差し置いて大切にするものなど存在しない」

 ああこの目は何度も見たことがある。
 ひとりごちに確信する。瞳孔が開いた目をかっ開いて、時々引きつった笑い方をする。自分の意思がわからなくてぐちゃぐちゃしているのだ。

「俺は…俺だけを愛するッ! どれだけ、嫌な部分が見えても!それは嫌なものでもなんでもないのだと、そうだとッずっと!」

 ずっと。いい終わらせる前に口を丸ごと塞いでやる。目には目を、歯には歯を、口には口を。ちょっとした下心でその紅い皮膚の感触を同じ場所でふにふにと数度確かめてから、離す。100年生きる吸血鬼は黙ってしまっていた。

「自分以外にいなかったから」
「……………」
「…誰か一人にでも愛してもらわなきゃ人は死んでしまうもんね。きっと小さいディオはそれを知ってたのね」

 いいこ。弱く微笑んで額を摺り寄せる。よく頑張ったね、えらいね、おつかれさま、本当に本当に頑張ったね、もういいよ、なんて心の中で唱えながら100度金色の髪を撫でた。

「…………自分を犠牲に大切なものを現世に残すことなんてばからしい」

 何も言わず、見つめる。

「あいつがしたことは本当にばからしい、残した種と母胎共々沈んでいればよかったのに」
「…」
「…………厭わないほど、大切に思われていたことなど、あったんだろうか」

 自分は。
 その問いに、静かにこう返す。

「大切に思われてなければ、DIOにとってのお母さんはもっと酷い人に見えていたはずよ」
「…」
「あたし、事故にあって目覚めた時お母さんの腕の中にいた。クッションになって、くれていたの。だからあたしは死ねなかった。…母はあたしの希望だった、DIOも……そうだった?」

 ややあって、ああ。と返事が返ってきた。───お母さんってそういうもんでしょ、優しかったなら尚更。
 そう言ったら、DIOは俯いて何も言わなくなった。

「だが、ばからしいことには変わりない」
「DIO?」
「ばからしい…痕を残したってその後の未来が保証されるわけでもない、無駄な行為でしかないッ本当に、本当に意味の無い…」

 瞬間。ばっちりと合わさった赤い目の奥が、ギラリと光る。空気がひやりと凍り付いた。

「───………俺は、痕を残すような事など、するものかッ」

 突然DIOがはっきりと声を上げたその時、体が浮かび上がり勢い良く木の幹に背中を打ち付けられる。衝撃で肺の中と気管が圧迫され息が詰まった。でかい手で顎を押さえられて身動きも取れない。その手は器用にあたしの顎をくいと斜め上に上げ、首元を曝させた。同時に目の前では、白く禍々しい牙がぐわりと開かれる。…ああ、喰われるのだ、きっと。冷静にそう思った。そしてその牙は真っ直ぐあたしの細い首元を狙い急降下して───止まった。

 怖くはなかった。
 あたしには赤い目を見た時から“それ”が見えていたから。
 フーッ、フーッ、と猫が怒った時のような息遣いと、わななく顎と肩を持つ手。牙は時間をかけてどうにか肌にちくりと先端が触れるまでに辿り着いたが、遂にそこを突き破り生き血を啜ることはなく閉じられた。
 ──怖がっているのがみえたから、怖くはなかった。
 顎と肩の手がはなれる。最後には壁ドンさながらの形で対面しているこの体勢のまま、あたしの肩に頭を乗せ項垂れる吸血鬼だけが残った。

「…怖くないよ、大丈夫」
「大丈夫だと、 大丈夫なわけが………あるか」
「…」
「残す方はさぞいい気分だろうよ。だがほっぽり出されたほうはどうなんだ、矢印がなくなってしまって迷う他ないじゃあないか、厭わない事なんざ只の無責任ではないかッ!!」
「…」
「のこしたい、などと、なあ、」

