すまなかった、という言葉に、堪らずにもう一度首に抱き着く。そうしながらDIOに言われたことを改めて噛み締めていると意味不明にまた泣きそうになっているあたしがいた。 八つ当たりなんてみっともないことをして。こんなこと嬉しくないわけがないのに。 「…あたしが白猫でもいいなんてさ 嘘でもいいやって思っちゃうくらいほんとは嬉しいのよ。嫌なわけが、ないでしょ」 散々激情した後の頭の中は、さっきとは大違いですっきりとしていた。 だからお願いだからそんな顔しないで。とDIOの頬を撫でる。彼が黙っている間ぽすりとがたいの良い肩に体重を預けながら、ぼーっと考える。嘘だとかどうだとか、疑うわけではない。けど何せ悪の帝王さまだし、やはりどの可能性に転がったってあたしは結局この化け物を許すことになるのだろう。恐らく最悪のはずのシナリオで「仕方ない」とか「別にいいかな」なんて考えてる時点で、あたしにこいつを怨霊のように死んでも恨んでいるのは無理なことなのだ。私程度の存在で彼にあの百万回生きた猫の白猫だと言わしめたこと自体儲け物だ。 「……仮に、本気で嘘でも許すのか」 「そーよ」 「あんなに怒っていたくせに」 「それは……わかるでしょ」 あれはちょっと忘れてほしいんだけど、とDIOの首に顔を埋めてもごもごと言い訳をする。むしろあれだけダイレクトに言って伝わってないのが不思議だ。男女の思考構造の違いってやつなんだろうか。 「あんた裏返しの感情とか読むの得意なんじゃないの」 「なんだそのイメージは」 「タイミングに怒っちゃっただけで、私の本心はこっちよ。あんなこと言ってしまったけど、あんたのようなやつの心のどっかにあたしの存在が、どんな形であれ引っかかってくれていたんなら……もうなんだっていいの。それだけでよかったのよ、嘘だってなんだって」 「……今更と、怒っていたじゃあないか、」 「戻れないものは仕方ないでしょ? 戻せないものに怒ったって体力の無駄だし、DIOに、さっきみたいな顔してほしくない」 「……」 「だからいいのよ」 今だから思えるけど、このまま実は全部嘘でしたーってなって、上げて落とすネタバラシをされて食われるってオチでもDIOなら仕方ないかなあなんて、思ってしまう。うっかりこんなやつに惚れてしまった弱みか、そう言ってくれたという事実だけでも満足できる気がした。 あたしくらいは許してやっても神様に罰は当たらないだろうか?当たらないよね、当たり前よ、神様なんかに慈愛を罰する資格なんてあるもんか。そーでもしてあげないとDIOを許してくれる人があの怪しい神父見習いだけになっちゃうもの、そんなのむさ苦しいじゃない。可哀想よ! 愛しさを込め首元に抱きつく力を強めて、顔をDIOの方に寄せながら小さく笑った。泣いた後の頬のむず痒さに、無意識で首と自分の腕の間に顔を擦り付ける。こんな考え方をする分ネガティブはDIOよりあたしの方かな、いや…この考え方はいっそポジティブ?自分が言ってることがなんだか恥ずかしくなってきた。やられるならいっそ笑われて殺されさえすればハッピーエンドかしら、なんて。 「あんたの中ではありとあらゆるものを壊すだけの人生だったかもしれないけど、でもね、あたしはそんなあんたに二回目の生を与えられたのよ。ことあるごとに壊す者与える者だとかぐちぐち言ってたけどあんただって壊す以外にも出来てるんじゃあないの?」 “リリィ”という存在が、DIOが与えることが出来たという証拠になるでしょう。 ──急に、DIOの節の太い腕が腰に絡み付いた。あまりの突然さに意味不明の声を上げてしまう。DIOの腕がびくつき緩まった。行動の彼らしくなさに首を傾げて「DIO?」と呼ぶ。 「嬉しい、のか」 「うん」 「本当に」 「さっきからそーいってるでしょ」 「嘘でも」 「言葉にした事実だけは嘘じゃないもの」 「屁理屈だな」 「それもそうね」 「それは」 「…」 「嘘でなければ、どうなるんだ」 「…………んん、まあ、真実なら、とびきり嬉しかったりして、ね?」 ちらりと、DIOの赤い目を見る。 あたしが考えていた…自分の中で納得できなくなってしまうんじゃないかと思っていた“最良の終わり方”は、激情が過ぎ去った今考え直しても結局意思は変わらず、全然ちっとも怖くなんかなくて、そりゃ辛い気持ちはあるけれど、一片も変わることなく未だに異論はなかった。さっき言った“最悪の終わり”も勿論のこと。けれど───本当はね。本音の本音を言うとね。望んでもいいのならだけれど、DIOが言ってくれたように“白猫”になりたいし。まだ、まだまだずーっとお互い欠けることなく一緒に世界に居たいと、狂おしいくらいに願っている。無理に決まっているのだけれど。 腕の力が少しだけ、強まる。 「お前の、その悟ったような笑い方は好かん」 「…?」 「わたしを甘やかすな」 「……」 「泥で固めたような笑顔をしやがって。怒りたい時は怒れ、笑いたい時に笑え、泣き喚きたければ幾らでもそうしろ、……せめて、俺の前でくらい、そうしてくれたって」 声色が少し震えていた。 大人のような態度をとりやがって。と、DIOはその震えを隠すように顔を歪めて唾を吐き捨てるように言った。 …彼はあたしにもっと子供でいろというのだ。でもそうしたらきっと鬱陶しがられちゃうし、さっきのように傷付けもする。あたしは子供でいるには年を取りすぎたし色々察しすぎるし、学び過ぎた。 