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手が進まない。文字が進まない。原稿が、進まない。頭が薄っすらと重いような気もした。いつもとは違う仕事をしているのだから、分からないでもないが。春日から貰った音声データは何回も繰り返してるせいで朦朧として聞こえる。報酬が出る以上はプロを名乗ってもいいのかもしれないが、本業にしている人間を心から尊敬した。

両手でこめかみをゆっくりと押して瞼を落とした。茫然と具合が停滞している。親指で眉頭の窪みをぐりぐりと刺激すると心地がよかった。それから瞬きを一つ、二つ。チェアの上で三角座りをして半回転、ソファにはいつの間にか真島さんが一人。くるーっと慣性のまま椅子は元の角度に。

「……いらしてたんですね」
「一時間はおったで」

気がつかなかった。気づけなかった。インタビューの音声には、当たり前のように物音が同居してるから。言ってくれたらよかったのに。なんのお構いもしないで。棚から引っ張り出されたマンガはご満足いただけましたでしょうか。この半刻の間に私はなにか、醜態を晒してはいなかったでしょうか。知らない。思い出せないのでもう知らない。

真島さんが立ち上がってデスクからペットボトルとコップを取り上げた。そうか、これが最後の一本だったから。新しい分は明日届く。それがなくなったらいい加減にウォーターサーバーにしよう。いつもグダグダと迷ってペットボトルだったけど。もう決めた。この人がガラにもない遠慮をしないでいられるようにしよう。

「えらい熱心して」
「……進んでないんですよう」

横着に椅子を転がして割れた腹筋に縋り付く。自分からしておいてなんだが、鍛えられた筋肉は抱き心地が悪い。頬をビタとくっつけてもなんだかな。うーん、違う。是も非もなく女の子の太ももがよかった。額から伝って髪をくしゃりとされたのは、それは求めていた行為。正解。どこの誰を殴ったかも分からない手袋は絶対に玄関で外して欲しいという、以前した約束も守られている。大正解。今日はバットは持ってきているんだろうか。

「飯食ったか?」
「食べてます」
「おしゃ、何食うたんや」
「フルーツグラノーラ 米 胡瓜 ササミ」

自信満々。しかし両手で両頬を軽く抓られた。痛いわけではない、戯れ。やっぱり足りてないんですかね。でも食事って本当に面倒くさいんだから、準備と後片付けが。食べずにいられる身体なら時間だっていっぱいあるし具合だって悪くならいんですかね。食べずにひたすらお仕事でもなんでもしたいんですよ、本当は。一人で家でモソモソ食べるご飯を充実!最高!とか感じながらネットで写真を世界中にバラまける人を尊敬する。ねえ真島さん、そろそろ痛いです。

「飯行くで」
「ふぁい」

お肉ですか。韓来ですか。あ、その前に着替えさせてください。さらにその前に、頬を押し潰すのをやめてください。不細工でしょう。キスがしたいなら、できればもっと優しく振舞って。そんなに悪童のような笑顔を見せないで。どうしていいか分からなくなるから。

「真島さんが未だに分かりません」
「俺が好きな子ほどそう言うわ」
「桐生さんも?」
「妬いたらええで」
「なんですか、それ」

どう考えても勝ち目ないですよね。
敗退、諦念、白旗。全て何もかもお見通しの真島さんは諦めはアカンなぁといつもの妙な発音で言った。非常に愉快げ。そうですね、私は桐生さんに対してだけは向上心無きただのブタですとも。罵りはいらないので餌と水をください。甘んじて鱈腹。だってバケモノの領分に入る気なんてない。でもたまに、正解の文字列が浮かんで見える時がある。職業病だと思う、ゲームのやりすぎなんかではない。だってゲームではいつも間違えるのに、今このタイミングで決して間違う筈はない。間違える筈がない。追いさえすればまたきっと笑う。

「真島さんが好きな私は桐生さんじゃないでしょう?」

ほら、その顔。
でもそれよりも、食事だ。着替えだ。私、ではない。




哲学者ひとり 160518