上手く呼吸が出来ない。呼吸とはこれ程難しい行為だっただろうか。空気を肺から気管へと押し出し吐き出す。ただそれだけの生理的な活動の筈だった。上手く呼吸が出来ない。肺が圧迫されているように感じる。気管が潰されたように狭く感じる。唇が震えているようだ。上手く呼吸が出来ない。かろうじて吐き出された細く長い息が、融けるように外の空気と混じり合っていった。弱々しいそれは、自分をとてつもなく不快にさせる。上手く呼吸が出来ない。何故だ、と静雄は考えた。今、実際に首を掴まれているのは、自分ではなく臨也の方だというのに。

静雄の片手は真っ直ぐに伸ばされ、臨也の首を掴んでいた。その力は、「絞める」と表現するには些か弱いものではあったが、十分に苦しさを感じる程度ではあった。臨也の首を掴み、奇妙な息苦しさを持て余しながら、静雄は、臨也の動脈が脈打つ様子を存分に感じ取っていた。そして、自分の爪が食い込んだ為に最期を迎えた、臨也の皮膚細胞の様子までも如実に感じ取っていた。
対する臨也は、そんな静雄に対してナイフを突き付けていた。銀色に鈍く光る細い刃が、静雄の喉に当てられ、薄く一直線に傷を付けている。赤い血液が少しずつ少しずつ流れて、相手の肌を伝っていく。その感触が気持ち悪いらしく、時折、歪んだ表情を更に歪める静雄を目にする度に、臨也はうっすらと笑みを浮かべた。しかし、あくまでより大きな痛手を負わされているのは彼の方だ。時折、短くひゅっと不穏な呼吸音を鳴らし、悪態も掠れた声でしかつくことができていない。それでも尚、彼の赤い目だけは、その心の内から浸み出すような余裕を隠さずにいた。

「ねぇ、シズちゃん。知ってた?」

掠れていて決して美しいとは言えない声になってしまっているものの、笑みと余裕の眼差しはそのままに、臨也が口を開く。

「俺は人間が好きなんだ。愛してる。のべつまくなしに全ての人間を惜しみ無く愛してるんだ。……でも、おかしいよねぇ、シズちゃんだけはどうしても好きになれないんだ。本当に、そう、今すぐ殺しちゃいたい位大嫌いなんだよ。」
「奇遇だな、俺もだ。だから今すぐ手前を消してやる。」

静雄は先程よりもほんの少し手に力を込め、そしてまた、先程よりもほんの少し強まった息苦しさに襲われる。何だこれは、と静雄が苛立つよりも早く、再び臨也が口を開く。

「ねぇ、シズちゃん。知ってた?俺がこんなにも愛している人間は、何を隠そうとても愚かだ。だから彼らはよく勘違いをする。『両思い』って言葉あるでしょ。人間は皆あの言葉を『お互いに好意を抱いていると認識した状態』だなんてお気楽な定義をした。でもそれって違うと思うんだよね。勘違いだ。『両思い』なんて、あくまで『お互いの思いが一致した状態』を指す造語に過ぎない。過度にお気楽な思考によって歪まされているけど、本当の定義はこれじゃないかと思うんだよね。」

気道を圧迫されている割には随分と流暢に喋る臨也を目に、静雄は黙って聞いていた。臨也の御託程聞いていて怒りが煽られるものは無い。しかしそれをあえて甘受しているのは、偏にこの息苦しさのせいだ――と静雄は自分に言い聞かせていた。
尚も、臨也は蔑むように笑い、そして演技じみた大仰さで話す。

「……あれ?じゃあ、俺が君を嫌いで君が俺を嫌いなら、これは正しく……ねぇ?」
「……臨也、」
「ねぇ、シズちゃん、知ってた?俺は君を今すぐ殺しちゃいたい位に大嫌いなんだよ。シズちゃんは、どうなの?」

伺うような、それでいて試すような影がふっと臨也の眼差しに過ぎり、一瞬の内に消えてまた小気味悪い眼差しへと戻る。
しかし一瞬の「影」を確実に捉えた静雄は――。それは突然の事だった。今まで自分を苛んでいた息苦しさが無くなり、静雄の気道は解放された。そしてそのまま、解放され楽になったままに、静雄は低く、そして不愉快そうにこう笑んで呟いた。

「奇遇だなァ、俺もだ。」
「……へぇ。」

解放されてしまえば、もうあの奇妙な息苦しさの事など考える気も失せた。
それよりも、臨也の首を掴むこの手を今から一体どうしようか、腹の底で黒く煮えたぎるこの感情をどうしようかと考える事の方が、静雄にとっては遥かに、そして何よりも重要だった。



召しませ、殺意



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