 歯を剥き出しにしながら怒り、しりすぼみで消沈する。その無責任さを分かっているくせに、意思を変えることが出来ないのだ。自ら、その“ばからしいこと”をしようとしているのだ。それに怒っているのが五割と、過去の思い出に五割、怒っている。
 できない、できないと何かが泣いて囁いている。
 あたしの血を吸い、殺すことが、この人には出来ない。
 嗚呼やっぱり共には死ねないのか。少しだけそうかなと思ってはいた、あたしはこの人を犠牲に遺されようとしている。DIOはやはりどうしても死ぬつもりでいるのだ。生きたがっていたくせにどうしてなんだ。この生きたがりの死にたがりめ。

「…痛かったろう」

 腑ブチ抜かれた時よりはだいぶましかな、とは流石に言いづらかった。

「言え」
「何を」
「乱暴をする化け物は嫌いだと言え」
「好き」
「無責任な自己満足を遂げようとしてる悪人なんか嫌いだと、はやく、言え」
「大好き」
「……」
「好き、ずっとよ。誰がなんて言ったって好きで居続けてやるんだから」

 項垂れたその首元に両手をかけて、頭部に頬を摺り寄せキスをする。ぐずりと、鼻を啜る音がどこからか聴こえた。残されることについてはなんとなくわかってはいたせいか特別強い感情には襲われなかった。DIOは顔を上げて、お返しというように額へキスを落としてきた。

「…………遺されたくないくせして聖人ヅラか」
「うん」
「嫌だろう」
「まあね」
「…そうだろうな」
「でもあたしをどうしても食べれないっていうそのカンジは……特別なカンジがする。から、嫌じゃないわ」

 ほうけた顔であたしを見下ろしていたDIOは、下瞼を上にカーブさせた目を伏せて笑った。彼はあたしを抱きかかえ、もう一度木の幹に背を向けてもたれかかり、人形にそうするようにあたしを抱き締め直した。

「昔、夢を見た」
「夢」
「なんでもなくリリィと過ごしていたある日、なんの前触れもなく俺はお前の血を吸い付くして殺してしまった」

 その方が良かったのかなあ。なんて、思ったりもするけれど。DIOは違うようだった。

「本当に、なんのきっかけもなくああそうだ食べてしまおう、と。置いていたおやつのことを思い出して食べるようにあっさりとだ。夢と現実の区別がつかなかった。腕の中には血を吸い尽くされても肌が真っ白になったまま枯れることなく事切れているお前がいた」
「幸せそうだった?」
「……………、わからんが、美しかったな」
「死体を褒められてもね」
「陶磁器人形(ビスクドール)のようだったのを憶えている」

 呆気ない。あっという間。そこに残ったのは一瞬であろう満腹感といつまでもいる実感の湧かない空虚さ。昨日さっきまで隣でうるさくしていた命が今この場で消えた。そのあと、なんでもなく過ごしていても目は面影を探そうとしていて、食べた次の日には何時もの茶会の時間に部屋に現れないからと自室へ訪ねに行っていた。ノックをする、返事はない、覗いた部屋は当然ながら空。近くを通ったテレンスに怪訝な顔で彼女なら昨日食べてしまったではないかと言われ、ああそうだったなと思い出し…気持ちは何とでもないはずなのに身に沁みる空虚さは力を増す。その次の日には散歩と称して館をうろついて無意識に居もしない人影を探す自分がいた。途中でいないことに気がついても足は止まらなかった。そのまた次の日も、次も。次も。リリィの姿はなかった。

「どちらが夢で現実か、起き抜けはわからずにいた。そして自分の部屋に現れたリリィの存在に救われ縋った自分がいた。食えなくなったのはいつからかわからないが、その頃にはすっかり牙を抜かれていたんだろうよ」

 その夢のおかげで今こうして噛み締めていられるものがあるのだろうか。選択できるものがあるのだろうか? 額にすりすりと慈しむように頬ずりをされる。死相を眺めながら朝日を見るより、リリィの生きている笑みを見ながら日を浴びるほうがいいと思えるのだ、そうすればきっと天国も完成するに違いない。

