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普段は聞かないバラエティ番組の雑多な音。少しシャリシャリとした笑い声。それを意を介さないほどにハードで殺伐とした小説は会社の人が貸してくれた。ここから電車でいくつか行った街の話。23区、すぐそこの話。主人公が忌み嫌っていた祖母は実の母だった。
いつも通り部屋着で、ベッドの上で、乾ききらない髪の毛に気を削がれながらも、続きが気になってしょうがなかった。漠然とページをめくりながらお目当てを探す。栞はなかった。ソファに座る視線がそれを遮る。

「なんですか?」
「なんもないわ」
「じゃあ見ないでください」
「なんでや」

眼鏡だから、とか。眉毛が薄いでしょう?、とか。垢抜けないから恥ずかしい、とか。とか、とか、とか。口が裂けても言えないので答えないでおく。私はこれから読書をするし、貴方はテレビを見るんでしょう? お互いの干渉が必要な時ではないはずだ。そのにやけ顏も、今はいらない。

「コーコーセーの頃思い出してなぁ。ちいと興奮するわ」
「……変態」

余計なことを思い出さないでほしい。過去はどんどん剥離していき、常に今が輝かしい。ああでも確かに、私だって同じ幻を見たりもする。
不可思議だ。10年も挟んで、500kmも挟んで、近所に住んでた「郷田さんちのお兄さん」と同じワンルームに至っているのか。









その時期、仕事はほどほどに忙しく、確かいくらか残業が続いていた。嗜み程度の趣味しかなかったのでそれでもよかったが、少しずつ何かが剥がれているような心地はしていた。

その日、珍しく上司が会食に同行するように求めてきたので、接待をした。一軒目は新宿の東口を少し歩いた居酒屋で。二軒目は折角ですからと神室町に。人と話すのは嫌いではないが、オフィス街とは違った輝きに圧倒されて疲弊した。終電の時間は嘘をついた。きっと最後は男だけの方がいいだろう。


その時、胃袋は満たされていなかった。美酒と美食はどうあがいても合同ではない。要するに私は不満足だった。どこからか漂う美味しい匂いがそれを加速させてしまう。ホストクラブの客引きが声をかけてきたが、そんなことよりも、視界に入ったたこ焼きの屋台が私を呼んでいた。
そういえば、昔大阪にいた頃はおやつ代わりだったし、こんなものどこにでもあった。私だけの故郷がそこにはある。ほんの小さな鉄箱だけが、今の私を満たしてくれる筈。足早に駆けつけると鉄板の音がした。一番小さい8個入りを、口に出して頼んで、文字盤通りの金額を財布から探し出した。あとで振り返ればどうして気づかなかったのか。トレーに小銭を載せたところで店員の声が。

「なんや、こっち来てたんかい」









「老……けましたね」

というのが10年ぶりの第一声なのは些か失礼だったとは思う。気の利いたことが言えないほどに動転してたと思って欲しい。

「自分も結構なネーチャンになっとるやないか」
「そうですけど、……そうですね、すみません」

馴れた手つきで放り込まれるたこ焼きを眺めながら、漠然と幼少の頃を思い出す。何も知らない年頃の時は、制服を着た彼を龍ちゃんと呼んでいた筈だった。時折怪我をしていた意味を理解できないほど幼かった。私が制服を着る頃には、彼は屈強な体でたくさんの殿方を引き従えていた。その意味に気付けないほど馬鹿ではなかった。いつの間にか両親の会話に出る彼の名前は『郷田さんとこのボン』に変わっていた。距離の取り方は完全に見失われて、目が合っても話すことはなくなった。

「お家は継がなかったんですか」
「せやなあ、色々あったんや」
「まだヤクザなんですか?」
「今はカタギや」

青春を駆け抜けていたセーラー服は、現実の壁で擦り切れたスーツに変わっていたし、彼のファンタスティックな生い立ちは平凡な生活の一場面に埋まっている。10年でこんなにもひっくり返ってしまうのか。残酷な童話だろうか。救いのある寓話だろうか。渡された発泡スチロールの暖かさだけが懐かしい。彼はここで食べていくことを勧めた。再び交わることを許された気がした。









ほれ、と渡された小さい缶ビールはよく冷えていて、熱々のたこ焼きとの相性は最高だろう。小気味のいい音で開けて乾杯をした。それに口付ける様を盗み見ると、相変わらず格好がいい。きっと初恋だった。

「で、こんなとこで何しとったんや。ホスト狂いか?」
「違います、接待でたまたま。……神室町怖いから、普段はあんまり」
「そうか」

目尻のシワが少し深くなって、これが彼の今の笑顔か。やはり年の差は埋まるものではなかった。生涯のうちの割合が少なくなったからといって、私が追い抜いてしまうことは一生ない。胸が痛い。

「関西弁、久しぶりで安心します」
「実家は帰っとらんのか」
「帰りますけど、たまになんで。あ、たこ焼き、美味しいです」

たこやき美味しいです、の部分だけ関西の喋りになってしまった。少しわざとらしかったかもしれない。それでも美味しいには違いないのだけれど。少し、なんとも言えない苦い顔で笑いながら龍司さんは言った。

「大阪恋しなったら、いつでも来たらええ」

彼は昔のように頭を撫でたかったのだろう。









あれから、神室町にたまに足を運ぶようになった。3度目には当たり前のようにキスをした。6度目には彼の自宅に行った。私ね、龍ちゃんが初恋でしたよ。と告げたのは全てのコトが終わってからだった。ほんにマセたクソガキやで。その言葉には私の知らない昔の面影があったように思えた。

話は戻って、だからと言って、その、メガネで化粧っ気のない顔を見て昔のことを思い出されても困るのだ。

「……女子高生の方が良かったですか?」
「アホか。犯罪なるわ」
「元極道が何言ってるんです」

ところで、私が一向に文庫本のページを進めることができていないことには、とっくに気付いているんだろう。主人公は絶望したのか、憤怒したのか、それとも絶望したのか。どれだけ文字を追っても掴めなかった。テレビは真っ黒になって、それから彼がこちらへ。喧騒だと思っていた笑い声も、なくなれば少し寂しい。ほんの僅かに軋んだマットレスの音がなんの躊躇いもなく耳に届いた。

「せや、朝テレビでやっとった飯、明日作ったるわ」
「言ってることとやってることが一致してないですこわいです」
「なんでやねん」

当たり前の様に組み敷かれて、当たり前の様にメガネを取り上げられてしまった。ところで明日作ってくれるご飯はなんですか、と聞かないうちに服の下に大きな掌が潜りこんできてそれどころではない。昔、怪我をした龍ちゃんにハンカチを貸した。困りながらも頭を撫でてくれたあの掌よりもずっと大きい。一体いつの間に、私たちはこんなにも近いところにいるのだろう。あの遠い彼方、なかったことにした記憶の欠片は慈しみをもって帰ってきた。
蛍光灯ではぜる金糸が眩しい。願うようにそっと目を閉じた。




望郷 160511