帝王観察日記 | ナノ





「ねえ、DIO」

 声を掛ける。けれど、彼だったものはぴくりとも動かなかった。あたしはそれをじっと見下げて、手に持った硝子の破片を握り締め手首にあてがった。

「…本当、馬鹿な人」

 調子に乗るからそうなるのよ。ぼやきながら、転がっていた硝子の破片を手首の血管に突き刺す。痛いけれど仕方ない。ぼたぼたと垂れ流れる血はDIOの顔だった部分へ落ち、ジュウと肉肉しい音と煙をあげる。そして三分もしない間にDIOは元通りの美しい顔を取り戻した。地面に膝をついて、DIOの手を首筋に当てる。吸血してもらおうとしたのだけれど、どうやら本人がまだお目覚めではないようなのでこの吸血方法は失敗に終わった。それならばとリボンを解く。前ボタンを二、三個開けてDIOの顔近くへと屈み、後頭部に手を添えて持ち上げ、丁度頸動脈の部分を口許へ持って行った。

「ほら、非常食が来てやったわよ。あんたは生きるんでしょう」

 新鮮な血の匂いに釣られたのかあたしの言葉で意識が戻ったのか、ピクリと体が動いた直後に甘い痛みが首筋に走り熱を帯びた。噛まれているのだろう。ぬるりと舌が肌を這い、相手の喉が嚥下する音が聞こえる。血を吸われている。ああ漸く、やっとあたしの人生は終わる。これでいいのかな、うん、これでいい。これが一番いい終わり方なのよきっと。金色の頭をお気に入りの人形にそうするように優しく抱き締め頭を撫でる。この終わり方なら、DIOが死んでも、仮に承太郎達が死んでも、あたしが気にすることなんて無くなるのだ。ずるいと言われたって卑怯と罵られたって、とばっちりは御免なのはどこの誰だって一緒でしょう?他人のいざこざで関係のないこっちの気分が悪くなるのなんか嫌よ。
 だからあたしは絶対にDIOより先に死ななけれればいけないのだと、信じて疑いはしなかった。向こうの世界で逢えるのがどっちかってだけなんだから、それくらい逃げさせてくれたっていいじゃん。それのなにがいけないってのよ。DIOが死んだ世界で無駄に生き伸びるのも、DIOに承太郎達が殺された世界でぎこちなく生きるのも、ごめんだわ。

 それに今のあたしときたら、DIOに「生き延びてほしい」とさえ思ってるのだ。自分でも自分を嗤う。そんなの最も許されざるべき事だというのに。DIOは死ぬべきひとだなんて言っといて、それこそ典くんにどんな顔を向ければいいかわからない。だからこそ“審判”は公平に、“あたしのいない世界”に任せるのだ。もしDIOがこちらに来てくれたのならまたちょっかいを出しに行ってやってもいい。もし彼らなら…謝るしかないかなあ。許してもらえるわけないけど。
 ──その時、DIOの手があたしの肩を突っぱねた。

「ッ!?」

 ぷは、と声がして口許を紅色にしたDIOが信じられないものを見る目であたしを見上げていた。

「、DIO」
「………リリィ、何故」
「負けかけといてなにいってんのよまだ治ってないッ、ちょ、な」

 もう一度頭を抱えて首筋に持って行こうとすると、DIOの手があたしの肩を押し互いに押し問答のような状態になった。何を拒絶してるんだか、自分の状況がわかってないの?