 天国。いつしかDIOはそれを「恐怖のない世界」だと言った。どうして見送ることが天国に繋がるのか。
 
「天国って、恐怖のない世界のことでしょう」
「そうだ」
「死ぬわけじゃないって言ってたじゃん、生きたままそれを見るんじゃないの?」

 あたしを抱きかかえるDIOの表情は見えなかった。新しくなったインナーの胸元に顔をつけ、大きな背中に手を回す。

「どうして死のうとしてるの?」

 吸血鬼は何も言わない。

「永遠を生きるんでしょうDIO。生きたかったんでしょう」

 天国は、思いの外近くに存在していた。そう言いながら大きな手はブルネットの癖っ毛を撫でた。「お前の中に天国はあるのだろう」と、かの帝王は優しく告げる。共にいた時のあの感覚こそ天国の片鱗であり、自分はずっと気づかないままに天国のすぐそばに居たのだということ。

「14の言葉、36の魂、場所と、時間」

 よくわからない言葉を羅列して息をつくかの帝王は、それらを思案していた“天国”をつくるための準備すべきだったもの達だと云った。
 それらを使って、「運命」を超越し、自分のその先に起こること全てを覚悟する。知っているかリリィ、人の運命は円環しているのだ。循環し続ける時間の中では、「未来」は「過去」でもあり、「過去」は「未来」でもある。循環に取り込まれている限り、時の潮流に飲み込まれている限り……「運命」に縛られ続け、その円環から逃れる事は出来ない。
 いきなりそんなことを言われる。理解に少し苦しんだが、運命を読むスタンドがいることを考えればその理論は納得のいくことだった。ボインゴという子のトト神、彼が読む運命は必ずで絶対が約束されている。そう断言できるのは、それがかつて起こっていたことだからだとしたら──ああ、考え出したら頭が痛くなってくる。輪廻だとかなんだとか、DIOはずっとこんなわけのわからない事を頭の中で反芻してたってことなんだろうか。頭おかしくなるわよそろそろ。

「その決められた運命の輪っかから逃げた世界を、DIOは天国だって言いたかったの?」
「ああそうだ」
「だとしたらDIO、DIOは神様になろうとしてるわ」

 ははは、とDIOは笑った。そうだ、そう言っても過言ではない。疲れの滲む笑みだった。
 
「…神様になって、輪から外れて、その次はどうしたかったの?」
「…」
「もしかして考えてないでしょ」

 いつものようにムキになってそんな事はないと答えるDIOはいなかった。黙って、目を伏せて、安心したようにあたしの髪に額を埋める。

「…具体的な目標は、確かに全く考えていなかった」
「それじゃあきっと、達成してもかなしいまんまだったかもね」
「そこまでいけば満たされるものがあると、思っていたが……ふふ、はは、嗚呼……そうか、そうだ、百年前も同じ事を考えていたな俺は」

 滑稽だな。
 郊外は戦いの爪痕で酷い有様だというのに、この館のあたりはやけに静かだった。

「だが強いて言うなら、一つだけない事はない」
「…?」
「決められた運命を辿る“次の自分”を、救いたかったのかもしれん」
「…」
「取り返したかった…のだろうな。そして取り返した先が、理想の、天国と俺が言った場所なんだろう」

 だから、やはり天国はお前の中にあるのだ。

「母はいない。が、今まで向けられたどの感情でもないまっすぐなもので俺を見て、隣にいて、奥底で望んでいたのだろうものを…愛情を、寄越した人物がいるのだから。天国はこんなに近くにあったというわけだ」

 まあまあ悪くない肩書きね。ちょっとだけ肩を揺らし笑ってから、DIOを見上げる。
 
「もう神様にはならなくていいの?」
「失うものはあれどこれもすべて“巡る”なら……お前との出会いを放棄するのは、ちとばかり惜しい」

 疲れがある中でも悪戯小僧のようにニタリと笑ってくるものだから、同じようにニタリと笑い返す。笑い返して、ふと微笑みの糸を切ってから胸に顔を押し付けた。

「そうね。わかってるわよ、天秤にかけたらあんたの方が死ぬべきなのは知ってるよ、でもあんたはそれを受け入れるようなヤツだったのかしら。おかしいわよ、DIOはそんなんじゃない。DIOは、もっと」

