※超軽度の暴力表現。少し長めです、すみません。




池袋は眠らない。下卑たネオンは白に赤に黄色に輝き、辺りを薄明かりの中に覆い込む。人々は家に帰り眠る事なく、徒党を組み、我が物顔で道を練り歩く。天に座す星月でさえ、そんな地上の醜態を前に、その輝きを失ってしまう。街は眠らない。寧ろ、喧騒と惰性に支配された吐息を吐き出して、殊更に人々を惑わし面白がっている様だった。
しかしそんな街の中にも、LEDの明滅や、人々の喧々囂々たる会話が届かない所は存在した。夜闇に相応しい黒々とした影を生み出す雑居ビルの合間、その、下世話な文句のグラフィティが施された壁に囲まれた、路地裏。じっとりと不愉快な湿気を孕んだ空気が、其処に存在する壁を、地面を、――そして人間の肌を、舐めた。
静雄は、その身に纏っているカッターシャツに覆われた背に、つっと汗が伝うのを感じて、深々と眉間に皺を刻んだ。しかしそれ以上の反応を見せる事は無く、そのままカツ、と靴底でアスファルトを鳴らし、歩みを一歩進めた。

「……ああ、痛い、痛い。」

それは静雄が発した言葉では無かった。静雄の靴の爪先の前で、薄汚れた壁に身をずるりと凭れている、黒々とした男が発した言葉だった。文字通り髪の毛の先から爪先まで黒をその身に纏った男は、夜の影に輪郭を溶かされてしまった様だと、静雄には薄気味悪く感じられた。しかしそれ以上に、静雄に嫌悪感を露わにさせたのは、その男の――臨也の白い肌と赤い目が、全く生き生きと闇の中で存在感を放っている事だった。
だが――その白い肌には、至る所に傷創が刻まれ、純然に白いとは言えない程度にまで成り下がってしまっていたのではあるが。殴打の跡の残る米噛みを晒しながら、肩を大きく上下させている臨也は、それでも尚、自らに此処までの痛手を負わせた静雄を、実に愉快そうに、そしてまた皮肉気に見上げていた。

「これ、骨折れてるんじゃないかなあ。治療費、請求して良い?」
「……それだけ軽口が叩けるようならまだまだ平気だろ。」
「シズちゃんの目って節穴な訳?この青紫色の痣とか血が出てる切り傷とか、腫れ上がった手とか足とか見えないの?」
「見える。」

短く吐き捨てる様に静雄は言うと、胸ポケットから煙草を取り出し、その先端に火を点けた。橙色の小さな灯りが、暗い裏通りに灯る。
今日も池袋で相対してしまった二人は、持つ力の儘に暴力の限りを尽くし合っていた。二人が対峙すればその都度、臨也が逃げ果せてしまう事もあり、静雄が一発喰らわせてやる事もありと、一応の決着の仕方は様々であったが、今回は後者であったらしい。臨也へと手を上げ足を出し――時によっては自販機や標識等も用いつつ、ここまで弱らせる事に静雄は成功した。だがしかし、その――一見すれば被害者である臨也は、相も変わらず常の、人を食った様な飄々とした笑みを保った儘である。えも言われぬ不快感を醸し出すその乾燥した笑顔を、どうにかして崩してやりたいと静雄は考えていたのだが、最早どうあっても瓦解しないそれに嫌気が差してきていた。――もういっそ沈めてしまえば表情も何も関係無いかと、煙草を吹かしながら足を振り下ろそうと地面から片足を上げかけた――その時だった。

「……可哀想だね。」

ふ、と。軽い、小さな吐息に混じらせて、臨也が小さく呟いた。ともすれば、静雄が踏みしめた軸足の靴底が、地面を擦る音に掻き消されてしまいそうな程の、か細いとも形容出来る声で。小首を傾げて、静雄を値踏みでもするかの様に見上げながら。そして、その双眸を曖昧に細めながら。
静雄が、上げた片足を元の位置に戻す。その様子を見て、くつりと臨也が喉の奥で笑った音が、辺りの壁に跳ね返され反響した。

「何が、可哀想なんだよ。臨也君よお。」
「ええ?勿論この俺に決まってるじゃない。こーんなにボロボロにされちゃってさあ、可哀想だろ?」
「……手前やっぱり死ねノミ蟲。」
「でも、まあ、俺も可哀想だけど……やっぱり一番可哀想なのは、シズちゃんかなあ。」