「なにしてんのよ」
「いい、もう十分だ」
「嘘。まだ胸から下は割れたまんまじゃない」
「ものを見て口さえ動かせれば今は十分だといっている」

 ここまでになっといてなんであたしの血は吸ってくれないのか。なんだか無性に腹が立ってくる。ボロボロになったインナーの胸ぐらをつかんで、色んなところが血塗れのDIOに詰め寄る。

「不味いとかワガママ言ってられる状況じゃあないでしょうがッ!何土壇場でヘンな偏食発揮してんのよ馬鹿!あんたは生きるんでしょ!?ゼータク言いたいなら終わってからにしなさい非常食がせっかく近くに居るんだからつべこべ言わず食えッつってんの聞けこのスカタン帝王ッ!!!」
「スカタンだと…?!誰に向かってその口を」
「なにが違うのよ!?なんでそんなにあたしを食わないわけ!!なにがいけないの!!何がッなにがそんなに気に食わないのよ!?」
「ギャアギャアと喚くなッこの傷がお前には見えんのか!」
「嫌ってほど見えてるからあたしがッ」
「この傷を治す分を吸っちまうとリリィが死んでしまうかもしれんだろう!!」
「死ぬってンなの当たり前でしょ!!!頭壊されたせいでのッ、…うみ、そ、」

 脳みそおかしくなったんじゃないの。
 その脳みそが入っている頭が内容の意味を処理し終わった瞬間、喋りはじめてた言葉が急停止する。

「…」
「…あ… え……、?」

 今のやり取りなんかおかしくない? 死んでしまうもなにも、死ぬの前提で傍にいたんだし公認だったわよね。なのになんで死ぬのがだめなの。なんでって、今の言い方だと、色々おかしな方向に話が進展しかねないわよ。いいのそれで、いや良くない、待って違う良くないに決まってる。なのに心臓が嫌な動きをし始めるものだから、なんで嬉しくなんかないわよ、ちがう、だめ、やめてよやめてふざけんなそれ以上勝手な動きしたら心臓なんて抉り出してやるッ!!!
 息を噛み殺すほど必死に、自分の心臓を止める作業をする。…心臓が動くせいでどんどん顔に熱なんかが溜まる、それもこれも巡る血のせいのだから巡りを絶たなければいけないから息を止めるのだ。少女漫画かなんかでも似たような甘い表現があったかもしれないけど、こっちとしてはそれはそれはもう本気の作業だ。ファンタジーだのメルヘンだの甘っちょろい遊びじゃあないのだから、多分今の形相ときたら少女漫画どころか勇者にやられかけの魔王の形相に違いない。女のする顔じゃないのは確かだ。心臓を抉り出せばついでに死ねるのかしら。ふざけんじゃないわよ、さっきから原因の張本人が何も言わないけどなにしてるのよ。
 視線だけ地面からあげて見ると、拍子抜けた顔をしてるようなDIOの目元から下が伺えた。もう少しだけ上げる。間抜けな色をした赤い目が見えてしまった。

「……、」
「…」

 しんだふり。
 目があった途端、そんな感じで起き上げてた上半身を地面へと戻したかと思えば、顔だけを反対に向けてDIOが寝転がった。───何っっっだ今の。なんか言いなさいせめて否定しろよ。なんでしないの、まるであたしだけ置いてけぼりみたいじゃない目を背けるなもうマジで殴ってやろうか。そんなことを思っているとDIOが自分の額に手の甲を当ててフウと息を吐いた。……この、信じらんないこいつ、溜め息つきやがった。つきたいのはどっちだと思ってんのよこのタコ! はじめはそうギリギリ歯を食いしばっていたものの、段々、DIOも中々に動揺しているように見えてきてしまってもっとわけがわからなくなった。あたしの見間違いならいいのに。…どうしよう。そんなの、どうしたら。
 その真意を、考えたいのと、考えたくないのと。嫌な汗が出てきて、相反する二つの意見がぐるぐるして何も言い出せずぐっと喉に力が篭ってしまうばかりで、言わなきゃいけないこと、なんだろう、今は何を言うべきなの? ロリポップ・キャンディーみたいにあべこべな色の思考がぐるぐるととぐろを巻いている。何を言えばいいか、不覚にも人生において体の関係あれどそんな経験の一切ないあたしにはそれが全くわからない。すると、突然掠れた声が空気に反響して耳に届いた。

