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蒼天堀沿いの舗装されていない路地は、水面に反射する光のおかげで思いのほか視界が良い。人の多い通りは落ち着かないという佐川に同意してダラダラと付き従っていた。なまったるい風を浴びながら歩くのも悪い心地はしない。少し遠い対岸には、たむろする不良の姿が見えた。

「ねえ、どこ行くんです」
「ナマエちゃんが喜びそうなとこ」

当てもないナマエと違って、佐川ははっきりと目的があるようだった。いつも何も教えない。不満ではあったが、伝えたところでどうにもならないだろうという諦めの方が強かった。だからナマエはいつも下手くそな時間の貪り方しかできない。佐川といる時に限っては、生産的な余白は手放さざるを得なかった。

「ああ、いたいた」

膨らんだ路地で、佐川は目当てを見つけたようだった。視線の先を追うと、食い散らかした痕跡と、猫が数匹。身動ぎはしても警戒する様子はなかった。逃げ出す様子もない。よほど人慣れしてるらしい。「そこのビルの婆さんが餌やってんだよ」。平気で喋る佐川はどうして。どうしてナマエに戦慄が走っていることに気が付かないのだろう。しゃがみ込んで眺める様子があまりにも普通なのが、余計怖かった。
一向に棒立ちで動けないナマエを、ようやく不審がって訊いた。

「何びびってんだよ」
「佐川さん、猫、嫌いだと思ってたんです」
「ああ? なんでだよ」
「だって……昔の話」

滅多にしない昔話の中で、あれほど鮮烈なものがあるだろうか。隠し事をした少年が、制裁を受けて、代わりに裏でこっそりと粛清した話。しかし佐川は何のことか見当もつかない様子だ。差し出された手に近寄ろうとする茶トラの猫。その人、すごく怖い人なのよ。止した方がいい。言葉が通じればいいのに。
躊躇いもなく佐川が猫の頭を撫でた。あまりにも平凡な光景に、ナマエは自分だけ頭がおかしくなった気がした。

「ああ、あの話か」

顎と頭をくしゃくしゃと撫でてから、ようやく思い出したようだった。ナマエはその掌がいつか猫を砕くのではと気が気でない。絶対にそんなことが起こらない確信があっても、拭えない不安というのはある。それぐらい、あの話は。

「ナマエちゃん意外と鈍感だもんな」

懐に手を入れた佐川を見て、茶トラが姿勢を低くした。少し離れたところにいる他の猫も、気をこちらに向けたのが分かる。残念ながら、それは貴方達の餌ではない。取り出されたのは単なる娯楽薬物だ。猫はそれで、佐川に興味をなくしたように離れていった。何が起こるわけもなかったのだろうが、ナマエはそれでようやく人心地がついた。
立ち上がった佐川が、少しだけ寂しそうに火をつけた。煙草の先が赤く灯る。煙を細く吐き出しながら、佐川は考えているようだった。

「喩え話だよ。あんなのは」
「え?」
「豆太郎だって今も生きてる」
「なにそれ……人、ってこと?」

聞きたいのか。目で問われてナマエは返事ができなかった。気にはなる。しかし、知りたいかと言うと、知った先の後悔が怖い。二度三度吸われた煙草は、火のついたままドブ川に捨てられた。空になった手で、今度はナマエの手を掠め取った。指が絡み、逡巡するナマエを他所に、佐川は磊落に言い放った。

「親父と揉めてた女を匿ったんだよ」

それから、歩を進め、滔々と語り始めた。ナマエだけにしか聞こえないほどの声で。対岸や、他の誰かには決して届かないほどの声で。ずっと近くで聞こえる佐川の言葉は、ナマエにとって異世界の如く響き、それでいて妙な魔力があった。

滅多にいないような器量好しだったんだけど、別にそれは理由じゃなかった気がする。可能性、ってのがあったんだよ。それが何だったか、細かいことはもう覚えてねえ。上手く利用する方法考えて動き回ってたけど、結局は下手打ってバレちまった。

親父達は俺がその女に惚れたって思い込んだ。まあそうだよな。親父に歯向かってまで守ろうとした女だ。大事じゃないわけがない。笑えるだろ。俺にそんなつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。皆揃って馬鹿だったんだ。

そのおかげで、俺は何発か殴られただけで済んだ。代わりに眼の前で兄貴達に犯される女見せられたんだけどな。凄かったぜ、嫌だ嫌だっつってる口が段々だらしなく開いてってさ。最後はすげえ声で喘いでた。女ってのは本当怖いな。

その後、女は椿園に落とされて親父は毟り取れるだけ毟り取った。当時の額は知らねえけど、結構稼いでたって話は聞いたよ。その話する親父の顔が、まあ下品でな。忘れられねえ。回り回って今はその金、うちの組に落ちるようになった。金が入ってきてる以上は、死んでねえんだろうなって思ってる。

「そういう話なんだ」

互いの額が触れるか触れないか。ナマエを引き寄せた佐川からは、さっき吸った煙草の鮮明な匂いがした。その声は、豆太郎の話をした時とは比べ物のにならないくらい穏やかなものだったが、だからといって底なんて見える筈もない。信じるか信じないかは結局、ナマエが自分で決めるしかなかった。
それでもなにか、まだ喉にかかる骨のように、気にかかることがあった。川縁を目で追うと、小さくなった不良の影が遠くに見えた。薄暗い中で水面は、全てを反射する底なしにも見えた。先ほどの野良猫たちは物陰に隠れてしまったようで、ここからはもう見えない。ああ、そう。そうだ。

「猫って、どうなったんです」

そう、佐川は。
猫を殺したと言っていた。




深窓 160630