臨也の言葉が徐々に渦を巻き始める――静雄の燻らす煙草の煙の様に。

「ねえシズちゃん、君さあ、今日何回俺を傷付けた?俺を追う途中で、何人の人を君の力で恐怖させた?……ねえシズちゃん。俺が君を可哀想って言うのはさ、俺が知っているからだよ。君が、常に憎いと喚き立てる俺に対してすら、その力を行使して暴力を振う事に、罪悪感を覚えているってね。」
「んな訳ねえだろ。」
「無くは無いだろう。だってシズちゃんは優しくて、矮小で脆いからさ。人間を傷付ける事や、人間を恐怖させる事に過敏になっている、悔いている、恐れている。……俺は知っているよ。君は毎回、飽きもせずに絶望の中に身を浸しているんだって、ね。」
「……。」
「黙ってるって事は図星で良い?」

憐れむ様な、蔑む様な眼差しで、臨也が静雄を眺める。そこで漸く一息を置いた臨也は、静雄を見定める様にその表情を覗き込んだ。しかし其処は夜闇の中、更には青くくすんだサングラス越しに伺えるもの等、高が知れたものでしかなく、つまらなそうにはあと息を吐くだけに留まった。
静雄は尚も黙ったままで居る。煙を吐き出す際の僅かな息遣いのみが、静雄の口から発される全ての音だった。――臨也が目にする事は無かったが、今、青いレンズに隔てられた向こう側では、静雄の視線は横に逃がされる様にして、ぼんやりと宙を漂っている。現在この時、静雄が何を考え込んでいるのか、それとも考える事を放棄しているのか。臨也には判断が下し難く、兎に角再び、その舌を動かす事にした。

「で、俺も毎回こうして、身体の組織という組織が引き千切られて掻き回される様な苦痛を味わっている。君は精神的に、俺は身体的に苦しんでいるって訳。――差し詰め、これは地獄だね。君と俺にとっての。」
「地獄、ね……。」
「そうだろう?あらゆる屈辱も、憎悪も、負の要素を何もかもを内包した地獄が、君と俺の間にはある。正に『生き地獄』だ。……死んでしまいたくなる様な、絶望的な言葉だね。」
「……ごちゃごちゃ何言ってんのか分かんねえけどよ、とりあえず手前、そんなの許さねえよ。」
「……え……?」

自分の予想の範疇を超えた返事に、臨也は目を少しだけ見開く。珍しくも純然たる疑問の声が上げられると、それを狙ってかどうかはいざ知らず、静雄は、自分の吸っていた煙草の煙を臨也の顔に向かって吐き出した。
臨也の僅かに開いていた口から、二酸化炭素や有害物質を孕んで濁った気団が侵入する。元々上下させていた肩を更に上下させ、背を曲げながら噎せ返る臨也を見下ろしながら、静雄はサングラスを外した。そして臨也の胸倉を掴むとそのまま自らの方へと引き摺り上げるようにして、至近距離にまで顔を寄せた。一瞬笑みを消し怯んだ臨也を捕食せんとするかの様に、静雄の激しい眼差しが突き刺さる。そのまま片方の口角だけをギリと釣り上げ、歪な笑みを作った静雄は、殊更にゆったりとした口調で言う。

「手前一人で勝手に死んだらよお、俺はどうなる。散々べらべら御託並べて、俺をムカつかせておいて、勝手にはいさようならは無いだろう、なあ?臨也よお。……勝手に、楽に死なせてなんかやらねえ。手前は、俺に一生生かされて、最期に俺に殺されろ。」
「……何、それ。これぞ正に『殺し文句』って奴?」
「ああ?」
「いや、良いよ、うん。分からなくて良いよ。……うん、そうだねえ、分かった。分かったよ、シズちゃん。その台詞、そっくりそのまま君に返す。――俺の思う儘に生かされて、俺が飽きたら俺に殺されてくれ。」

再び笑みを戻す臨也ではあったが、それはもう先程迄の飄々としたものでは無かった。余裕の無さの伺える、しかしそれで居て楽しくて堪らない様な、どろりと濁った笑顔。臨也は、常に弄するナイフの刃先の様に、口角の角度を鋭利に作り上げると、目の前の男の下唇に思い切り噛み付いた。



生殺与奪



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