感情を読むのが得意な吸血鬼。あんたがこの笑い方を偽の形だというんなら、きっとそれで間違いはないんだろう。けれどそんな事を言われたら本当の笑みとはどんなものかあたしにはまるで理解できない。生憎この笑みとは十年以上の付き合いなのだから。何も知らないでいた頃ならそれを出せていたのだろうか、人の汚れた場所を誰よりも濃く知ってしまう第六感なんてなければ或いは……考えたって仕方ないけれど。 「…ずっと いつしかの頃からか。お前の本心はどうしたら見れるのかと、お前のそれは何処にあるのかと探していた。結局惜しいところまでいってもそれは見れずに、とうとう俺は」 最後まで、無理やりに傷口を開けて本心を覗くことしかできなかった。しかも、その痛々しい傷口はすぐに閉じてまた平常を繕い始める。堪らなく悔しい。いつになれば俺は痛め付けることなく本心を知れる日がくるというんだ。 「またおまえはそうやって一人で勝手に悟り、笑うのだ!くそ、クソッタレがッどうしてくれる…なんなんだこれはっ、お前みたいな小娘ごときにこのおれがッ!」 いきなり髪を掻き毟ったかと思えば肩を掴まれ胸から引き離され、獣はぐわりと久方振りにあたしへ牙を剥いた。DIOは途端にハッと顔色を変えてから怯えたように手を離し、崩れた前髪を掻き、「違うそうじゃない」と悩ましげに首を振った。顔を手で覆い、何かを隠すように縮こまり俯く。あたしはじっと、胸の前の太腿と太腿の狭間で、そんな一人の男を見つめて静かに待つ。 「……」 「みにくいだろ……おれのほうが、よっぽど子供だ」 「思わないわよ」 「うそをつくな」 ──こんなではお前に本音を言ってもらう依然の問題だな。否、お前が何も言わないわけだ。 「子供相手に子供になれるわけがないな」 縮こまる大きな獣は泣き出しそうな声を出した。 「醜いも何も、これがDIOだもの。子供だろうとなんだろうとこれがあたしが好きだと思ったDIOなのよ」 「……」 「あんたは自分を醜いと思ってるの?」 「…」 「DIO」 彼は暫くじっと縮こまってから、顔を上げて忌々しそうにあたしを軽くだが睨みつけた。 「そういうところが、嫌なんだ。リリィ、お前の本音はどうなんだ、真髄は、いったいどこにある」 「…しんずいって」 「さっきは、見せてくれたじゃないか、なぜ俺に全部を見せてくれない」 お前はいつもこちらを真っ直ぐに見つめて、誰にも見せられない歪んで汚れた箇所も余すところなく受け入れてくる。それならリリィの中にある“その部分”は?“その部分”を受け止められたあとのお前の安心は、その安心から浮かべる表情はどこにある?受け入れてもらうばかりでお前は誰が受け入れる? 怒りを叩きつけ泣いていたさっきのリリィは確かに真髄のリリィだった。でもそれは傷が開けたことによって出た中身だ、見たい其れを引き出すために何かをしようとすればするほど、言葉のナイフは増えてこれでは全部を聴ける前に傷を修復できなくなったお前が壊れてしまう。DIOはそんな言葉を絞りに絞った嗄れ声で呻いた。 「…全く、笑わせてくれる」 「…」 「お前は全部を自分のせいだと言うが、全ての元を辿れば、俺がそうさせているのだぞ」 そんな俺でも好きだというのか、お前は。 お前に理不尽を強いた自分をもっと怒れとDIOは怒っていた。 ああだからやっぱりあたしは感情に任せるべきじゃなかったんだ。DIOの顔に手を伸ばす。やっとの事で告げてくれたらしいあの言葉を、踏み躙ってしまった。こんなにひどいことってない。 「元凶は全部」 「DIO、ずっとききたかったんだけれど」 「…」 「なんで自分からワルモノになりに行こうとするの」 「ならお前はどうして自分から傷付きに行く。理不尽を許して辛酸を被りにくるんだ」 「、…違うわよ、だって、言う通りに待てなかったのはあたしよ。DIOが意を決して言ってくれた言葉だって怒りに任せて踏んだのはあたしで、」 「お前は本当に何もわかっていない」 それは献身的すぎる考えだ。しかもそれは己の身を滅ぼしかねない献身だ。DIOは見覚えがある事のように真剣に、言い聞かせるようにあたしの目を捉える。 「お前は俺を甘やかして、自分のせいにし悪者になろうとしてるだけだ。何も違ってなどいない。わかるな」 「……」 「真実であればもっと嬉しいと、言ってくれたのなら尚更」 要らん罪を被りにいって馬鹿な女だ。火種が俺である事実は変えられないというのに。 吸血鬼は、私から目を外しまた顔を俯かせ、大きな体を縮こめて唸る獣のように言った。もっと感情をぶつけろ、さっきのように俺を咎めろ、そんな事ばかりを言っている裏腹で嫌われ突き放されるのがこわいと全身が訴えていた。目を細める。唖々あんたは本当にわかりやすい。 あのね。と声を出す。 「傷付きにいってるんじゃなくてね。嘘でも許すっていったのも悪かったって思うのも全部、DIOが苦しい顔をするのが嫌だから、DIOのことが本当に大好きだから」 さらりと恥ずかしい事口走ってしまったけれど、もういいや。DIOの指がぴくりと動く。 「ちゃんとわかってる?」 「……普通なら不可能だ、好意と恨みは表裏一体なんだぞ」 「普通はね」 「…自分は違うとでも言いたいか」 「これがごく普通のベクトルなら、こんなこと言えないと思わない?」 