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若い才能に打ち負かされて、渋澤は揺らぐ夜空を仰いだ。
実際には、起き上がる気力も体力も失った結果、そうするしかなかったともいう。開けた視界で星は野放図に広がっているが、残念なことに港の明かりは更に強い。そこにあって、渋澤は一人の女のことを思い出した。案じた、と言うには些かの付き合いしかない。しかし今日、自身がこうして倒れたことで、彼女の未来が書き換わったことだけは確かだった。






「ナマエさん、だったか」
「はい」
「手間かけさせたみたいで、悪かったな」
「こちらこそ、事前の連絡もなく申し訳ありません」

それは大阪から戻ってきた日の夕方だった。まず最初に、耳打ちをされて電話に出た。受話器の向こうからは、混乱して、しかし周りを気にするような小声で、一人の女をここ、堂島組の事務所までに案内するべきかどうかと相談された。女の名は、昨日殺した西谷の情婦の名と一致していた。こうして距離置いてみてもなるほど、確かに写真と同じ顔をしている。幸の薄そうな、死にたがりの顔に近い。

「しかし鬼仁会からの伝言くらい、電話で済む話だろう」
「私が電話してもお繋ぎいただけないかもしれないと思いまして」

それと、内容が内容ですので。
思案顔でテーブルに置かれたのは、小さな代紋だった。よく見なくてもわかる。鬼仁会のものだ。昨日の今日でこの女は。
セキュリティチェックで金属類の所持がないのは分かっている。しかし念のため女の背後に組員を二人、席の配置は端と端、対角として三メートルは距離を離している。どれほどまで知っていて、何をしに来たというのか。

「そいつは?」
「西谷のものです。昨日の昼時、殺害されました」
「そうか、初耳だ。それは気の毒だったな」
「ご存知の人の方が少ないと思います。本部への報告も、何故か少し遅らせると言っていました」

薄い唇から放たれる言葉は、取りこぼされることなく渋澤の脳髄に吸い取られた。言葉尻ですら、目の前の女の立ち位置や手札を判断する材料になった。しかしそもそも、西谷が死んだ理由を知っていなければ、どうしてこんなところまで来る必要があるというのだ。今ここにある結果から得られる仮定は、どれもナマエを復讐者だと評価した。そこに願望など、ある筈もない。だからこそ、いや、どうあれ西谷の死の理由など、渋澤が知っている筈もない話なのだ。

「それで? そんなことを平気で話すってことは、何か魂胆がおありのようだ」
「……西谷からの伝言は、彼が生きていれば必要のないものだったからです」
「どういうことだ」

声色は、部屋の空気を豹変させた。男三人は例外なく警戒した。一体この女は何を言い出すというのか。それに気付いたナマエは、どうにか堪えていた緊張を抑えきれなくなったようだった。敢えて渋澤が促さなければ、口を開く頃合いすら分からないようだった。

「お伝えします、今から。でも、あの……」

乾いた口が、饒舌な前置きを敷いた。いかに不躾なことか。しかし西谷はそう言っていた。自分には意味が理解できなかった。だから、わざわざ直接会いに来たのだ、と。そしてこれが本題だと言わんばかりに、一つ息を吸って咀嚼した。二つの瞳が、渋澤を捉えた。

「西谷から、もし自分が死んだ際には渋澤組の組長さんに世話になるようにと言われました
 きっと良くしてくださるから、と」

対となって立っていた男二人が、彫刻の佇まいを崩した。動揺したせいだ。渋澤は、言葉の意味を推し量った。上手い口説き文句。これが西谷の口から出たものであれば、ただの馬鹿ではなかったようだ。もし女が一人で考えたのであれば、見かけによらず狡猾で聡い。
期待とは、人間であれば何人も抗いがたい欲求に違いない。特に、古典的欲求の全てをいつだって満たすことのできる人種なら、尚のこと。

「ご存知だろうが鬼仁会とうちの組じゃ母体が全く違う
 他所と勘違いされてるんじゃないか」
「東城会の渋澤組、と聞いていました」
「成る程。それなら確かにうちのことだ
 だが西谷からアンタの話は聞かされたことはない」
「でも、組長さんは私のことをご存知でした」

いつの間にか泣きそうな声に変わっていた。不要な感情は何時も場を掻き乱す。不愉快だった。冷静に空気を手繰りよせようとしたところで、全てが無駄に思えた。

「仕事相手の身辺調べるくらい、当たり前のことだ
 いや、まどろっこしい話はもういい。ナマエさん、あんた一体何のつもりでここに来た。どこまで知ってる」
「つもりも何も……!
 分からないんです、西谷の言葉の意味も。何もかも。
 生きてた時だって……あの人は何も教えてくれなかったんです。何考えてたかなんて、私には……」

身を乗り出して訊ねたところで、ナマエは自己に引き籠もった。ついに涙を堪えることができなくなった。女は役者だというが、どうもヒステリックな声は演技のようには聞こえない。こんな状態で、今から駆け引きが始まるとは到底思えなかった。
仮定と結論は、もう一度組み立てられる必要があった。私怨による復讐の場合。鬼仁会が働きかけをした場合。近江連合からのスパイだった場合。
ナマエが、何も知らなかった場合。

急に視界が開けたようだった。
それが西谷の意図だとしたら。真に薄ら寒い心地がした。
囲えということか。守れということか。この女を憎しみから。
死んでなお残る怨念が、渋澤に対して償いを求めたらしい。目の前の女が恨み辛みを、抱かぬようにと。それができるのは確かに、殺した本人でなければ、一生抱えることなどできない秘密だった。風間新太郎が、桐生一馬にしたように。
一日経ってようやく、末恐ろしい男を殺したのだと理解した。

「分かった。身元はこちらで預かろう
 客人として扱うから安心していい」
「どうして……」
「俺だけがあんたを守ってやれる。西谷がそう思ったからだ」

嗚咽が耳に届いた。嘆く女は総じて醜い。
しかし、如何に自分が愛されていたのか、その理由を一生知り得ない点にだけは、同情した。




罪と罰 160711