 赤い目を見上げて、次の言葉は言わないことにした。黙ってたら涙が出てきてしまって、目の前の両頬に手を添えて濁る視界に彼を映す。途方もなく長い道のりを無理にでも走ってきた疲れのツケは、ほんとうに、とても色濃かった。

「…………DIOあのさ」

 なんだ、と返事が来る。

「一緒に…いっそ、逃げちゃう?」

 その目が丸くなった。

「ね、そうしよ。そうしようか。因縁なんかに見つからないようなところまで逃げちゃって、もう難しいことなんにも考えずにいっつもみたいな日を過ごせばいいよ、ゆっくり疲れを回復させて、損した分取り戻そうよ。見つかったらまた逃げればいいしそれについては言うほど疲れないだろうし、いいアイデアだと思わないかしら。乗ってくれる?」

 百年分を取り返すくらい楽しく過ごそうじゃないか。
 だめなことだと分かっていても、あたしの口は震える喉を酷使して好き放題な事を述べていた。喉が熱い、なにか込み上げてきそうだ。喋る度に眉がぐしゃぐしゃと中心に寄ってきて、目も溶けそうなくらい熱い。それを必死に飲み込んで言葉を下界に放り投げる。
 彼らの事情を知らんぷりして裏切るような事を言い始めたのだ、最低である。だがあたしにだって欲はある。手をなんとか伸ばせば届きそうな所に落っこちている幸福を、みすみす他人のために都合良く諦められるようなお人好しでもなければ善人でもなかった。それを掴むことで犠牲者が現れることを解っていてもだ。それでも、言わずにはいられなかった。

「だめかな、DIO」
「俺の足は」
「あし…?」
「長く歩きすぎた。酷く痛むし、傷ばかり増えて血塗れだ。あちこちが爛れて目も当てられない」
「あたしが治療するから。歩いてなんて言ってないよ、脇道に逸れてからその場で少し座って休憩するだけ」

 歩ける足になるまで一緒に座ってようよ。DIOはあたしを自分の膝に座り直させ、頭を撫でた。

「指も何本かなくなってしまっている。座ったら痛みでもう立ち上がれない」
「吸血鬼だから治るわよ」
「ここまでよくやれたさ、なあ、そうだろうリリィ」
「…」
「そうだといってくれ」

 そうだと言って、そして。

「おれを、褒めてくれるか」

 褒められたものじゃない道のりだと知っていても。
 眼が濡れてキラキラと光っていた。右手をそっと白い頬に当てる。程よく、冷たかった。金色がこちらに寄ってきて額にキスを落とす。額じゃなくて、と文句を言ったらもう一度金が降りてきて唇を食まれ、鳥のように啄ばまれた。

「いつものDIOなら、悪い顔で笑って賛成って言ってくれるのにね」
「……」
「あたしを王様にするつもり?」
「…ああ、懐かしい話だな」
「あんたはアンティヌスにでもなりたいの?」

 憎いか。
 そう聞かれたから、首を振る。そうじゃない、そういうことじゃあない。

「俺は憎い」

 その瞳は相変わらず濡れていた。赤くて瑞々しく美味しそうで、こちらに落ちてきそう。なんて場違いなことを想像してしまった。

「それでもお前は遺したい」

 アンティヌスの心情が、今になってわからないでもない。泣かれても憎まれても恨まれてでも、自分の死で王の命を繋ぎ、彼の足下に転がった希望に全てを託した気分でいたかったんだろう。
 まあ、それをばからしい、と思う心は変わらんのだがな。と、自虐的にからからと笑う。大きな手がまた一つ髪を撫でた。

「お前は俺の気紛れでこちらの道に転んだに過ぎない、だから戻れる道標が現れた。お前はまだ太陽を見れるのだから、こちらで俺の足の回復を待ってたらそのうち不幸に身を喰われるぞ」