憎たらしかっただけの第六感が、少なくともこの男が今に至るまで何も嘘をついているようには感じないと言っているから、堂々とそう言えるのだろうか。もしわからなければ、ただのヒトのようにあたしは彼を恨んでいたか。…嗚呼でも、さっきも言ったけれどそんなIFなんか幾ら脳内でシュミレートしたって、それを考えるあたしが“今のあたし”である限り、リリィにも百合にも彼を恨むことは出来なさそうだ。 「それなら俺だって同じだ」 「…」 「お前がさっきのような己の感情を二の次にして母親のように笑うのが、気に食わん」 「…」 「もっとお前は子供でいたっていいだろ、俺はそんなに不甲斐ないか、今は、不甲斐ないかもしれんが自分の背負うものをお前如きに背負わせるほど俺は落ちぶれてなんぞいない、だからお前は」 「もっと怒って欲しい?」 獣を見る。柘榴のように甘い赤をした目は、自分を完膚なきまでに叩きのめしてほしいように感じた。あんたにもそんな風に思うことってあるのね、と勝手に微笑む。どこまでも人間臭い吸血鬼。そんなんだから承太郎に勝てなかったのだろうし、そうだからこそあたしは彼のことをこんなに愛しいと思ってしまうのだ。 「確かにね、一番に手を取ってくれなかったのは凄く悲しかったけど、よく考えてみたら真っ先にそんなカッコいいこと出来る程あたしの知ってるDIOは器用じゃない印象だったからさ」 仕方のない事だったんだなって。 誰しもにある間違いを、不器用な人の不器用な間違いを、相手の事を考えずに頭ごなしに怒れるほどあたしは自分が好きではないから。 そう言い終わると、DIOは益々泣きそうな顔でいた。 「俺はこんな、」 「うん…」 「俺はこんなじゃない、こんなことを。こんな、ことを、いいたいのでは」 ひどく歪んだ自分の顔を片手で覆って、苦しそうだ。残った右手は地面をガリガリと抉っている。そんなの痛いでしょう。だからその右手はこの手に取ってしまおう。大きな手を両手で握って、魔法の言葉を唱える。 「大丈夫」 覆われていた赤い目が、こちらを向いた。 「今までのこと考えてみなよ。ちょっとやそっとのことくらいでDIOを嫌いになると思う?」 「…」 「ならないわよ。だって、さっき怒った時だってあたしは……もう一度あんたのことを嫌いって、言えなかったもの」 だから安心してなんでもいって。言いたいことをちゃんと言えるまで時間の許す限り待つから。 歪んでいた獣の顔は目を大きく開かせてから、ゆるゆると時間をかけてその目を伏せた。伏せて、またそこからしばらくした後にテノールの声色を空中に放つ。 「……こんなでは、確かに拠り所にできるはずもないな」 あまりにも頼り無く無様だ。 そんな元気のない独り言に、今はそれでいいのよ。と、髪を撫でる。 「…リリィ」 「なに?」 「お前は間違いなく大馬鹿ものだな」 「ンンー、そうかしら」 「俺は、馬鹿なお前の、……馬鹿のように笑うところが。見たかっただけだ。ただ純粋な、笑うかおが 欲しかった」 笑う顔。なによ笑ってたじゃない、と言うと、何度も言わせるなと縮こまらせた巨体を幾ばくか解いたDIOが眉を盛大に顰めて溜め息をついてあたしを見下ろした。 「お前は自身で気付いとらんだけだ間抜け」 「…で?見たかったからの、その続きは?」 「………例えばそのリボン、土産の飾りだといつか言ったろう」 「言ってたけど」 「そんなものが土産の飾りなわけがあるか阿保が」 「なにそのお前が悪いぜみたいな言い方ムカつく」 ああえっとつまり、と脳内で唸りながらこめかみに手を当てる。とどのつまりあんたが言いたいのはどういうことなのかしら?なんて続きを催促してみれば、抗う術も逃げ道も自分で絶ってしまっていたDIOが酷く言いづらそうにしてそっぽを向いた。 「お前に笑ってもらうより先に、プッチに笑われてしまったのだ。どうしてくれる」 「…なら、ちょっと貴重度合いが高くなった『ついで』じゃあない贈り物ってことで解釈はあってるわけ?」 「……フン…感謝しろよ、そんな事をしたのなんかお前くらいなのだからな」 「…」 「な なんだ」 べつに。とだけ言ってから、ちょっとだけ微笑みを顔に出してみる。何を笑ってるんだと言いたげに、というかただ吃驚しているように目をぱちくりさせるDIOに対して更にほくそ笑みながら枕に頭を預けるようにして厚い胸板に頬を押し当てる。 「そんな言い方、調子に乗っちゃいそう」 「……」 「DIO?」 「今、」 「?」 「、い……や、なんでもない」 「で、それによってお目当てだった表情は見れた?」 「…」 「どんな笑い方してたってのよマジで失礼だわあんた」 0点ではないが、満足するものではなかったらしい。──自分でさえよくわからない、俺自身を突き動かすその感情を悟られるのも深く理解するのもいやだったので、目を逸らしながら静かに模索し、手探り。しかしそんなやり方では“それらしいこと”をしたこともないくせに満足するものを手繰り寄せれるわけがなく、長い時を経て“決定打”を受け漸く意を決し伝えれたものの、自分の行動のしっぺ返しがきて結局今に至る。と彼は他人を馬鹿にしてるかのような言い方で云う。 決定打とは。 そう聞いたら、あたしが血を寄越した事だとDIOは言うのだ。疑問がある時の象徴としてぐぐ、と自分の眉が顰められる。 「血があんまりにも不味かったから意を決したわけ?」 「そんなマヌケな話があってたまるか。お前、それは」 わかるだろう。 