百万回生きた猫。 そういう絵本を、昔に読んだことを思い出した。幼い頃は誰かと遊ぶようなこともなかったので図書館にばかり篭っては、母に読み聞かせして貰ったり自分で読んだり。数えきれないほど本を読んできた。中には忘れてしまったものも多い。けれど、その絵本だけは今でも鮮明に鮮烈に、覚えている。 DIO…本当の名は、ディオ・ブランドーというらしい。 その彼の起源となる両親。酒飲みで、飲んでは暴れ、酒がきれては暴れ、醜くて、浅はかで、最低のクズの父親…ダリオ。それの犠牲になったも同然な美しい聖母で、聖母故に愚母でもあった母親。母の名前をあいつは言わなかった。 彼はそうは見せないようにしてはいるが、いつまでも二人の影を引きずっている。ずるずる、ずるずると、ずっと、彼が「ディオ」を持ち続けるかぎりはきっと抜け出すことは出来ないのだろう。 「父親は俺が殺した」 俺。 いつのまにかあたしの前では私、と言わなくなった。 彼はいつものように突飛に、昔話をはじめる。困惑する事なく「そうなの」とだけ返す。DIOは話を続けた。毒を飲ませてな、と。 「自分のせいで母が死んだくせに、それでもかわりもせずに酒浸りのあいつが疎ましかった。心底憎かった。俺の住んでいた貧民街の路地裏で中国人が色々な薬を売っていた。それを少しずつ、買って」 静かな声だ。ベッドに寝転がったままぼうっと何処かを見つめて。こういう時はいつもこんなふうに、夢うつつのような調子で語る。 スウ、と息を吸う音がした。 境界から戻ってきたのか。…また同じような話をしてるな。とぼやいて、金色の艶やかな前髪を白く大きな片手でぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。 「いいわよそれでも」 「…お前もそろそろ飽きるだろう。こんな愚痴は」 「そうね」 「…」 「でもあんた毎回主張するとこ変わるから面白いわよ。あー、そういえば殺し方って聞いてなかったわね」 一呼吸置いてから。 「風邪の時とかにゲロを我慢したときって、胃の中がぐるぐるしてかえって気持ち悪くなるだけだったのよね。出したい時に出すべきなんだわああいうのって」 そうやってお前は、 そこまで言ったところで彼は黙った。うつ伏せに体勢を変え唸る。ふと、あたしは見えたその右肩に浮かぶ綺麗な星の痣に、触れようとしてから、…やめた。 「………少しずつ、少しずつ、飲ませて、時間をかけて、苦しめて。殺したのだ」 「ハハッ、なにそれ?ざまあない死に方」 そうだろう。と乾いた笑い。その時の遺言もまたダリオ・ブランドーらしく、世界一の金持ちになれ。そう言ったそうだ。最期までろくでもない親だわこりゃあ。 後は聞いていたとおり、ジョースター卿を事故から助けた際の伝手で養子として、彼の一家に。DIOはうつ伏せのまま此方を向いて、みだれ髪の狭間からあたしを見詰めた。 「ジョースター卿にも同じように毒を盛り、殺そうとした」 「…」 「正式な養子になり、成年もした。もう庇護は必要ない、彼らは用済みだ…財産以外。そしてそのまま俺が全てを手にする筈だった」 でも、計画が狂ったのね。と言うと不満げに唸った。 「そう……筈、だったのだ。毒を飲ませるのはこれで最後というところでジョナサンが気付いた。何故か、な。窮地に立たされた際、あいつを殺すために用いようとした道具の『本当の力』を使った俺は吸血鬼になり──あいつと戦い、敗れた」 その後に、生首一つになってまでしぶとく生きようとして、生きるための首から下を…戦友と定めた彼に決めた。 「体を失い、あいつの、ジョナサンの、体を奪った」 こうして今がある、とDIOはくつくつと笑った。いつものように美しい顔を歪めるようにして。勝者の悪者の笑みをしてみせた。