腹が減っては君を想えぬ





息が詰まるように暗い、月のない夜だった。遥か頭上を飛ぶ鎹鴉の導くまま、私は古い山寺の階段をとんぼりとんぼりと登っていた。
一段、また一段と脚を進める度に、苔蒸した石段がずりりと濡れた音を立てる。あと十段も登れば鬼が根城にしているという本堂が見えるだろう。ここから先はまさに生きるか死ぬかの瀬戸際となる。

しかし、どれだけ自身を奮い立たせようとしても、手足に力が戻ることは無かった。...−死に物狂いで最終選別を通過し、正式な鬼殺隊士となって任務に赴くこと二年。「またそのうちご飯でも行こうね」と笑い合った仲間に、何度泣きながら花を手向けたか知れない。特にこれと言った成果を上げている訳でも無いのに、階級と任務の難易度だけがどんどん上がっていく。そんな乾いた日々を過ごしていた。

最近は殆ど任務に出ずっぱりで、墓参りにも行けていない。本来なら少しでも仮眠を取るべき昼間にも、“自分はいつ死ねるのだろう”と、そんな事を考えるようになった。
もう怪我をするのも、仲間を見送るのも沢山だ。今度は自分が見送られる側になりたい。朝も昼も夜も、仲間と共に永遠の眠りにつくことが私のささやかな夢となった。
自分が鬼の頸を落とす前に、鬼の鋭い爪がこちらの心臓を貫く。眠れないまま閉じた目蓋の裏、それは抗い難いほど甘美な想像であり、願いだった。


最後の一段を登りきると、そこには既に身の丈一丈近い鬼が口端から涎を垂らして立っていた。腹を空かせた鬼はヒトの匂いに敏感だという。きっと私という獲物の到着を今か今かと待っていたのだろう。
月のないこんな夜でも、その鬼が鋭い爪を持っている事が空気の流れで分かる。自分が如何に強く恐ろしい存在であるか鬼は自慢げにのたまっていたが、私の耳にそれが届くことは無かった。

−あぁ、これか。

形だけ刀を抜きながら、私はうっとりと鬼の爪を見つめる。私の心臓を貫き、この乾いた日常から解き放ってくれる唯一の存在。感動で涙が出そうだった。
なんの反応も返さない私に焦れたのだろう。鬼は雄叫びを上げながらやっと私を殺そうと襲いかかってくる。

−あぁ、やっと。やっと楽になれる。

鬼の爪が私の心臓を貫こうとした、まさにその時だった。


ガシリ!腰に回された太い腕が、驚くべき速度と力で私の身体を引き寄せた。ギョッとしたのも束の間、ぐるりと視界が反転し、気付けば先程いた階段から反対側の本堂まで移動している。
この寺のご本尊なのだろう、燃え盛る炎を背負った不動明王と目が合い、私はゴクリと唾を飲み込んだ。この世の何もかもを見通すという天地眼に暗い胸の内を見透かされそうになる。

「危ない所だったな!」

頭上から降ってきた言葉に顔を上げれば、私はさらに驚く事となった。自分を抱き抱えていたのが、まさに目の前のお不動さんとそっくりな男だったからだ。
何もかもを見通す大きな瞳に太く凛々しい眉。毛先だけ朱く染まった金色の髪は暗い闇夜を照らす篝火のようだ。話こそした事は無いが、彼は鬼殺隊士なら知らぬ者は居ない豪傑。「−えんばしら、さま」思わず零れた言葉に、男はにっこりと微笑んだ。

「如何にも!俺が炎柱・煉獄杏寿郎だ!怪我はないか!?」
「はい、怪我は、無いです...」
「それは良かった!話したい事はごまんとあるが、まずはこの鬼の頸を落とすとしよう!もし動けるなら君は後方支援を頼む!」

そう言うが早いが、炎柱は私を床に下ろす。動揺する私をそのままに、あっという間に一人で鬼の頸を刎ねてしまった。





鬼を倒した事を鎹鴉に言付ける炎柱を、私は本堂の影になる所でぼんやりと見つめていた。咎めるような視線を送ってくるお不動さんにも、突如として現れ私の希望を断ち切った上官にも、合わせる顔が無かった。
炎柱は話があると言ったが、お説教を受けるなんて真っ平御免だ。このまま消えてしまおうとそっと背を向けると、陽だまりのようにあたたかな手に肩を叩かれた。

「こんな所にいたのか!」

報告を終えたのだろう。舌打ちを我慢した私に炎柱は朗らかな声で言う。

「もうすぐ夜が明ける。こんな暗い所にいては鬼と間違われてしまうぞ!座って少し話さないか」

そう言って正面の階段に腰を下ろすと、自身の隣をポンポンと叩いた。平隊士であるこちらに拒否権などあるはずもなく、私は渋々と上官の横に腰を下ろす。


東の空がじりじりと赤く染まっていく。この状況をどうしたものかと悩んでいると、隣からぐぅぅ、と腹の虫が鳴くのが聞こえた。
「腹が減ったな!」炎柱の言葉に私は「はぁ」と曖昧な返事をする。最近は死ぬことばかり考えていたので、空腹はもとより、食事という最低限の行為さえ煩わしく感じていた。