 そんなことはない。だって三年もの間、あたしは不幸ではなかったのだから。反論したかったけれど黙っていた。

「……お前に、先を生きて欲しいと思っている。こちらではなく、太陽の当たる方でだ。お前には歩ける体と権利がある。今よりもっと素晴らしいものがそこでは観れるし、お前はもっと美しく輝くだろう」
「そうしたらDIOは幸せになる?」

 声が止んだ。もう一度息をゆっくり吸い込み、ゆっくり言葉を吐き出す。

「あたしがもし言う通りにしたら、DIOは、幸せになれる?」
「わからない」

 DIOは緩く首を振った。

「が、ここまでしぶとく生きている意味はあったのだと、思えるだろうな」
「結局、逃げないのね」
「お前は怒らないのだな」

 怒る気も泣く気もなくなっちゃったのよ。眉間に皺を寄せ息が詰まりそうな笑い方をする彼の顔に手を当て、皺くちゃの間を指で伸ばし広げる。

「わかってたから」
「…なぜ」
「ずっと一緒にいてくれるか聞いた時、それだけには返事してくれなかったでしょ」
「…」
「じゃあ怒ったら何かしてくれる?泣いたら一緒に逃げてくれる?」

 ちょっとした鬱憤晴らしも少しだけ混ぜて、赤い目を射抜くように突き刺すように逸らさず見る。面倒くさい第六感は、口程にものを言う彼の目から実に色んなものをこちらに教えた。…はて、前までこんなに多く読めることがあっただろうか。ゲームのアビリティのように、進化でもしたんだろうか。否、そういうわけではないみたいだった。

「何もしない自分を嫌ってほしい?」

 艶やかに潤い輝く赤。禁断の知恵の実と同じ色。あの日母から流れていた色。あたしと同じ色。あたしに似合うと言ってくれた色。思い出のブローチとリボンの色。きっとリリィという女の運命の色。

「…こっぴどく突き放してほしくもあって、けれど、同時に、嫌わないでほしいおれがいる」

 手が、手に触れた。手は、あたしの左指達に絡まって、恋人繋ぎとなった。さっきと何ら変わらぬ表情の中に埋め込まれている艶やかな赤から、流れ星みたいな一筋の滴が流れた。表情は崩れず、またひとつ、ひとつと流れ星がながれる。

「嫌わないでくれ」
「…」
「どうか」
「うん」
「さいごまで、すきだと言い続けては、くれないか」
「いいよ」
「次は、次の時は、おれが言おう、いうから、」
「じゃあ倍で返してね、ズルはゼッタイなし」
「リリィ、……リリ、ィ。」
「約束よ」

 崩れなかった表情ががたがたに崩れて、わあわあと泣きはじめる。子供みたいだ。ああやっと、全てを預けてくれた。全部をくれた。そんな気分だった。背を丸めて凡そ百二十年分泣きつく吸血鬼を今度はあたしが胸に収める番だ。

「ねえ、ずるいひと? あたしがこうやってずるい話を受けてやるの、あんたにはなんでだかわかるかしら」

 あたしがDIOならきっと同じことをするからよ。
 ぐずん、と自分も鼻を啜ってDIOの顔を持ち上げ視線に目を合わせる。あのまま賛成されてたら逃げるつもり満々でもあったけど、それはどうやら無しみたいだし、彼らに怒られないで済むから損して得とれって感じかしら。邪魔をしてくる前髪を手で掻き上げて、親指の腹で八の字に情けなく下がった眉をもう一回伸ばす。涙でぐちゃぐちゃじゃない、台無し過ぎ。笑って頬すりをする。
 あたしは全く善人ではないけれど、愛しい人が望むことならそれも自分の幸福の一つには思える人ではあったらしい。

「…生きるの、疲れちゃったわね」
「…、ああ」

 ほんとうに、つかれた。
 がらがらの声が鼓膜を震わせる。目を閉じて、金色を抱き締めた。


「もう、おわろっか」

 腕が絡みつく。こくり、ゆっくりと縦に首が動いた。









ハローヘブングッバイワールド


 これは、幸せのためにしあわせになれなかった二人の話だ。




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文字数見れない人もいるだろうと思ったので分けました。次が締めです。

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