私を超えたあいつを更に超えてやったのだと。 ──なのに。 目がそう訴えている。満たされるはずなのに満たされていない矛盾に、苛立っている。 「…ねえDIO。ジョースター卿って、血の繋がらないあんたには冷たかったのかしら?」 「…いいや、馬鹿みたいに“優し”かったさ。騙されている事も知らずに」 優しかった、の言葉に毒と棘が入り混じる。…ジョナサンの父に限ってそんなはずないと思ったから、あえて言った。予想通りの返答だ。あたしが想像した通りの優しい紳士だったのだろう、これだけこいつが、嫌悪をありありと見せ付けているのだから。 本当の家族のようにDIO…ディオと接していたという。そこが愚かで間抜けでどうしようもなく吐き気がした。と。 「七年間?」 「そう、七年もだ」 七年も使ったのに、DIOに家族としての気持ちを持たせる事が叶わなかったのだ。やはり態度に何かしら距離感が出ていたのではないか、その時はまだ人間だったのだから、感情論的に、流石に毒を盛るではいかないだろうと言ってみたら。 「家族?ハッ、俺とあいつらがか? 笑わせるんじゃあない…どうしたリリィ、お前なら察せるはずだろう」 欲しかったのは家族の温もりなどなまっちょろいものではない。金だ。絶対的な金と地位だ。 バロック調の部屋に淡々と響き渡る、魅惑で蠱惑の甘いテノール。 囁かれれば途端に、好物の蜂蜜の壺の中で溺れる虫のような気分になるというそれ。あたしにはその気分はあまりわからないが。 「それは」 「、!」 「父親の遺言だから?」 「何を。馬鹿馬鹿しいッ 誰があんな屑の言った言葉など」 「でもそうでしょう、あんたはその通りに動いてた」 そこまでするかというほど、ゲロを吐きそうな顔をする。激しい拒否感、全否定の現れ。皮を取られた肉のように剥き出しのその感情に、ふと微笑みさえ出てくるあたしは、多分相当おかしく見えるのだろう。 「金が欲しかったのはそれが圧倒的な力を持っていたからだ。金もしくは、力。何ものにも負けない為に必要なことだ。金は無理だったが…私はじきにその力を間違いなく手に入る、だから金はもう要らん」 憎憎しげに。野獣のように。勝ち誇ったように。 なんにもわからずに。 DIOは暫くじっとしてから、シーツに体を沈めた。 「え…寝るの?」 「…少し感情的になりすぎた」 疲れた、昼寝をする。お前も少しは豊満に成長する願望があるなら早く寝ろよ、リリィ。 …最後のは余計なお世話なので、裸体の背中をぺちんと叩いておいた。蝋燭の赤々とした炎が揺れる。 やがて寝息が聞こえる。もう寝た?と言ったら返事がなかったので、寝たんだろう。 ふう、と息をついた。 「DIO。DIOの中には、小さかった頃のあんたが住んでいるのだわ」 静けさの中で、いつものようにDIOが寝るベッドの淵に座って。背中合わせ。 「気づいてる?小さいあんたは、泣いてるのよ。あたしと出会った時から…ずうっと」 聞こえなくてもいいような事だから、寝ている時に言う。どうせ起きてる時に言ってもイラつかせるだけだし。なによりこんな知ったかぶりみたいな言い方を記憶されるのはあたしとしてもいやだ。 なら何故言うのか。言わざるを得ないってやつだ。いままでのすべての昔話からようやく見えたDIOという男の正体。あたしの中だけで溜め込んでおくのは無理だろうから、本人が夢の中に旅立ってる隙に本人に言ってやる。 狡いだろうか?狡くていい、どうせあたしは死ぬのだから。死んで、こいつはまた何百年も生きて、そのうちにこいつの記憶の片隅からも零れ落ちる程度の存在だ。 「DIOがほんとうに欲しかったのって、本当に、お金や力なのかしら?」 それは違うのよ。と背後の獣に言う。 「そう、もちろん新しい家族じゃあない。欲しかったのは…“家族としての幸せ”。