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売り言葉に買い言葉をした。
でなければ、こんなにも簡単に事態が転がるはずはなかった。
逆を言えば、事を動かすのにそう労力は必要でないということだった。

「大人気ない」
「ナマエが突っかかるからだろ」

あえて見せるように唇を舐めた渋澤とは対称に、ナマエはこれ見よがしに手の甲で口元を拭った。食事の後、紅を直さずにいて良かった。男の唇に色が乗るなんて、ぞっとする。中道通から逸れた裏路地は暗く、冷え切った空気は未だに早朝の匂いを残しているようだった。それが酔い覚ましには格好の具合で、ナマエは当てもなく彷徨い、渋澤は靴音を鳴らしながら後ろを付いて歩いていた。彼方で光る看板の反射を頼るほどには喧騒から離れており、明瞭に響く声は誰に届いてもおかしくない。そして何か、途方もなく些細なことでナマエが意地を張った。揶揄されて悔しかったとか、そういう、冗談みたいなきっかけだった。
ナマエは目を瞬かせ、頭の回路を繋ごうとした。

「全然酔っ払いじゃないですか」
「随分と下手な日本語だな」

混乱した理由の一つに、渋澤が与える距離があった。平静のナマエからすれば有り得ないほど近く、そして一向にどうとなる気配がなかった。腰から上を後ろに引き、左斜め下の空間を呆然と見つめたところで逃げ道はない。それよりも、渋澤の上半が思っていた以上に視界を遮っている。視線の置き場所を間違えればその瞬間、繰り返しが起こるのだと予想した。

「こういうことしない人だと思ったから仲良くしてたんですよ」
「そういうくだらねえ線引きばっかしてると碌なことにならねえぞ」
「今もう碌なことになってないです
 それに、あの、あー、私。怒ってますからね」

渋澤を見上げると、唇がもう一度触れた。我慢しろよ。空気読めよ。一回で、勘弁してよ。ナマエは目を固く閉じて無言の叱責をした。
下唇を噛んだ後、先と同じように舌が唇をなぞった。しかし今度は離れることなく、そのまま侵入した。暖かく湿った、どの食べ物とも類似しない感触にナマエは頭が沸騰しそうだった。閉じた瞼は、分かつまで恐ろしくて開けられない。どれだけ体が強張ったところで、渋澤には関係ないようだった。

「本当に慣れてないんだな」
「……言ったじゃないですか」

終われば呆気なく解放されて、どうということもなくナマエは背を向けた。思考が追いつかず、恨み言すら出てこない。過去のやり取りを一言一句違わず思い出したり、そういった積み重ねを遡りながら、今の結果と照らし合わせた。嫌だったのかと言えば、そうでもないから困っていた。そのせいで渋澤への顔向もできず、背を向けたまま歩きだした。歩くしかなかった。後ろを響かせる革靴の音は相も変わらないというのに、ナマエは自分が上手く歩けているような気がしなかった。

一度曲がれば、今度はT時路にぶち当たった。遠く光る明かりは、右に行けば中道通、左に行けばピンク通りだと示している。もう裏路地とは呼べないほど、空気も濁りはじめていた。壁と壁の隙間からのぞく健全な大通りには、相変わらずの往来が見える。ナマエは三歩進んで立ち止まるか悩み、五歩目で両足を揃えた。ぎこちなくではあったが、そこでようやく渋澤を振り返った。恨みがましいナマエの目を見て、渋澤も足を止めた。

「どうした」
「どうもしません」
「子供扱いは御免か」
「そうじゃ、ないです。多分」

だって、渋澤さんが大人だから素敵だと思う。
ナマエは目も合わせずに言い捨てると、今一度歩き始めた。靴音がごく近くなり、渋澤が肩を抱けば一瞬、ナマエは体を硬くした。表情の作りように困った末に顔を両手で覆った。見るものが見れば、泣いている女と慰める男に見えたかもしれない。しかしまともに手入れの入っていない地面で足取りは悪く、諦めて自分の体を抱いた。渋澤のことは決して見ないようにしながら。

通りに出れば、思っていた以上の喧騒が戻ってきた。眩しく、時折開くパチンコ店の音はけたたましい。すぐ斜め前方に、南を向いた黒塗りの車と、ガラの悪そうなスーツの男が目に付いた。その強面は、今まで吸ってたタバコを慌てて消すと、威勢のいい挨拶で頭を下げた。往来の何人かが振り返ったが、何人かは敢えて見ないようにしていた。ナマエは何か疑問を投げかけるよりも早く車に押し込まれた。後部座席の奥に追いやられて、続いて渋澤が乗った。車はすぐに発進した。

走る車の中、再び一人分の距離が開いたので、ナマエはほんの幾分かだけ冷静になった。いつも通りであれば、自分はタクシーに乗せられて、渋澤は夜の神室町に消えたはずだった。これは現実か、夢か。口元を押さえ、前かがみになり、目を瞬かせた。そういえば、席を立った渋澤が戻ってくるのに時間がかかったように思う。支払いをして、大将と簡単な世間話でもしていたのだと思った。それぐらい、今日の料理は美味しかった。今思えばあの時、電話を借りていたのか。

「一応聞きますけど、これどこに行くんですか」
「家に決まってんだろ」

どちらの、なんて決まっている。嫌かと言えば、そうでもないから困っていた。今更。腹を括るしかないとはいえ、子供じみた意地がナマエを妨げた。どうせなら優しくしてほしい、そう言って開き直ることまではできなかった。




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