わからないわよ。 即答の代わりに、盛大な溜め息と拗ねたようなしかめっ面が返ってきた。なんなのよ…こっちがしかめっ面したいわ。はっきり言え。DIOはしかめっ面のまま挙動不審な様子で、目線や顔をあっちこっちに向けてはあーだのうーだの咳払いだのして、またじっと黙り込んでから、早口で聞き取るのがやっとの声で。 「半吸血鬼の血がマズイなど俺はしらん」 「は」 「さっきはじめて飲んだが、その、普通に美味かった」 「…」 「…白猫が餌など願い下げだろう」 「……」 なによそれ、あんたらしくない。帝王なんてどこにもいない情けない顔して頼りない声出して。…そんなこと、聞くんじゃなかった。目元どころかどこかしこもガンガンと体感温度は上昇の一途を辿るので、慌てて顔を覆うものの「隠すな」と言われ敢え無く引き剥がされてしまった。この調子じゃ人間の平熱なんてとうに越してるわよ。だからずっと死ぬ日を引き伸ばしにされてたの?でもそういうことだったんなら、一体その感情を持ち始めたのはいつからなのよ、いつから、……あたしは本当に、今の状況に期待してしまっていいのだろうか。喧しい心臓も呼吸も最早打ち止められなかった。そこに、だが、という声が唐突に響いて再び現実に引き戻される。金色の男は疲れているせいか心なしか目の下に隈ができていて、数時間前よりもぼろぼろでやつれた顔を悲しそうな笑みで歪めながら、あたしの方へ額を摺り寄せた。 「……自分の感情に目を逸らすべきではなかったのかもしれない」 「…どうしてそう思うの?」 「正直に、このリボンをお前に渡していれば、俺はきっと別の道を見出せていたかもしれない」 と、さっきそう思った。 やつれた男は、癒しを求めるようにあたしにしがみついていた。 「口にしてみれば、俺は、ずっとお前を思っていたのだな。それでもあの時お前の手を取らなかった。あのお前が、“死ぬこと”にしか執着のなかったリリィが、本当に唯一欲した願いを選りに選って拒否してしまった」 嫌いだと泣きそうな顔で言われてからことの大事に気づいたが、もう手遅れだった。 覗き込む濡れた赤が、一瞬だけ青になった、そんな気がした。 「それをお前は全部己の傲慢だったと、そんな馬鹿な事を言い自ら餌になりにくる始末だ。お前のような間抜けた女などみたことがない」 あたしの髪を額から撫でるように掻き上げた手はこの男にはあり得なかったはずの慈しみを帯びていて、同時に苛立ちもあり、でもそれはぶつける事が出来ないものでもどかしそうだった。眉間に皺が集まり、髪から滑り落ちた手があたしの肩をギリリと掴む。痛い、けれど、DIOの“痛そうな顔”をみたらこんなのどうって事のない痛覚でしかない。一瞬だけ垣間見えた怒気とか悲哀だとか、やるせなさ、兎に角様々な色をパレットにぶちまけてぐちゃぐちゃに混ぜ込んでいるような瞳は、あたしの首筋に埋まって見えなくなった。 「どれだけ、お前はおれをコケにする気だ…ッ どうして全部自分がいけないなんて無駄な加害者面を、いい加減にしろッ……そこまでして何の得にもならんものばっかりを抱えて笑うのが、お前のそういうところが頗る気に食わん!!母も!あのエリナも!!大嫌いだ!!そんなものではなかったはずだ、俺は、ならどうすればッ」 そこまで言ってから、はっとして顔を上げた彫刻よりも美しい顔から血の気が引く。慌ててあたしと顔を合わせる吸血鬼は相変わらず嫌われる事にとても怯えている。手を離さないでくれ愛をくれと小さな子供の声は時間を追うごとに肥大化して顕著に訴えかけてくる、それと同時に自分が無意識に放つ言葉のナイフであたしの身が裂けはしないかと恐れていた。嫌わないと言ったのに、いや、彼からすれば言葉なんて何の確証にもならないのか。 ジョナサンにあり、あの糞のような父親さえも持っていたものが漸く自分のそばにも出来たというのに、酷く不安で恐ろしい。化け物になり損なった男は述べる。 此方にしてくれたように額の金糸を撫でるように掻き上げてやると、その手に安堵してくれたのか幾ばくか気が緩んだ顔になってくれた。 お前は悪女の部類の癖に俺に対してはいつも聖女のような事をする。──掠れた声が言った。それがどうにも鳴らなくなったはずの心臓を疼かせ胸を掻き乱す。理由は解らなかったが狂おしく、形容し難い甘みを帯びた苦しさだった。しかしその感情全ては、 自ら手を払った時に見た真紅と後ろを向いて消えた小さな背中によって刃物となり心臓のありとあらゆる場所を切り裂いていった。温かみを失った手は存外に肌寒く、隣に誰もいない道は薄暗く、孤独とは、こうも虚無なものだったか。俺は間違っていない、間違ってなどいるものか。いつからか自分を否定する事が許されなくなった一種の強迫観念の中その一心で暴れて、壊して、倒れたその先に、自分から突き放してしまったはずのお前は自分を生かす為に死のうと笑っていたのだから。 「私だけの聖女、お前がそんなことをするから、もう負けを認めるしかないんじゃあないか、わたし、は、おれは、お前に何も、なにひとつ」 やさしくわらってやれたことがない。 これでもかというほどあたしを抱き締めて後悔ばかりを零す。後悔ばかりなのはこっちも同じだ。──だけれどねDIO、あなたは時々だけどちゃんと優しく笑ってくれていたよ。そう耳元で伝えてから、ややあって落ち着いてきたのか、深く呼吸をひとつして、潰れた声が嘲笑と一緒に転がり出た。 