「……なんで、俺を館に戻そうと思った」
「…?」
「おい。質問している、なぜ」
「なんで」
「!」
「な、んでって」

 考えるよりも先に言葉が滑り落ちた。不覚。でも、もう遅いし、今はこうしたほうがいいのだと、本能は静かにあたしに告げていた。

「あんたと、日常を過ごしたかったからにきまって、」
「…」

 顔が此方に向いた。零れそうなくらい大きく見開かれた目は、吃驚、と一言だけを叫んでいる。しっかりとその目を見つめて、さっきの動揺が嘘のように冷静に、しかし本能的に言葉が紡がれる。

「あんな生活ならまだ生きててもいいかなって思えたから、戻したくて、」
「…」
「……うん、でも、もういいの。さっき喚き散らかしたあんなのは全部あたしの傲慢だった、こっちのほうが正解なんだわ」

 これでいい。これがいい。 自然と自分は笑っていた。悔いはない、限られた選択肢の中でこれが一番自分にとって都合がいいのだし、こうなってしまったんならこれこそが運命だ。何処かの誰かみたいな運命に抗うような、自分の首を真綿で絞めることなんてしない。ねえDIO、あんたこっち見ながらすっごく酷い顔をしてるけど、あたしはそんなに不細工な笑い方してるのかしら。

「…そもそもお前は、あちら側に、行ったのではなかったのか」
「本当に話を聞かないわね。あたしはどこにもいかないってあのとき言ったわよ!」
「嫌いと言ったくせに」
「…そ、れは、あんたが」

 言いかけて、やめた。それはただのあたしの我儘からの言葉だったから。

「なんだ」
「…もう、なんでもないわよ」
「言え。じゃなければ飲まない」
「………あんなの、子供がだだこねたのと一緒なんだってば…欲しかったものがうまいこと手に入らなくて、喚いてただけ。気にしなくていいわよ」
「…」
「ほら、わかったでしょ。いーから飲みなさいはやく」
「リリィ」

 腰を掛けれる場所はないか。
 畳み掛けるようにそんなことを聞かれた。今のままでは飲みづらいってことなんだろうか。後ろに丁度橋の柵があるといったらあるけれど。

「なんで?」
「話を、させろ」
「…」
「話がしたい」
「…話?って」
「リリィ、話を、はやくしろ」
「、あ、ああ……えっと、わかったわよ……手かして」

 血を飲むんじゃあないの? 必死な形相に見えたのでそれ以上は言及できず、とりあえず言われるまま腕を自分の肩に回してズルズルと引っ張る。痛いなどと言われたが他に移動手段がないんだから我慢しろと言って引き摺り続けた。あたしが吸血鬼じゃなかったらどうしてたんだか、立つことすらできなかったでしょうに。程なくして柵の前に着くと、並ではない巨体をした吸血鬼はまだ割れたままの腹から下を押さえながらがしゃんと勢い良くそこに腰を掛けた。

「…」
「なによこっちなんか見て」
「…いや」

 右隣から此方に首を向ける血や砂埃で汚れた顔は、凪いだ風のように穏やかだった。そんなDIOはあたしをじっと見たかとおもうと、「お前の気に入りの服が汚れてしまったな」なんてことをぽつりと言った。

「…なんで、んなこと知ってるのよ」
「お前は気分の良い時に限ってそれを着ているからな、いや、それを着てるから気分が良かったのか…なんでもいいが間抜けでもわかる」
「セクハラ」
「おい」
「いいわよそんなの、服なんて汚れるものでしょ」
「似合っていたのに」
「……褒めても血以外何も出ないから」

 気を抜くと心臓が跳ねて、息が詰まりそうになる。この男はなぜそういう時に限ってこんなことを言ってくるのか。意味わかない、理解できない、絶対にしたくない。そうしようものなら、何かに負けてリリィという存在が跡形もなく崩れてしまいそうだった。
 ふとその時DIOの手が、ずっとあたしがきつく握り締めたまんまでいた赤い天鵞絨を持つ手に触れ、握ったその手を優しく開かせた。そして手は、そこから天鵞絨を優しく絡め取り、それと同じ色の目で光沢を放つ布を見つめ嬉しげで、でも呆れたような笑みを浮かべて、乱れていたあたしの胸元を整え赤を結んだ。これではまた血を飲む時に解かなくてはいけなくなると言うと、手は癖っ毛のブルネットへと移動し額から髪を掻き上げるようにして撫でた。

