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どこからが彼の掌だったのだろうかという疑問。
はじめから、か、いつの間にか、か。

「先生、朝早くすまねえ
 今からうちの若いのやるから、来て欲しいんだ」

受話器越しに聞く声はいつも落ち着いていた。律儀でマメな男だ。この電話だって、その若いのにかけさせてもいいのに。
窓の端から漏れる光が青いので、おそらく夜明け前だと推し量った。一体、渋澤はこんな時間に起きていたのだろうか。それとも、私のように起こされたのか。いつも思う。あの男はいつ寝ているというのか。生活というものを、しているのだろうか。一つずつ頭のスイッチを入れ始めた。

急いで顔を洗って服を着替えた。迎えが来るまでは決まって15分ほどしかない。どう足掻いても小綺麗を仕上げることはできないので、ベースメイクだけ整えた。後の化粧品を取りこぼしのないようポーチに押し込んで、カバンに放りこんだ。いつだって隙のない男を上司に持つ野郎共。そんな男達の前で無様を晒すのは癪に障るがしょうがない。毎度のことだ。移動する車内での化粧は神経を減らした。迎えの男は眠いというよりは疲れているようだった。

「悪いな。まだ寝てたんじゃないか」
「いいえ、丁度走ってたんですよ。公園」
「もっとマシな嘘はあるだろ」

迎え入れた渋澤は相変わらず平静の顔をしている。こんな朝から呼び出すくらいだから、きっと急ぎの仕事に違いないのに。表に出してないのか、そもそも感覚を失っているのかはわからない。ほんのたまに愛嬌を覗かせても、全部計算づくなんだろうかと疑うくらい私に可愛げがないので二重で不幸だ。
事務所に用意されていた朝食をとりながら、事の概要を聞いた。今となっては当たり前のように受け入れているが、始めのうちは感動すらした。本当に何から何までしてくれる。ずば抜けて気の利く男。それぐらいしてもまだ、東城会から見れば些細な枝葉でしかないなんて。







なんとか片がついた時には、太陽は真上を通り過ぎていた。ここに来ると平時の倍は集中が必要で、そろそろ意識が霞みそうだ。いつも通り送って行くと言われたが、冷静になれば渋澤の車に乗るのは初めてだった。自宅に戻って休む、そんな台詞を聞いたのも初めてだった。分かったのは、派手でなくとも随分と値が張る車だろうということ。磨かれた車体も、革張りのシートの座り心地も、使った形跡のない灰皿だって、全てが渋澤らしい。とりあえず最寄りの駅名を伝えた。緊張は、少ししている。

「いつも助かるよ。うちの面子じゃどうしても手が回らなくてな」
「組員の方に教えたっていいんですよ。お金とお時間はもらいますけど」
「気持ちは有難いが、今そこに回せる人間はいないんだ
 普通の企業みたいに募集かけるってわけにもいかねえしな」
「それもそうですね」

いつもの事務所の顔を思い出して、真にそれもそうだと納得した。期待の新星は、多分一人でも足りない。
トクトクと心音のような振動に、等間隔で走り抜ける街路樹。眠りが口を開けている。休んでもいいと言われたが、おいそれと寝られる状況ではない。分別だってある。それに、まだ抜けないカフェイン剤のせいで意識と身体のバランスが狂っていた。

「でも、珍しいですね」
「何がだ」
「ご自宅戻られるの、初めてですから」

休む時はいつも戻るようにしている。そう言ったが、『いつも』が毎日だとは思えなかった。いや、思い込んでいたいだけなのかもしれない。なんとなく、ホテル住まいでもおかしくないと考えたことだってある。務めるような言い方をしたのは、家が傷むからだろうか。それぐらい訊いてもよかったが、タイミングを損ねてしまった。その横顔を盗み見れば、場所も訊きそびれた。丁度、眼鏡のフレームが光をなぞった。

「あまり、休むのは好きじゃなくてな」
「殊勝ですね、組長さんは」
「その呼び方は止してくれ、ナマエさん」

名、で呼ばれるとは。その低音を初めて意識した。響きが心地いいことも。いつも「先生」としか呼ばないのは名前を覚えるのが面倒なのかと思っていた。呼び間違えという重大な事故を防ぐための方法論だと。これだけ計算高い男がそんな横着をするはずはないのに。
大通りの信号に引っかかると目があった。そういえば、渋澤の下の名前は。

「ひとつ頼みをしてもいいか」
「何です」
「今日一晩、一緒にいてもらいたいんだ」
「……渋澤さんも、そういう冗談を仰るんですね」
「冗談で女口説くような器じゃねえよ」

こんなにも晴れた空の下で、ネオン街の台詞。あまりにも不均衡なのが面白くて、心が揺さぶられる。吸い込まれるように目と目を離せない。早くそこの信号が変わって、例えばクラクションの音なんかで現実に引き戻してほしい。
私の思考が既に定まっていないことだって、全部見越したうえでの話なのか。今更。この道が本当に私の家に繋がっているのかも疑わしい。私がどんな返事をするかなんて、渋澤の中で答えが出ているに決まっている。でなければこんな交渉ごとは初めからなかったに違いない。少し悔しい。

「いいですよ」

始めから掌の上だった。何もかも。
でも多分、私が惚れるという可能性をこの男は考えていない。




思惑 160602