「特にあの糞野郎と同じようなことをしているのかと思えば、やりようがないほど腑が煮え繰り返りそうになる。……俺は生まれ変わったはずなのに、やはり…そうだな、血統からはどうしたって」 「DIO」 「…、」 「…」 「…そんな強情な目で俺をみるな」 そんな事をいうのはもうやめなさい。そんな意味を込めて見つめていたら血がこびりついた金色の癖毛は、荒げた声をフェードアウトさせてもう一度あたしの肩に頭の重みを預けた。その首周りに精一杯の優しさを込めて手を回し抱き締める。 今後どうするかどう伝えるかなんて全部終わった後に考えればいいと、ゆっくりと築き上げた積み木を崩すのに躊躇して優先順位を間違え、何処までも後回しにした結果がこれだ。大事だったくせに一番に選んでやれなかったせいでこうなった。そんな顔を見たかったんじゃあなかったのに、結局その積み木は最後の最後自分で一気に壊してしまったというのに。積み木をここまで積み上げれた事がなかったから崩し方がわからなかったと言われればそうなのかもしれないが、そんなのは言い訳の欠片にもならないだろう。 「手を掴むタイミングも遅ければ、告げるのも遅すぎる。全部の行為がお前を傷付けるものにかわってしまって、これはもう、…なんだかな、どうしようも、ないな」 カラカラに乾いた喉をわななかせて、力無く笑う。 「間違いに気付くのはいつも間違い終わった後だ」 怒っていた時のお前が言っていた通りでしかないのだ。 DIOは云った。 然るべき時に、この気持ちを伝えていれば結末は変わったかもしれない。どうして“今”なのか。今になってしまったのか。これはお前の我儘なんかではなく正当な自分の罪なのだ。 足元に転がるばらばらになった積み木達が間違えた自分を追い詰めていた。どうしようもなくなったその時ふと思い出したのが百万回生きた猫の話で、どうにか全てを払拭したい一心で言った言葉はよくよく考えれば時効にも程があり、リリィを傷つけるだけの代物になって、結局どうしようもないことに変わりはなくて。報われなさも何もかもただ暴走した仇が返ってきただけの当然の結果であった。それ故に激昂したお前には本当に嫌われたのだと。嫌われても仕方ないし、いっそ嫌われちまえば良かったのかもしれない。 一息に言い放たれた言語の羅列を飲み込んで、 金の髪を撫でる。やがて肩に乗った吸血鬼の頭は震えた声で小さく嗤った。 笑え。 殆どが空気のような、弱い声だ。 「どうして?」 「愉快だろう、あんまりに滑稽だ」 「戦いが終わったら、ちゃんと戻ってきてくれるつもりだったんでしょ。さっきもいったけどそれはあたしの」 やめろ。言ったそばから。と低い声が窘めた。 「……心配で追いかけたのか、疑心で追いかけたのか、どちらなんだ」 「…五分五分かな。いきなり、消えられたもんだから」 「やはりそこから間違えたのだな」 「もう間違いっていうのやめよーよ」 「……」 「DIOがしんどいでしょ」 ──今よく考えれば。リリィが追い掛けずに待ってくれていたとしても、お前の顔見知りを殺した後でお前に前と同じ目で俺を見るなんて出来ないだろうし、きっと以前までの自分達にはどう足掻いても戻れなくなるのは火を見るよりも明らかだ。だから笑えと吸血鬼は嗤っていた。自分の選択した道は何時も間違ってばかりだ。 依然猫を撫でるように肩にある頭を撫でるのをやめて胸に押し込んでやらんばかりに力を入れると、腕の力が優しくなった。 「なんにせよ、面白くなんかないのに笑えるほど器用じゃないから」 「違う、どうせ無理なら今のままの笑みを見ている方がマシだといってるんだ」 「わからないやつね、そうやって決めつけてどうするの?もう一回たった一文を口にするだけでお望みのものが見れるかもしれないのに妥協するのかしら?帝王のくせに」 何を見れるという。疲れ切った金色が顔を上げた。 「嘘でもいいなんていう慈愛の笑みがいやなら、慈愛の笑みをする必要をなくさせちゃえばいいじゃない」 「…」 「あたしに降参したんでしょ?だったら教えてよ、DIO」 大事な事をまだちゃんと伝えてもらってないわ。真偽を問うているの。そうしてくれたらあたしは望むものをあなたにあげられるかもしれない。 猫のような目は、此方をじっと見つめていた。二人分の息遣いだけが聞こえる空間にいる。スタンドなんて使ってないのに時が止まり続けているかのようなおかしな感覚だ。やがて、唇が開かれ、数十秒ぶりに言葉が紡がれた。 「嘘、では、」 「…うん」 「…嘘じゃ、…ない」 「うん」 肩から起き上がったDIOの手が、左手の甲に触れ、恐る恐る重なりぎゅうとこちらを握り締める。 「リリィ」 「はい」 「俺の、白猫になれ」 「DIOらしくていいけど、もっと、ちゃんとした別の言い方を出来たらね」 あら、狼狽えてる、狼狽えてる。 余裕のポーカーフェイスが崩れかけ、その顔は悔しそうに歪んだうえに真っ赤なのだから、つい吹き出してしまいそうになってしまう。すると、ぱちりと柘榴の目と目がぶつかった。ちょっとだけ、心臓が動きを再開する。 「…リリィよ」 「なに?」 「この俺を、こんな感情に触れさせたのはお前だけだ。絶対に許してなどやらんからな、たかが小娘のくせに」 確かに同じ声で同じ人のはずだが、対峙していたあの時までの人を惑わすような妖しい雰囲気も、さっきまでの忌々しそうな声色もどこにもなかった。