「お前は本当に愚かだな」
「なに、が」

 こんな化け物の傍に未だ寄り続けるなんて。
 触ってほしくなかったのに、その手はいつも通り…いや、いつもよりも心地良く心臓は外に聞こえてしまいそうな音を立てた。それを悟られないように、なるべく冷静に、穏便に話を終わらせようとしたのに。

「なによ、今更」
「……降参だ」
「なにが」
「お前には負けたと言ってるんだ、しろねこ」
「は」
「白猫。おれの、白猫だ、お前という馬鹿者は…あの本の白い生意気な猫と本当によく似ている」

 何を言っているの。

「………俺が百万回生きた猫だとするならば、お前は、間違いな美しい白猫だ」

 カッと全身が熱くなる。怒りによく似た、でも決して“怒り”ではないなんなのか解らない、爆発物みたいな感情の塊が全身を支配しようとふつふつ蠢き出す。冷静に、冷静にいなくちゃいけないのに。だめだ、涙が出てきてしまう。わけがわからない。そんな言葉で湧き上がるものを理解したくない。その役はあたしではないのに、そうなはずなのに理解したらあたしはしんでしまう、ぜんぶが瓦礫のように崩れてしまう。こんなあたしはDIOに嫌われてしまう! でも、でも“それを理解すること”を促しているのは彼であって。なら、それなら。

「あの白猫は美しくたってあたしは、う、美しく、なんか ないでしょ」
「美しいとも」
「、」
「少なくとも汚いと思ったことは今までで一度もない」
「う、 っるさい!あたしは汚れてるわよどこまでも!!そんなこと言ったって、あ、あんたにあげれる純潔なんか一つもっ…わかってるくせにッ」
「リリィ?」
「いきなり、いまさら、なんでよ…なによそれ…っ」

 溶けてしまいそうなくらい目元が熱くて、手の甲でなんとか目玉が溶け出すのを抑える。
 血がぐつぐつに沸騰している。化け物の仲間入りを果たしてから動いていたかもわからない心臓が、折角さっきまで止めていたにも関わらずまた何年ぶりかの大仕事を再開しだす。当の自分はそんな心臓を止める事すら忘れて言われた言葉を脳内で反芻していた。白猫。しろねこ。あの本のということは、あの主人公の猫の、愛した猫。だって、それはつまり。───そんなの絶対に嘘だ。でも、浅ましくそれを信じたい自分が確かにいて、DIOに嫌われちゃうようなあたしがそこにいて、目前の赤い目は嘘を付いてるようには全然見えなくて、それが真実ならばあたしはどれだけ嬉しいか。

 ………ああ、そうか、嬉しいのか。
 あたしは、確かにDIOの言葉を“嬉しい”と思っているのだ。もう逃げ道は塞がれてしまった。
 ずっと見ない振りで散らかりっぱなしだった部屋が急速に整理整頓され、綺麗に片付く。ああ、ああくそ、なんてことだ、このまま知らないで通せればよかったのに。でも思えばそうでなければこんなにあたしが必死になって走り回る理由も見つからないのだ。日常を壊す魔の言葉を見ない振りして何百日経ったかわからない。「嫌われてしまうだろうから」と日常を天秤に掛けて、それ以上を欲さない事で今ある幸せにあり付いていた。しかし天秤にかけるものも無くなりその感情を促すような事を、それを嫌うはずの本人が言うのだ。そんなことなら。…もう、いいのだろうか、認めてしまっても。あたしが日常に拘るのも、DIOが死ぬのを見るのがいやなのも、何もかも、さっきまで動いていた全ての理由はとどのつまり。
 このどうしようもない哀れな化け物をあいしたいという、望んだ普遍を破壊する感情であるということ。

