見覚えのない借用書。連帯保証人には私の名前、住所、どこにでもありそうな印鑑。やはり男はろくなものではない。父親も、この目の前にいる社会的におかしな人たちも。どこにもいない例外を探すより、誰かと過ごす人生を放棄する方が遥かに楽なように思えた。
「それは、私の署名ではありません」
声が掠れた。事実を述べるのにどうしてこうも咎を負う言い方をせねばならないのか。私にはなにもなかったはず。何かを得ることもなかったが失うものもなかった。唯一汚点であるとすれば、あの男のせいで生まれ落ちたということだけだろうか。
「覚えないって言ってもあんたの親父だろ?
どこ行ったとかも知らないもんかね」
「知りません」
「あ、そう。じゃあ代わりに支払い頼むよ」
「だからそれは、私が書いたものじゃありません」
「だったらこの書類はどう説明すんだよ」
「でっち上げじゃないですか」
誰の?ヤクザの? いいえ、父と呼ぶのも汚らわしいあいつの。最後まで、本当に最後まで。どうして首につけた縄を放してくれないのか。吐き捨てるようにどうせあいつが、というと男は大層喜んだ。理解ができない。
「だよなぁ。あんたの親父、ほんと糞みたいだったもんな」
「なにがおかしいんですか」
「そう怒るなって。で、どうする?」
たしかに、少し足りないが貯金はある。しかし一向に私が支払いをするという道理が動かないのが気に食わなかった。なぜ身に覚えもないことで、そんな紙切れ一枚で、人生の安心という保証を軽くくれてやることができるだろう。父を恨む、男を恨む、目の前のこの、佐川とかいう男を恨む。
もうずっと会っていない従姉妹は、助けてくれるだろうか。いや、そうでなくては。最悪ヤクザに借りるよりはそちらから借りた方がいいに決まっている。その時、頭は地を這ったまま起こせなくなるだろう。私はなんのために生きているのか。とっくに涙すら枯れたことを改めて思いだした。
「身内に弁護士がいますから、一度相談させてください」
「あのなぁ、そんなことさせるわけないだろ
こっちは今すぐ返してもらわなきゃなんねえんだ」
「突然来たのは貴方の都合でしょう
用意のない耳は揃えられないと言ってるんです」
視界が一瞬眩んだ。何が起こったかわからなかったのは過去が戻ってきたように思えたからか。ああ、叩かれたのか。手の甲で、頬を。痛くはないがショックではあった。怖いかというと、未来が見えない恐怖だけがあった。
顎を乱雑に掴まれて息が上ずる。このまま力を込められたら下顎だけ粉砕されそうだ。見かけによらず怪力であればの話。
「俺らずっとこんな商売してっからよ、金がない奴から引っ張る方法も知ってんだよ」
それから男は少し饒舌になった。
女だから内臓は勘弁してやるよ、と。代わりに男の相手をするといい。乱暴な外人の金持ちがいいだろうか、店に落として小金を稼ぐのがいいだろうか。でも、いの一番は俺が相手でもしてやるよ、どうせ生娘なんだろう、と。何が琴線に触れたのだろう。ああ、生意気な口を聞いたからか。男というやつは、本当に。
「……今日はお帰りください」
「いい加減にしろよ
ヤクザに目つけられた時点で終わってんだ、てめぇは」
いっそ最初から、溶けて産まれなかったらと思った。
泥の底 160509