夜中にどうでもいいお喋りをしてる時のものに、いくつか真剣さと沢山の緊張を足したような。DIOの癖にそんな上擦った声だして、やっぱり誰よりも人間らしいんじゃあないか。敢えてだが言わせてもらいたい気分よ、ざまあみろ信者共!こんな彼の顔も心も、あたししか知らないんだから!ってね。 「小娘で悪かったわね」 「…」 「DIO?」 固いものを飲み込んでしまったような難しい顔をして、DIOが掴んだあたしの手が腰に添えられた腕と連動し少しあちら側に引っ張られ距離が近付く。この吸血鬼の目がこれ程までに熱かったことなど、今まであっただろうか。嗚呼──この目は紛れもなくあたしの、「リリィ」だけのものなのだ。そんなちょっとした優越感に浸っていると、DIOがスゥと目を細め、愛おしげに顔をこちらの頬に擦り寄せた。それまでぎゅっと固く結ばれていた口許はおずおずと開かれ、ひゅ、と息を吸い込んで、喉笛が震えた。 「愛している」 カッコイイもへったくれもない、緊張で乾いて震えきった声の、超カッコ悪くてすごく必死な言葉ひとつ。 危うく、呼吸の仕方を忘れそうになった。 「っ、……ぁ〜〜…あーーーー…も、ちょっと、まったギブ、ギブよこの雰囲気よく考えたらだめだわもうむりしんじゃう」 「…なんだその初心な反応は」 「うっさいわねッあんたこそさっきから、ヒトのこと言えるとでも思ってんの!」 「いた、痛いぞ阿呆が顔を押すな、首がもげるッ言えと言ったのはお前だろうが!」 「そーだけど!!」 だってこんなのあんたが百パーセント悪い。近いDIOの顔を両手で押し出してうーうー唸る。最初はあーDIOらしい言い方だなーって思える感じだったのにいきなり、こんな真剣に、言えるならはじめから普通に言いなさいッてのよ。さっきとちぐはぐな事をいってんのは自覚してるけれど。空気感についていけなくて体が熱いし痒いしもうどうしたらいいのかわからない。突然のテロに爆発しかけた心臓を押さえて落ち着こうとしていると、あたしの様子に何故か調子に乗ったDIOが随分と余裕なさげにニヤリと笑った。 「…、ふん。なんならそうだ、誓いのキスでもしてやっていいぞ?ンン?」 ──言ったわね。 とありったけの気迫を込めて顔を上げると、DIOの顔が(少しだけ)青褪めた。やられっぱなしでなんていられるか。…有言実行されたら爆死するのは間違いなくこっちなんだけれど。 「じゃあ、しなさいよ」 「、」 「ほら」 「待て」 「ほら、ほらほらほらッ」 「待て少しまてこういうものには雰囲気が」 「何その初心な反応」 「仕返しのつもりかリリィ…」 「あんたこそ散々色んなやつとやりまくってたくせになにを今更」 「今そっちは関係ないだろうがッ」 早くしなさいよ。してくれるんでしょう?なんて顔を近付けたらすごく真っ赤。トマトみたい。百戦錬磨の帝王ともあろう人が調子に乗った挙句形無しだわ。なんて堪えきれずにくすくす笑ってたら、ふにっとした柔らかいものが額に触れて笑いが止まった。依然トマト顔で、しかし、得意気なそれははやりどこまでも余裕なさげながら意地悪げに口角を上げ、「口先だけのこのDIOでは」云々とかなんとか言ってて。あたしはあたしで呆気にとられてるのか知らないがなに意味わかんないところに口付けぶちかましてんだとか色々ツッコみたい事があるのに、更には生娘でもありゃしないくせに恥ずかしさもひとしおで口籠ってしまい、何でかDIOも黙ってしまった。なんだこれ。 信じられる?こう見えて非童貞と非処女よコレ。それでもどっちもこんなことした経験ないのよ。マジに信じられないわ。 「…な…んで、おでこなのよバカなの」 「………お前が前に見てたテレビではそうだっただろう。敢えてだ、敢えて」 「おでことかいつもとかわんないじゃん」 「意味合いが、違うだろう」 「唇は?」 「…で、できるに決まっている」 「まだ?」 「今覚悟してるから待て」 「…、……あー…もう、ふ、ぶはっ、ははっ!全く、あんたもあたしもほんと…っははは」 なにもかもズレまくりもいいところだしバカみたいに初心だし呆れて頭を抱えたいが、可笑しくて仕方なくて吹き出してしまう。一緒に涙まで出てきて、へにゃへにゃと力が抜けて、しぬほど恥ずかしいけど叫びたいくらい嬉しいくてそれこそ天に昇れそうなくらい熱い。 「…リリィ?」 「DIO大好き、よかった、DIO……ほんとうに大好き」 でもこれはさっきのような激情の熱ではなく、優しい熱だ。笑いながら泣いてるなんてわけのわからない事態になって頭を抱えるどころの話じゃない。地面にすっかり腰を下ろして、DIOの胸に持たれながら笑い泣く。視界は滲んでいて、今までで一番世界が綺麗に見えた。───ああ、嫌われたりなんかしなかった。あたしはこの吸血鬼だけのもので、この吸血鬼はあたしだけのものなんだ。 何もかもから解放されて火照った体はとても軽く、自分で言った通りとびきりの嬉しさに包まれていた。DIOの手が、あたしの顔を起こして頬を拭う。 「…何故笑いながら泣く、リリィ、悲しいのか」 「それ、そっくりそのままあんたに返すわよ。あんたは悲しくて泣いてるの?」 対峙する穏やかな赤い目からは、透明な滴が溢れている。それらは幾重にも軌跡を残し下へと落ちていった。 「吸血鬼は、」 「泣く。