「なん、で、」

 だからこそ、DIOに掴みかかる。きっと酷い顔だ、みにくい涙声だ、目も耳も当てられない。
 認めてしまえば、嬉しいのなら、尚更。そんなことをすれば“これでいい”と思っていたものが全然良くなくなってしまうかもしれないのに。彼を置いて自分が死ぬことも、彼が死ぬことも、自分がいない世界で彼がまた一人ぼっちで生き続けることも、いいと思ってたものばかりが良くなくなってしまいそうで怖いのに。───どうして今更になって、どうしてそんなにも軽々しく。こっちがどんな気でいたか知らずに。内側にあったやるせなさや、今日急に降りかかってきた理不尽な事柄への不満が一気に膨れ上がりはじめる。此方を見る赤い目を見てしまうと、またぶわりと顔へ熱の塊が浸透し涙が溢れ出した。抑え込もうとした爆発が止まらなくて、ついには体内の感情全てを吐き散らかすように大声を張り上げた。

「なんでっ!“今”になって、そんなことを言うのよ!?!」

 丸くなった赤い目を涙が止まらない目でなんとか睨もうと力を込める。
 こんなにどうしようもなく求めていた言葉を言ってくれたのが、自分が無意識に抑え込んでいたものに気付いたのが、何故何もかも手遅れになった今なんだ。
 争いなしでは因縁を断ち切ることはできなかった。そうして手を取ってもらえなかったあたしは最後の彼の糧として死ぬ決意をした。あとはこの後の全てを若者二人の手に任せて全てはこれで完璧のはずだった。なのにどうして今この瞬間なんだ。そういってくれるのなら、どうしてもっと早くに、いってくれなかったのか。
 もっと、早ければ。あたしは、あたしは真っ先に誰よりもさみしがりなあなたを愛していたのに。誰よりも対等にあなたのそばにいて、あなたの渇ききった所にもう勘弁だっていうくらい水を押し込んでやったのに。こんなくだらない因縁からどこまでも手を引いて逃げてやるのに。どうしてあたしは保身に走ってしまったの、自分だけでも構わない覚悟でこの男を愛してやれなかったの。どうしてあたしは今気付いてしまったんだ。どうしようもない甘ったれだ。臆病で馬鹿な甘ったれめ、しんでしまえ。

「そのッ言葉の意味を分かっていってるの!?なんで今なのよ!よりに、よってッそれならどうして!!!!」
「……、」

 どうして、どうして、どうして

「そうおもってくれてたなら、どうして、あたしとの日常を真っ先に選んでくれなかったの…?」

 一番に選ぶほど大切じゃないのならそれは二の次なんだって、思うしかないじゃないか。
 DIOの見開いた目を見ないふりして胸倉を掴み、地面を見る。

「あんたなんか、あ、たしが、さっきどういう気持ちで…っそんなことなら、何で、あの時に…!」

 そんなことなら何故、あの時あたしの手を取ってくれなかったのか。
 あたしは何故あの手を無理やりにでも引っ張ってやれなかったのか。

 後から後から涙と一緒にぼろぼろと色んなものが出てくる、恥ずかしくてやりきれなくて醜い声で嗚咽しながら顔を隠した。自分の踏ん切りと往生際の悪さ含めて何もかもが嫌だ。嬉しいのに、嬉しいはずなのに、天邪鬼な考え方が後から後から出てきて涙は止まる気配がない。赤い目なんて見ていられなくて、終いには大泣きしながらDIOの胸板にしがみついて何度も拳で叩いた。自分のことは棚に上げておいて八つ当たりもいいところだ。

「馬鹿ッ馬鹿ッあんたなんか、っどうせ二番目だったくせになんで今…っずるいよ、あのときは、そんなこと微塵もいってなかったくせに!いらないって、いったくせに…!なん、でッ、な、で……っほんと、ほんとに、信じらんないっ、いちばんじゃなかったくせにっ!DIO、なんか…っDIOなんかッ」

