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そういう予感はなんとなくあった。勘、といっても恐らく無意識の統計に違いない。天気とか、気温とか、体調の周期的な疼きとか。それでもいつも通り洗い物を片付けて、お風呂に入って、テレビを流しながら雑誌のページをいくつかめくった。耳からは大人数アイドルのうちの一人、顔も知らない女の子が芸人から指導を受けていた。もっと面白い話をせんか、と。雑誌の中で一ヶ月を過ごした女性は、最後には憧れの先輩とサッカーを観に行くらしい。どれも虚構で、どれも現実には違いないのだ。この土地から離れられない私からすれば、たどり着くこともない幻想だった。

現実を現実のままにするために、いつもの時間にベッドに潜り込んだ。明日も明後日も、それからずーっと先まで、空白の未来しかなくても、続けなくてはいけないような気がしていた。





微睡みが返ってきた時、予感が当たったことを知った。軽くベッドマットが揺らぐ。香水らしい独特の空気と、潮風が混ざった不思議な香りが鼻孔をくすぐる。無骨な指が頬や唇を薄くなぞる感触。既に意識ははっきりとしているけれど、どこで目を覚ますかは難しい問題だった。

首筋を撫でられ鼻先同士が触れた時、つい、自分から奪いにいってしまった。唇に軽く触れて、吸っただけ。離れぎわに持ち上げた瞼の隙間から、驚いた顔が見えた。しかし一瞬のことで、「悪い女じゃ」と言うと凶悪な顔の上に一縷の微笑みが貼りついた。抑え込まれた体は密着して、苦しくはない程度の重さを感じる。鎖骨に、あの金のネックレスが掠った。もう一度かみ合った唇は深く、熱い。何度か喉の奥から声が漏れた。

「折角夜這いでもしちゃろか思たんに」
「もう、してるじゃないですか」
「ばかたれ、まだなんもしとらんじゃろ」

これからじゃ。そう言うと彼はワンピースの裾の境で太ももを撫ぜた。その姿は加湿器の青いランプで薄っすらと照らされている。すっと通った鼻筋が目立つ。初めて会った時は、社長や会長よりもずっと極道らしい顔立ちをしていると思った。話してみれば礼儀正しく、女性の扱いは誰よりも丁寧だった。初めてエスコートされた時を思い出しながら、艶のある黒いシャツから覗く胸元に、唾を飲む。

「なんをもう惚けた顔しとる」
「だって」
「だって?」
「小清水さん、いつも素敵」
「世辞の上手いガキじゃ」

上体を起こすと、重なった太もも同士が密着した。首筋に腕を絡めて、より近く、ぐっぐと体重を預けた。察しの悪い人ではない。そのまま抵抗もせず、重力が反転した。ベッドと背中の間で温めあった空気が一瞬で霧散して、ひやり。空気と体の隔たりが曖昧になるには、まだ時間がかかりそうだ。
彼の手が耳に触れる。無造作に散った髪の毛が掬われて、よく見えた。暖かい。

「今日は偉いご機嫌じゃのう」
「なんでもない日じゃ、なくなったんですよ」
「ふん メリーアンバースデーか」
「小洒落たこと言うんですね、っ、ん」

ぞわっと期待が高まったのは、裾が捲られて、下着とお尻の間に指が侵入してしまったから。少しも核心には届かないのに、触れられただけで腰が震えた。疼くたび押し付けられる雄の気配に、気持ちが高揚する。
私の膨大な日常は、この一夜のためだけに存在して、それをただ繰り返す。味気なさや不満が、いつか降りかかることだけが怖かった。なにもかも、今はこの人がいなければ生きてはいけないのに。

「小清水さん」
「なんじゃ」
「……焦らさないで」
「せやったら、早よ脱がせてみぃ」

余裕ぶったその顔が見えなくなる位置で張り付いて、躊躇いがちにボタンに触れた。不慣れなわけではない。ただ、それでおあいこになるような、子供じみた発想だった。一つ。二つ。三つ。はだけさせて、直に触れた。筋肉の凹凸が鮮明になる。
彼が、私が、どこまで誰のものかは分からない。それでもこの感触だけは頼り、本物だった。





「貴女を囲ってもいいという人に、心当たりがあります」

終には復職できなかった私にむかって、巌見社長が告げた言葉だった。電話越しで、一体どんな顔をしていたかは分からない。でも、あの時はどういう意味か尋ねる余裕すらなかった。どうすればいいのか、右も左も、前にも後ろにも行けなかった。きっとこのままヘドロになる。

白濁とした意識が治った頃には、一人の情婦になっていた。けれど、どこにも行けない状況は変わらない。売られたのか、それとも買われたのか。
日常はいつのまにか消費されて、一晩だけの非日常が訪れる。いつの間にか、幸せの定義を考えることもやめてしまった。




転落先は怠惰 170428