吸血鬼だって泣くの」 「…」 「鬼の目にも涙ってあるでしょ」 「笑えんな」 笑ってるくせに。彼が薄ら笑いながら流した両頬の水滴の軌跡を、二つの手で包み込むようにして拭い取る。 悲しさではなく嬉しすぎて笑いが止まらなくて、涙腺がちょっとおかしくなっているだけだと言ったら、突然ひんやりとした両手で頬を挟まれた。「どうしたの」と問う前に涙が流れた所と目尻を拭うように口づけを落とされ、そのまま唇を食まれた。柔らかく冷たい皮膚が触れるだけ触れ合って暫くして名残惜しそうに皮膚同士が離れる。今にも爆発するくらい顔に熱が集まる。処女ぶってんじゃないわよ、集合の号令なんてかけてないわよ散りなさい熱。息が詰まりそうな中目線を上げたら、同じくいっぱいいっぱいになりながらも満足そうに、じっと此方を見詰める形無しの化け物だったひとがいた。 にやりと、口角が上がり真っ白で鋭利な犬歯が見える。 「俺はつい先程、目的を達成したぞ」 「…笑えてた?」 「何よりも、どんな宝石より美しかった」 「……ほめても血しかでないっていってんのに」 「褒め言葉は素直に受け取るべきだぞリリィ」 「やだ、そんなことしたらそれこそ死んじゃいそう」 「そうか、それは困るな」 困る、だってさ。 三年前を思い返せばあり得ないような言葉だ。さっきから飛び交ってるのはそんな言葉ばっかりだ。…あんたの今の笑顔だって、どの宝物にも叶わないとあたしは思うけれどな。そう感じるくらい目の前の吸血鬼の顔は憑き物が取れたようだった。 膝の上に乗せられ、抱き締められるような形で優しく、けれど食らいつくようにもう一度唇を重ねられる。その拍子に止まっていたはずの涙がまたぼろぼろと溢れてきた。 「リリィ?」 「……あ」 優しい声が「リリィ、どうした」と泣くあたしをあやす。緊張の糸がぷっつりと切れて涙を拭ってなんでもないよと笑うには手も表情筋も言う事を聞いてくれなかった。 「……で、ぃお、あたしの独り言を、きいてくれる?」 「…ああ、なんだ」 「あたし、今ね、いま、すごくしあわせ」 いっそこのまましんでしまいたいくらいに。 嬉しさと耐え難い不安とで自然と涙が出てくれなくて、本当に嬉しいのか疑ってしまいそうなくらい顔の筋肉が勝手にぐちゃぐちゃになり酷い不細工になってしまう。そんなの見られたくなくて、しかもそのまましゃくり声まで抑えられなくなってしまい、顔をどうにかこうにか隠しながら続きが言えずにDIOの膝の上で子供のように泣きじゃくっていると、赤ん坊にするように肩へとブルネットを抱き寄せて背中をさすってくれた。幸せだからこそ燻っていた不安が肥大して飽和状態を起こす、信じられない、あたしはこんなに脆い生き物だっただろうか。 「でも、本当は夢、かも゛しれないって思っだら゛、も、めち゛ゃくちゃに怖くて゛、ど、うじようって…っごめ゛なさざい…っ」 「…良い、構わん」 「うそじゃない゛、よね、ほんとうよね、すきっていってくれたのは、本当の、ほんとうに、嘘なんかじゃ」 「もちろん」 「わかってる、の、あんたにとって、いんねんは、だいじなの゛…しってた、だからもういい、んだけど、でもッ…や、っばり゛っ、くやじがっだ……から…ッ」 「うん」 「どうじで、って、ずっと、なきそうで、なきた゛ぐで…ッでもでぃおにわるく、しちゃうから、ヒグっ、でも゛…っあたじは゛…っ」 「すまん…そうか、ごめんな、ほんとうに…すまなかった。……すまなかった、リリィ」 泣きじゃくるあたしの額にキスを落とし、涙を吸い、髪に鼻を埋めて、きゅうきゅうと抱き締められる。搾り出すように謝る声に更にぼろぼろと涙が出てきた。 これ以降はもう咽び泣きに近くて言葉にすらなってなかったから、割愛。 大粒の雫が目からボロボロと落ちる度に、DIOの鎖骨が水浸しになる。嗚咽しながらさっきと全然違うことを口にし始めた──客観的に見ればそれはもう何回こいつに同じ事言わせる気だよこのゴミ屑ッて苛立って蹴飛ばしたくなるであろうようなあたしを、目の前の巨体は全身を使ってあたしを包むようにして抱きすくめた。下手したら潰されちゃいそうな…そんなくらいじゃきっと死なないんだろうけど、いっそこのまま潰してくれれば嬉しいのにな、なんて思ったりしている。そんな事も露知らず彼自身はこの何倍も小さい身体を潰すまいと、それでも、しかし力の限りに抱き込んで、蚊の鳴くような声を出した。 「それがお前の本音なのだな」 「…、」 「リリィ、黙るな」 「あ、う、 ぐ」 「隠すなリリィ。……それくらいで俺がお前のことを嫌いになると思うか」 否、ならない。 何処かで聞いたことのあることを言いながら、切願するようにDIOは声を震わせた。 「…頼むから、俺にも、どうか」 お前の弱さの部分を共有させて欲しい。 そんな真剣な顔しないでよ、どうせならしつこいって突っぱねるくらいしてよ。こんな時に限ってこの邪悪な吸血鬼は優しすぎて、涙も止まらなければ心臓まで痛い。じくじくする。 嘘でも良いといったのは嘘ではない。けど口から出てきたのは確かに、この全てが虚像だったとするなら堪え難いほど辛くて苦しいなんていう弱音だ。…嗚呼、どうしたらいいんだ。あたしはどちらなんだ、本当のあたしは“どっちであるべき”なの。 「、ひぐ、でぃおの、いったこと……っ、う、っ、うそ…なら゛、ッ」 勝手に動き始めた口からは、ぶるぶるとわななく涙声で依然泣き続けているのも加え聴力テスト難易度10。