 それでも嫌いだとは言えなかった。

「ッ、リリィ」

 痛い、そんな声が上から降ってきたので、ハッとして拳を止める。いくらか息を落ち着かせて、ああこんなみっともないところを遂に晒してしまったと後悔する。いっそ笑われるのを覚悟してぐちゃぐちゃの顔で彼を見上げてから、…思わず息を飲んだ。予想外というかなんというか、もっと動じてないふてぶてしいいつものような顔をしていると思っていたのに──DIOは、突然引っ叩かれたような、とても傷付いて沈んだ顔をしていて、あたしと目が合うと全く笑った顔でない笑みをなんとかやっとというようにその顔に浮かべた。数滴の雫が肌を滑って、涙がぴたりと止まる。同時に、自分を棚に上げたこの八つ当たりが本当にひどい言葉だらけだったように思えて血の気が引いた。

「…DIO、?」
「…」
「、DIO、ちが、ちがう、の、いまのは」

 違うわけないだろう。全部言う通りのことだ。と、DIOの手があたしを抱き寄せた。

「そうだな、おまえもやはり、そう思うか」
「……」
「自分の手で引き出せるお前の感情なんてこの程度でしかないということだ、なあ、そんなつもりでもなかったのにそんな時に限ってこんなに」

 酷いあり様だ。ベトベトに濡れた頬を拭う手は無骨な手つきでも、優しさがしっかり籠っているのがよく解る。これはじつに俺らしい、とからからに乾いた含み笑いが地に落ちた。なによそれ、どういう意味。

「時効であるのはわかってはいたのだ。わかっては…いた」
「、でぃ」
「あの時にお前の手を取らなかった時点で、いちばんはじめに選んでやれなかったところで既に、ゲームオーバーというやつだ。解答のし直しなど絶対にきかないことなど、わかっていた」

 ぎゅうぎゅうとあたしの身体を胸に押し込める腕が強くなる。

「だがそう知っていても、嫌悪の言葉を撤回されて少し調子に乗ってしまったか………なんにせよ馬鹿らしい、お前より、間違いなく傲慢は俺だ。やはり俺に壊すこと以外のことは出来んな、無理なことだった。わかっていたさ。選択肢を違えた俺にやり直しの資格はなかったのだ」

 ちゃんと考えてみれば普通の事、リリィの手を払った当の自分が今になってこんな事を言うのも遅すぎて、狡い話だ。口許だけはどうにか笑おうとする端正なその顔はしな垂れた前髪で目を見れなくて、隠していても泣きそうで、DIOの皮を被った他人なんじゃないか疑ってしまいそうだった。
 何か言いたくて、でも、なにも言えなかった。

「本当に嫌いになっただろう、俺など、お前を選んでやれなかったくせに今更こんな、馬鹿なことを言う至極最低な男を」

 何も言えず黙って彼を見ていると、身体を強く抱き留めていた腕を、籠から鳥を解放するように離された。

「早く、離れてしまえよ。お前の為だ」

 諦めたように疲れた笑いを浮かべて、悪の帝王さまらしくないことなんか言って。───皮を被った他人なんかではない。これはどうみても自分が一番よく知ってる獣の正体だ。あたしがあの時自分の感情に身を任せて手を離してしまったばかりに、こうなってしまったのだ。

 こんな顔をさせたかったわけじゃない。
 自分を棚に上げて彼を責めていた自分の存在が心に痛い。「違うの」と口はまた勝手に溢していた。

 離れられるわけないじゃない。
 今のDIOは今まで見てきたとおりのDIOそのものだ。百余年も前から仮面を被り続けたこの男は、変なところがとても不器用で繊細で、不安定だ。特に愛に関することは殊更にうまくやれない…人よりも人くさく、なんともしぬほど面倒臭い吸血鬼だ。正しい愛し方も分からなければちゃんとした愛の貰い方さえも実はよく分かっていない、愛を捨てた愛されたがりのかわいそうな子供だ。…まあ、こんな事を言ってあたしも正しい愛し方など解らないのだけれど。
 人の感情を読むのが得意なのだからもっと上手でもいいものを、否、形を知らなければ読めるものもよめないってことなんだろうか。煮えていた感情がいやでも落ち着いてしまう。こんなにも不器用な人だとあたしは彼のことを理解していたくせに、自分の都合で、数分前に言葉で散々殴り倒してしまったことが罪悪感でしかなかった。

