企画提出品(を一部改訂)。少し長めです。
臨也+波江(静臨要素は無し)




たった一冊だけ。

たった一冊だけ、本が無造作にテーブルの上に置かれていた。栞が外れている所を見るに、もう読み終えてしまったのだろう。波江はその本に見覚えがあった。古びた表紙を持つその本は、彼女の上司が何度か目を通していたものだ。上司の白く細い指先に収まっていた、その少し毛羽立った土色を思い出す。同時に、何とも知れぬその中身を見遣り、薄気味の悪い笑みを浮かべていた上司を思い出して、波江の柳眉は自然と寄った。忌々しいわ。思い出すのなら誠二の笑顔にして頂戴、私の脳。溜息を一つ。そして脳裏に浮かんだ狐面の様な笑顔を掻き消そうと瞼を下げ、上げた。
兎も角その本を片付けてしまおうと、手を伸ばしたその時、今まで熱心にPCの液晶を見つめていた彼女の上司が視線と言葉を寄越した。

「あれ、波江もそういうの読むんだ。」
「違うわ、片付けようとしただけよ。……もうどうせ読み終わっているんでしょう。」
「うん。……何だ、波江もニーチェに興味あるのかと思った。」

ニーチェ。聞き覚えのあるその単語を口の中で反芻する。今まで目もくれなかった表紙に対して目をくれてやると、確かに作者はその人物のようだ。作者はニーチェ。つまりこれは哲学書だったのか。つくづく趣味の掴めない男だと嘆息しながら、続いて題名に目を遣った。

「『人間的な、」
「あまりに人間的な』」

上司の声が、波江の呟きに被さる様に投げられた。読み上げてくれてどうもと殊更皮肉気な響きを以て言ってやれば、いやいやどういたしましてと愉悦混じりの台詞に食われた。全く忌々しい。本をかの無駄に整った顔面に投げ付けてやりたい気持ちに駆られながら、彼女はその少し長い爪を土色の表紙に食い込ませた。

「貴方、哲学書も読むのね。――それに、とても普通の人間とは思えない貴方が、『こんなタイトル』の本を読むなんて。」
「人間観察を趣味にする者としては、過去の人間が行った人間観察の成果に目を通しておくのは当然さ。先人は敬わないとね。」
「あら――貴方から『敬う』なんて、言葉だけでも出て来るなんて思いもしなかったわ。」
「そりゃどうも。」

男はとことん皮肉を受け流す術に長けている。食って下がるだけ、自分の醜態を晒す羽目になると思い直した波江は、彼から視線を外し、手の内の本を書架へと収めた。視界の端で、くるりくるりと彼の座るデスクチェアーが回り始める。あんなにも幼い行為をする癖に、その薄い口から出て来る言葉は、耳を疑いたくなる様な狂気染みたものなのだから嫌になってしまう。今日はこれからどんな妄言を聞かされるのかと思うと、米噛が痛む思いがした。それでも尚、取り澄ました表情を繕う彼女を知ってか知らずか、彼の言はまるで蛇の様にずるりと彼女の外耳から侵入していく。

「ニーチェはさあ、虚無主義者だとか言われているから、この世の何もかもを否定した奴だと思われているけれど、実は違う。この世の中は確かに仮象だらけだが、ならその仮象を皆で精一杯作り出していけば良いじゃないかっていう能動的な思想を打ち出したんだ。彼は何物も認めなかったわけじゃあない。事実、彼は愛を認めた。人間の愛をね。」
「……貴方が好きそうな話ね。」
「そう、大好きだねえ。――ニーチェは言った。人が愛を求めるのは何故か。愛は愚かだ。人の目を時として塞ぐ。けれども皆愛を賛美して止まないのは何故か。答えは、そのままさ。愛が愚かなものだからだよ。人間に対して愛は愚かな程に愛を捧げる。惜しみ無く、全ての人間に平等にね。愛するに値しないと誰もが認める者であっても、愛を与えられても決して感謝しない者であっても、全ては全てだ。愛は飽く事無く、尽きぬ愛を何時までも人に囁く。実に愚かだ。けれども人間はその愚かさに心地良さを感じてしまう。だから人間は愛を求める。」
「その考えだと……私には愛よりも人間の方が愚かに思えるけど。」
「まあね。まあ、人間が愚かなのは最早前提条件さ。何時の世も人は愚鈍だ。」

不意と、椅子の回転が止まった。波江がそちらに目を向けると、男は彼女に背を向けて立っていた。彼が面する巨大な窓硝子の向こうには、彼の愛して止まない人間達の社会がある。そして、その上空には今、鬱蒼とした暗雲が立ち込めている。ああ、もうすぐ雨が降るわね。しかしそれを思うが早いか、ばた、と強かな音が室内に響いた。ばたばた。ああ、もう降って来た。無表情のまま、波江は思う。思う間にも、窓硝子を割らんとするかの様に雨粒は衝突し、潰れ、視界を滲ませていく。そうして、雨粒が伝い行く様を、硝子越しに指先でなぞり始めた男の後ろ姿を眺めながら、彼に追われる雨粒は何て可哀想なのだろうかと、得体の知れぬ水を憐れんだ。

「ニーチェは、その愛の平等さからこうも言っている。『愛は雨だ』。――雨が人間の上に分け隔てなく降る様に、愛も相手を選ばずに注がれる。そして、相手をびしょびしょに濡らしてしまうんだってさ。良い話じゃあないか。」
「何処が。」
「ああ、俺もそんな愛になりたいなあ!俺も人間を愛そう!相手がどのような人間であっても!俺が愚かだと言われようとも!――雨の様に、無作為に、徹底的に人間を愛したいなあ。」
「貴方の話、聞いていると頭が痛くなりそう。狂気の沙汰よ。」
「愛は皆須く狂気染みているものさ。君なら分かるだろう。――うーん。人間も、無駄な抵抗なんかしないで、俺を受け入れれば良いのにねえ。」
「……貴方の雨は、人間にとって『恵みの雨』じゃなくて、『酸性雨』にしかならないから嫌がられるのよ。」

波江も窓の前に、男と距離を開けて立った。突然の雨に、上を見上げ慌てふためく人間達。逃げる様に走り去る者も居れば、傘を取り出し開く者もいる。天から地へと突き刺さる様に、酸混じりの水が降り注ぐ。その様を眼下に見つめながら吐息混じりに呟かれた男の言葉は、波江の琴線をじくじくと焦がした。

「後に何も残らなくなるまで、俺が愛して溶かし尽してあげる。」



愛の融解



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