最難関だ。本人の意思に反した口はまた勝手にぽろぽろと涙と一緒に能なし考えなしの言葉を吐き出しはじめた。 「う、そ゛、なら、ぐちゃぐちゃに轢かれてしんじゃいたいくらい、か゛なじい…っ」 …どっちにしろ、死ぬんじゃないの。 「どっちにしろ死ぬのではないか」 全く同じ事を突っ込まれる半吸血鬼。DIOの耳はよく利くようだ。嘘でも許すよなんて言ってたくせに、まるでそれについてが嘘みたいじゃない。やめてよ別ベクトルの話なのに。しかし吸血鬼はとても安心したように吐く息と一緒にそうかと呟き、腕に力を入れ直してぐずりと鼻を啜った。 「DIO、」 「それがお前の本心か、そうか、…そう、か」 何かを話す毎に段々小さくなっていく吸血鬼の声は、もうすぐ人魚みたいに出せなくなってしまうんじゃないか。本の読み過ぎみたいな馬鹿な空想が通り過ぎる。 ───あたしも、ただの疑心暗鬼拗らせた子供なのか。そりゃそうか、根っこが薄汚いもの。DIOは私のことを聖女なんて言ってたけどこれのどこが聖女なんだか。 「漸く、漸く…………お前から溢してくれた」 この男も泣いてるのか。耳朶に暖かい水が当たる感触がした。 悲しみで惨く轢死させるくらいなら俺は幸せで綺麗に殺してやる。よく考えたら恥ずかしいセリフをこんなに簡単に言ってくるんだから、それでまた泣いてしまうんだから人は感情に左右されやすい単純な生物だ。ぐすぐすと暫く泣いてから段々と呼吸も涙腺も落ち着いてきて、ぐずりと鼻を啜り深呼吸。はああと息を吐きながら脱力して、DIOの首筋に体重を預ける。 「…あたしの、本音っていうか、弱音とかあんたに対しての罵倒を聞きたかった…だけ、なんじゃないの」 「…そうかもな、もっと言ってくれ」 「嫌いっていったら、死にそうな顔してたくせに」 「それでいい」 「…だめに決まってるでしょ」 ドMなの?といったらさあどうだろうと笑われた。どうだろうもこうだろうも。寝ぼけながらしにたいって愚痴こぼしてただけはあるわね、生きたがりの自殺志願者め。 「DIO」 「なんだ」 「嘘でもDIOのこと嫌いにならないのは、本当だから」 「それならいっそ嫌いになってくれ」 「絶対ダメ」 真実を述べた狼少年は、どこかその答えに安心しているように黙って顔を擦り寄せた。 「もう、あんな怖い顔しない?」 「ああ」 「もう、どこにもいかないで。要らないとか、言わないでね」 「要らないなど言うものか」 髪や額に唇を寄せる愛しい顔は、濡れた目のまま嗤っていた。さて、秘密のはなしをひとつ、しよう。と、なんでもないような内緒話を囁く子供のように、無邪気に言った。 「実を言えば俺も、まだ不安で仕方がない。刃物を捨てたはずの手がいつの間にか切れ味の良すぎるナイフを一つだけ持っている。いつ手が勝手に動いてそれを血塗れにさせてしまうのか、それによってまたリリィを不幸にしてしまわないか、考えるのもいやになる」 喉笛を切り裂けばマシになるのか。身体を潰せば生まれ変われるか。言葉を縛ればその刃は折れるか。一層の事何も喋らなければお前は守られるんだろう、それだけはよく分かる。 俺を信じろと手を広げるべきなのに出来ない、そんなことなんて、どうせなら信じてほしくない。 「……我ながら女々しくて吐き気がする。こんなのは俺ではないはずなのにこれは確かに俺が昔から知っている自身だ。俺は昔から自分のことは愛していたが同時に嫌いで嫌いで仕方がなかった」 彼が嘘をついていないのは十分すぎるほど解る。きっとDIOもあたしが解っていることを既に“分かっている”。それでもお互いこんなに不安で、必死にそう思わずに、言わずにいられないのは、信じることと裏切りが同意義なそういう汚すぎて目も当てられない醜い人生だったからなのだろうか。お互い様だ。……では、それなら、ここいらで終止符を打ってしまうのも一つの手ではないだろうか。汚くて醜くて爛れていて歪みきった全部を受け入れあなたのなにもかもを信じてやる覚悟をしようじゃあないか。だからあなたもあたしの全てを受け止めて頂戴。 さあ決意の言霊を述べろ、それにより覚悟は完了する。 「───夢でないのなら、あたしはあんたの手で身を真っ二つに切り裂かれたってこの手を離してなんかやらないわ」 「? リリ、」 自分から顔を寄せて唇を重ねる。すぐに離してしまったけれど見開かれた目は嬉々に滲んで目を閉じた拍子に宝石を二粒落としていった。絶対に死んでも離してなどやらない。これはDIOへのもうひとつの因縁だ、彼に対してならそれぐらいが丁度いい。 「だから、DIOもあたしの手を離さないでね」 勿論。 返事と共に二粒の宝石は地面へと染み込んだ。 「愛している。ずっと、世界が百回巡ろうとリリィを愛そう」 「ありがとう…DIO大好き、あいしてる。大好きの十倍だいすきよ」 「甘い、俺はその百倍だ」 「なにそれ」 鼻頭を合わせどちらも濡れた目でけらけらと笑い抱きしめ合う。傷まみれの獣だったひとは、とても幸福そうなほほえみを浮かべてそこにいたのであった。 私はこの時に知った幸せの形を、決して忘れることはないだろう。例えそれが何年何十年となっても、誰になんと言われたって、捨てることなどなく大切に、それと共に生きていくのだ。 ハッピー・デイ はじめてこころから人を信じた日 ────── 次で終わりです。 あとすこしだけ、お付き合いください。 |