 やめてよ、いつも死ぬほどポジティブな癖に変なところでネガティブな思考にシフトしてるんじゃあないわよ、調子狂うんだから。あんたは間違っている、あんたみたいなやつなんか嫌いになれたらとっくの昔に嫌っている。
 なるべく優しく、強く、首元に腕をかけて抱き着く。傷の消えかけている首に、鼻を啜りながら額をぐりぐりと押し付けた。

「…そんなこと言って、ほんとに嫌いって言ったらどうすんのよ」

 ビクリと体をひとつ跳ねさせてから反応がしないので顔を見上げると、微かにだが狼狽と諦めと落ち込みを混ぜ静かに耐え忍ぶ、険しい顔があった。そんな風に動揺するものだからこちらが焦ってしまう。…今そんな顔されたら、あたしが悪者みたいじゃない。 目を瞑って、首を引っ張り熱を測るみたいにコツンと額と額を合わせてやる。変なところが脆い帝王さま。こんな顔を見るのはいつ以来だっけか。あれかな、DIOが初めてあたしの前で『発作』した後日。取り乱された挙句抱き枕にされ落ち着き互いに寝落ちをして目覚めた後に、ベッドの上で半裸のまま顔を赤青とさせてた時。その反応に童貞じゃあるまいし、とか言ったらすっごいブチ切れられちゃったあの日の。
 だって散々人生の愚痴を聞かしてきて嫌ってくらい弱味を露呈してた癖にそんな顔をされたのよ?ある程度は心配しちゃうし悟られたくないから皮肉っちゃうでしょ。それらの記憶は鮮明で、よく考えればなんだか可笑しくて、つい昨日の事のようだ。
 あの日慰めてた時、なんて言ったんだっけ。
 『大丈夫』。多分、そうだ。初めてそう言った時の表情もこれまた傑作で。それからあたしは何度も何度もいろんな時に彼にそう言ってきた。…大丈夫だと心から彼に言ってくれる人は、彼の人生の中で一体何人いたのだろうか。そんな事を少しだけ考えながら。

「大丈夫よ」

 DIOの手がもうひとつピクリと動いた。

「本気で嫌いになんてなれないもん」
「…何故」
「DIO、ごめんなさい」
「…、!」
「ついさっきの、怒って怒鳴り散らしてたこと。…ただの八つ当たりなのよ。何回も八つ当たりしてるわね、ほんとに、ごめん、怒りっぽいのはあたしも一緒。タイミング良く自分の思ってた事を言えなかったのも一緒」
「なんで、お前が謝る」

 顔を上げて身体を動かす吸血鬼にしがみついて、懺悔を続ける。

「あたしが自分勝手にあんたの手を離しちゃったからに決まってるでしょ。ちがうの、怖かったのよ、さっきのあんたが。あんなのDIOじゃないって思っちゃった。知らない怖い顔をしてあたしの事を要らないって言った、それだけのことでDIOのことを突き放した。素直に、DIOともっといたいから戻りたいって言ってたらよかったのよ、こんなことなら。変な意地はらずに、さ」
「それは」
「あたしが思い上がってただけよ。外に遊びに出た日とおんなじように、もううちに戻ろうって言えばDIOはいつもみたいに、仕方ないなって言いながらこっちに戻って来てくれるって。……もー、馬鹿でしょ。そういうね、ただの妄想だけで動いてそれが現実にならなかったからきらいなんて駄々をこねたの」