ジョースターじゃなくて、ブランドー家としての幸せ」 きっと起きてる時に言ったらふざけるなって怒鳴られるんだわ。そう呟いてひとりからから笑う。 「DIO、あなたがジョースター家で羨ましかったものは、有り余る財産じゃない、豪華な屋敷でもないし、煌びやかな服でも綺麗な宝石でもなかったのよ」 例えば、理不尽な暴力をふるわないとか。死ぬほど疲れてないとか。家に帰れば笑っておかえりと言ってくれるとか、風邪をひいた時に医者にみせて傍で心配してくれる、とか。学校のテストで満点をとった時に頭を撫でて褒めてくれるとか。記念日をケーキとご馳走でお祝いする、とか、ごくごく普通の家族らしいこと。 不幸せが当たり前だったDIOと違って、ジョナサンはそういう幸せが普通の事だった。ディオが養子として飛び込んだ世界ではそれが当たり前だった。──だから彼は否定せざるを得なかった、そのあまりのギャップに追いつけなかったから。どうして、そんなわけがない、それなら何故いままでの自分にはそれがなかったのか? その事実を認めるのが怖くて、惨めで、同情なんて嫌だから、自分は違うのだと拒否するしかなった。 長々と、話す。 「お金が欲しかったのは、お金があれば貧民街なんかにいないで、お母さんを死ぬまで働かせずにすんだから。強さが欲しかったのは、殴ってくる父親を殴り返して、ちゃんとした生活を送らせたかったから」 あんたが欲しがってるのは、小さいあんたが欲しがってたもの。それを与えてあげて小さなディオを泣き止ませようとしているけど、うまくいかなくて、全然うまくいかなくて、困っている。 「…こんなこと、起きてるあんたには死んでも言えないわね」 シニカルに笑ってみる。不快にさせるだけなんだとわかってるから、言わない。 けれどこれが、あたしから視たDIOという名のかなしい男だ。 「あんたにとっては、余計なお世話よね。ごめんなさい」 愛を、理解させてあげられれば良かったのだけれど。 如何せんこんなあたしには無理だ。所詮したいようにするだけ、文句はない。それに既に汚れるとこまで汚れているから、あたしの役目ではないんだろう。 「おやすみDIO」 午前4時。後ろを向いてすこし身を屈ませて、金色の後頭部にキスを落とし、立ち上がる。 「知らない間に酔狂な仕草もできるようになったのだな」 …。 時が止まる。心臓が静かに嫌な音を奏でた。うわあ、うっわあ…なにこれ、ええ、気まずい。 「…起きてたの」 「寝ていた」 「………あたしは、謝ったからね」 「なんのことだ?」 俺は今この瞬間に起きたんだぞと此方を向いて笑う。 「…」 「リリィ、後頭部だけでは奥手すぎるとは思わんか?」 「恋人みたいにチューしなさいって?ご冗談。」 「そこまでは言わん、親愛で十分だ」 とんとんと頬を指の腹で叩く。友人、ね。それなら悪くないわ。と出会い際や別れ際の外国人が良くするフレンチキスを頬に落とす。 「これで満足?」 気分屋が満足そうに微笑む。 それをみて、ふとつぶやく。 「百万回生きた猫」 「は?」 「あたしが小さい頃読んだ本に、あんたみたいな猫が主人公の絵本があったのよ」 「ほう、気になるな」 「でもお勧めしないわ。その猫は死んでしまうから」 あんたは生きるんでしょう? そんだけよ。おやすみ。 ひらひらと手を振って部屋を出る。 百万回生きた猫。 猫は白猫に出会ったことによって幸せを知り、安らかに死ぬべくして死ねた。白猫がいたからそうなれた。 あたしは白猫ではない。 あいつは美しく醜くこれからも生きる。 あたしは白猫にはなれない。 しろねこのゆううつ (それに愛するってよりは、女子会みたいなことしてるほうがしっくりくる) ────── あくまで恋してない。 百万回生きた猫の絵本が欲しい。 |