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足首丈の皮のブーツが無機質に地面を踏み続ける。既にどのようにして彷徨ってきたかも覚えていない。口元まで巻いたマフラーからはみ出した息は白く、視界が霞みがかっているのは全てこの呼気のせいではないのかと疑った。ここにあるのは冬の寂しさだ。

靄の中に二つの強烈な光が拡散するのを見つけて、脳は一瞬のうちにそれがヘッドライトだと結論付けた。光の後を追うようにエンジンの音がする。ぼんやりと、鉄の塊が浮かび上がった。流行りの角ばったシルエット。車高が高い。Gクラスのベンツだ。無意識で知覚しながら過ぎ去ろうとすると、後部座席のドアが開いた。それが意味することに気付いて立ち止まると、磨り減った右のかかとが軋んだ音を立てて滑った。一度浮いた右脚が、カンと音を立てて地面に刺さる。均衡が戻った。これは邂逅と呼べるほど、綺麗なものだろうか。

「渋澤さん」

自分の言葉が淡白なことに少なからず驚いた。顔を見る前にその名を呼んだことにも。確信だけがあるにも関わらず、億劫さを持って顔を上げた。二度三度瞬きを交わしても、どちらも何も言わない。それで、予定調和的に車に乗り込んだ。車高が高いので優雅にとはいかない。私の心持ちは少しの期待と、大きな騒めき感じていたけれど。ぽっかり空いた座席は素知らぬ顔で、しかし私を拒否はしなかった。肺に残る冷たい空気を吐くと、渋澤が何か言った。視界の端、口元の動きは見えたけど、よく聞き取れなかった。噴き出すように炊かれたエンジンのせいだ。

それから、どれだけ時間が経ったかは分からない。誰も何も言わないので、一秒ですら一億光年になった。霧が全て包み隠しているせいでもあった。ここが樹海だと言われて、否応の断言はできるだろうか。フォグライトは空気を黄ばませるのに精一杯で、切り裂いて真実を見せてくれるような馬力は持ち合わせていない。手に触れた歪な感触が、突然に時間を収束させた。シートに投げ出した掌に渋澤が触れた。それだけのことだった。

乾いた指先。皮膚と皮膚が擦れた。泡沫と同じくらいに儚い心地がして、気付いた。これは、実際に幻なのだ。せめて、と、握り返そうとした。





徐々にあったフォーカスが見せたのは、無機質なタイル様の天井だった。白い。部屋も、シーツも、私の体も。こちら側を見せつけられて、ようやく現実でなかったことに気がついた。最中にいる間は、あれほど漠然としていた子細の全てに納得していた。不思議な心地がする。整合性のないものを世界と信じていたことに。夢の中と同じように瞬きをすれば、美しい相貌が微笑んだ。これが生きた人間の反応なのだ。

「おはよう、女医さん」
「おはよう」
「その花は?」
「世良さんよ。さっきまでは、いたんだけれど」
「そう」
「また来るわよ、近いうちに」
「そうね、世良さんは。そうね」

窓から差し込んだ光が、花弁を透かしている。桃色や黄色が滲んで、それなのにおいそれとは消えてくれない溌剌さがある。一体なんのつもりだろう。世良という男が私に何を望んでいるのか分からない。この女医だって、そう。しかし彼女の揺らぎようもない美しさには救われていた。目から入る情報に惑わされない人間がいるなら、お目にかかりたい。ねえ、と呼びかけると彼女は傍に座った。右手の指先を何度か曲げると、ゆっくりと握ってくれた。

「貴女のそういうところ、好きだわ」
「急にどうしたのかしら」
「だって、夢を見たから」
「あら。どんな?」
「霧ばかりで、ほとんどよく分からなかったわ」

なんとなくだけれど、あの景色はオリバーで見たロンドンだったのかもしれない。学生の時、一度きりだけ見た映画。時代も国も超えた場所を、今になって思い出したことが不思議だった。そんなにも鮮烈な記憶ではなかったはずだ。隣で女医は、次の句を期待していた。私が僅かに「でも」と続けてしまったから。

「車に乗っていたの」
「……そう」
「誰かが手を握ってくれたのよ
 今の、女医さんみたいに」

女医の顔色が歪んだ。なにを嫌悪しているのだろう。手はしかと、さらに強く握ってくれたけれど。罰の悪そうな眉毛は質問を躊躇っている。思い出したの?と。ならば私だって訊きたい。知っているの?と。パズルのピースは大ぶりなくせに、嘘ばかりだ。あの車が神室町を離れて、どこに行こうとしたのかは知らない。意識を失う直前、光を多く見た気がするが、それも幻かもしれなかった。私にはなにも分からない。何もかもを、知らされない。ただ一つ分かるとすれば、あれが渋澤と会った最後の時間だった。夢か妄想かもわからない、たった一つ、彼方の淵の話だった。




現の死神 161127