 馬鹿馬鹿しくて涙が出る。だから、こんなに執着しているようなあたしがあんたをすぐに本気で嫌いになろうったってみすみす上手くいくものではないのだ。いちばんになれなかったのにはちゃんと理由がある、DIOの人生はそれほど過酷で長いものなのは知っている。ぱっと出の小娘が掻っ攫えるような軽いものではないのに馬鹿にもほどがある。

「DIOにとって星の因縁は、あたしなんかが簡単に代替えできるようなことじゃない、大事なことだったのに。私の気持ちを察しろなんて傲慢だった」
「…、」

 やめろ、と小さい声が聞こえた気がした。

「我儘な事をいってごめんなさい。…いちばんじゃなくたっていい、白猫って言ってくれたなら、もうそれで十分」

 彼の優先順位をあたしなんかで歪めてはいけない。

「素直に言えなくてごめんなさい、ひとりにさせてごめんなさい」

 あたしの居る意味はこれだったのに。彼を一人にさせないことが一番重要だったのに。あたしは我儘を言ってしまった。
 急に、DIOの手があたしの肩を掴んだ。

「…、何」
「そうやって、お前は」
「DIO」
「どうして、お前はッ そういうことばかり…!」

 DIOの目は──とてつもなく泣きそうで、怒っていた。

「解っていて血を見るであろう道を選んだのは俺だ。きっとお前が日常を俺と過ごしたいと言っても同じだ、俺はこちらの…救いようがない方へ進んでいただろうよ」

 戻ろうと差し出されたお前の手を先に払ったのも俺だ。拒絶したのは俺からだ。なのにお前はどうしてそう自分が全部悪いように解釈するんだ。
 DIOは怒っていた。

「そうやっていつも、妥協をして…!」
「…」
「お前はそれでいいのか、おい、なんで俺の顔を見て感情を押し込めた」
「…それは、だって」
「さっきみたいに言え、いえと言っている!!押し込めるな!!いつもいつもッそうやって…!」

 どうして隠す。どうして自分が全部悪いように考える。どうして気を使う。どうして、自分に何にもたよってくれないんだ。どうして俺の前では本当の感情を殺すんだ。鋭い赤目は見るからに哀しげで、あたしを咎めていた。

「…だ、って」
「なんだ」
「DIOが、泣きそうだったから」
「…」
「あたしの言葉で、DIOが、そんな顔するの、いやだから…」
「…お前の気持ちは、どうなるんだ」
「……」
「優先順位が違う。人に合わせても幸せにはなれん。……お前はお前の感情を、先に取るべきだ」
「でもそれで人を傷つけたら…意味ないじゃない」

 大事な人なら尚のこと。
 そう付け足すと、DIOは横に視線を逸らした。「こんなでも、大事か」と聞かれてこくりと頷くと、後ろからこちらの頭を引き寄せて額をくっつけてきた。
 お前は優しすぎる。
 吸血鬼は云った。

「怖かったか」
「…」
「俺は、怖かったのだな。リリィ」
「…うん」
「怖がらせてしまったか」
「DIOが、」
「ああ」
「遠く思えた」

 吸血鬼は悲しげに目を瞑った。

「俺も遠くに見えた、自分から出てくる言葉によって、お前の背がどんどん離れて行く。酷く恐ろしいと思った、笑うか」

 笑わないよと喉を震わせたら、声が少し掠れてしまった。DIOは目を閉じたままそうかと返事をして、くすくすと笑う。

「お前の存在が要らない訳がないのにな」
「…」
「要らないのは、必要がないのはあの戦いの中だけであって、……語弊だったところで傷が癒えるわけではないか」

 その時の俺は心底恐ろしい顔をリリィに向けていたんだろう。お前のこころは痛かったろうに、と吸血鬼は静かにそっと目を開けた。
 ややあって。

「寂しい思いをさせてしまった」

 すまなかった。
 と。乾いた血で汚れた造形美の塊のような唇は、彼にしては世にも珍しい単語を口走り、閉じられた。







さみしいとはどういうことか思い出した
(あたしはずっとさみしかったのだ)



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ご要望ありましたので、分割しました。

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