「女子供に手あげるようなやつはさ、クズだと思うんだよ」
咥えられたタバコに火がついた。馬乗りになった状態でそういうことをする神経。背中に当たるフローリングが痛い。踏まれた左肘は押さえどころがいいのか悪いのか力が入らなかった。全身がキリキリと緊張して息が荒くなるのは、片側の頸動脈を指の腹で押されているせいだ。決して暴行らしい暴力を受けている訳ではない。先にぶつけた背中以外に、痛みと呼べるようなものは見当たらなかった。しかし全身が、佐川の行為全てを拒絶している。いっそ荒々しく抱かれてしまう方が楽なのではないか。
「で、どこの誰がやったんだ」
「……し、らない」
「知らねえってなんだよ」
恐らく顔の傷のことを言っている。ただの事故なのに。吐き出された煙はゆらりと上に拡散するが、佐川の腕は、下に、下に。どれだけ胸を上下させても呼吸をしている気がしなかった。息を求める度に、その指の輪郭が鮮明になる。何かの弾みで灰が降り落ちることを想像した。その、焦点の合わない視線に殺されることを想像した。
「俺さ、心配してんだよ?
可愛い可愛いナマエちゃんになにかあったら気が違ってもおかしくねぇんだ」
平気な顔で戯言を吐く。私が傷ついたことなんて、気にもかけていないくせに。所有物を損なわれて不愉快なだけ。そんなことに気付けないほど、最早浅い付き合いではなくなっていた。
思い出したように灰皿を必要としたので、ついでのように呼吸が解放された。ゆっくりと吐いて、吸って。私も、佐川も。腰と肘にかかる圧力があるせいで、身動ぎ一つ取る気が起こらなかった。切り傷を撫でる指先は、先ほどまで私の血管を這っていたものと全くの同じだ。同居、というのは麻痺を起こす。
「なあ、何とか言えよ」
見つめる佐川の目から反らせなかった。偶にチラつく蛍光灯が眩しいとか、そういうことではなく。今必要とされている行動が、許されている行動が、ほんの僅かしかないだけの話だった。嘘や隠し事は佐川の満足のいく範囲でなら、いくらでも吐いてよかった。切れた境目がまた、こじ開けられるように刺激される。ようやく痛い、かもしれない。
「……高校生の女の子が酷い絡まれ方してたのよ。見てられなかったの」
「殴られたんじゃない。相手の手が当たって、多分これは、指輪のせい」
「騒ぎに気付いた近江の……どこの人かは分からないけど、割って入ってくれたのよ」
「それでお終い」
口を開くたび、どこまでが真実か自分でもわからなくなった。絡まれている女の子はたしかにどこかで見た。主観と客観は、違っていたかもしれない。殴られたわけではないのも事実。単に、私の間が悪かっただけ。近江の人というのは、誤魔化しようもないほどの嘘だった。きっと向こうは知りもしないが、私は彼を知っている。分かりやすい特徴。グランドの飼い犬。佐川が私と同じく”ちゃん”を付けて呼ぶ相手。そんな出来事は、誰も知らない方がいい。
「じゃあ人助けしたんだ。えらいじゃん」
雑に頭を撫でた掌は、先ほどまでの緻密さを完全に失っていた。こういうときに、さも元気であるように振る舞うのは気が引ける。笑ってやるなんて尚更、内にある傲慢さが許さなかった。佐川はもう全てすっかり元通りなのに。乗りかかっていた体重がなくなるだけで、なんでもできる気がした。本当は走ってそのドアを開けてしまうことだって。そんな幻を見ながら、立ち上がって服の皺を払う。目立った汚れはどこにもなかった。
「今日はさ、ナマエちゃんの好きなとこ行こうぜ
怖い目にあってよ、何もなしじゃ悲しいだろ」
その怖い目というのはどちらのことを言っているのか。そう考えること自体がジョークでしかない。佐川が自分の行為の持つ意味に気付くわけもなかった。だからその誘い文句だって、詫びのつもりなど一切ないに決まっている。利き手で佐川が触れたところを撫でる。首を、顔を。そうね、美味しい出汁が効いているといい。
「おでんがいい」
「なんだよ、そんなのでいいのか
旨いのは分かるけど、贅沢言ったっていいんだぞ」
贅沢。振り返った佐川の腕を、少しばかりの力で引く。思い切り背伸びをしても届かないので、顎にキスをした。細められた左目が何を意味するのかは経験がいくらでも教えてくれる。
佐川が強く引き寄せる。薄く口を開けた。瞼を伏せた。唇が触れる。朝に整えられたであろう髭も。つい先ほど消された煙草の味。侵入する舌の熱量はいつだって想像を超えた。仰いで呼吸をする。与えられる心地よさを味わう。勿体振るように離れるのはいつもの癖だった。
「そうやって、優しくしてくれればいいの」
いつ、どうやって逃げ出すとか。
既にそんな話ではなくなっている。
どちらも 160524