ガサゴソと紙が擦れる音を立てながら、炎柱は何か丸い包みを取り出す。外側の新聞紙を剥がすと、内側には薄茶色の油紙。さらにその油紙も剥がすと、なかから三角形の菓子が顔を出した。
しっとりとした羊羹の両側をふんわりとしたカステラで挟んだ菓子。...−シベリアだ。

「ここに来る前に街で買ってきたものだ!沢山あるから君も一つ取るといい!」
「...いえ、結構です。全て炎柱様が召し上がってください。お腹も空いていませんので」
「年長者の言う事は聞くものだ」

ぴり、と空気が張り詰め、私は思わず隣の男を見た。有無を言わせぬ低い声だったが、その口元はにっこりと笑みを浮かべたままだ。もしや空耳だったのだろうか。混乱しながらも私は菓子に手を伸ばす。
動揺しっぱなしのこちらを気にも止めず、炎柱は嬉々とした表情で「いただきます!」と胸の前で手を合わせる。むんずと手に取ったシベリアを、その大きな口であっという間に平らげてしまった。

「うむ!うまい!」

そう叫んで、また一つシベリアを掴む。
菓子にしてはそこそこ大きくお腹にも溜まるだろうに、目の前の男は「うまい!!」さらに一つ。「うまい!!!」さらにもう一つ。「うまい!!!!」と瞬く間にその全てを平らげてしまう。呆気に取られてい見ていると、炎柱の大きな瞳がぐりんとこちらを見据えた。

「食べないのか?」

上官の言葉に私は菓子を持ったままハッとする。唇を引き結んで手の中のシベリアを見つめた。

これを食べたらまた生き永らえてしまう。そんな気がしてなかなか口を開ける事が出来なかった。こんな物を食べている場合ではないのに。早く仲間のもとへ行きたいのに。やはり受け取るべきではなかったと、自分の意志の弱さを悔やむ。
黙ったままの私に何かを察したのだろう。包み紙を綺麗に折り畳みながら、炎柱が口を開く。

「...君はこの菓子が何故“シベリア”という名前なのか知っているか」
「え?」

突然の問いかけに、私は思わず眉を顰めた。一体なんの話をしようと言うのだろう。...しかし、この菓子の名前の由来なら、私は多分知っている。

「真ん中の羊羹部分がシベリア鉄道に似ているから...、ですか?」

それは遥か遠い大国、ロシアを横切る長い鉄道の名前だった。黒い羊羹を線路、両側のカステラを雪原に例えているのだと何処かで聞いた覚えがある。
私の言葉に、炎柱は深く頷いた。

「シベリアの名前の由来には諸説あってな。君の知るその話も由来の一つだ!他にも“永久凍土を表現した”だとか“日露戦争で従軍した菓子職人が作った”という説がある」
「はぁ...」

目の前の男が一体何を言いたいのか本格的に分からなくなってきた。もしやただ自分が知っている蘊蓄を披露したいだけなのだろうか。だとしたら凄く軽蔑する。

「それで、それが何か...?」
「シベリアの名の由来は他にもあってな」
「はぁ」
「“長引く戦いで大切な人を失った者が、冷たい土の下で眠る彼らを偲んで作った”という説だ」

冷たい土の下。
その言葉に、私の喉からひゅっと空気が漏れ出る。
まさかこの人は知っているのだろうか。冷たい土の下、永遠の眠りについた仲間たちの事を。そして、そうなりたいと願う私自身の事も。

カサカサと音を立てていた包み紙は、いつの間にか炎柱の手で折り鶴へと変わっていた。無骨な指でよくこんな繊細な物が作れるものだと感心したのも束の間、男は静かに口を開く。

「...人はいつか死ぬ。君も、俺も、いつか来る死から逃れることは出来ない。ただ、それが今この瞬間でないことは確かだ」
「......」
「食べることは生きること。そして、生きることは偲ぶことだ。君が生きることを諦めてしまったら、命を賭して戦った彼らが浮かばれないぞ」

大きな手がそっと石段の上に折り鶴をはなす。羽の先まできっちりと折り込まれたその鶴を、私は黙ったまま見つめた。
食べることは生きること。生きることは偲ぶこと。炎柱の言葉が、まるでまっさらな雪のように乾いた心に振り積もっていく。

もし私が昨夜あのまま死んでいたら、それも自ら命を投げ出すような死に方をしたら、誰が彼らの墓に花を供えるのだろう。せっかく黄泉の国で再会出来ても「なんて馬鹿な事をしたんだ」と怒られるかもしれない。「もっと生きられたのに、生きて幸せになれたかもしれないのに」と。
...そんなふうに怒られるのは、やっぱり嫌だ。

そしてふと思う。隣に座る男も同じなのではないかと。
先程の見事な食べっぷりを見れば、この上官が普段から大食漢であることは明らかである。柱という立場上、きっと私よりずっと多くの仲間を見送ってきたはずだ。
彼も偲んでいるのだろうか。沢山沢山、美味しいご飯をお腹いっぱい食べて。

「...まぁ、無理にとは言わない!鬼を倒してすぐは食欲が湧かないという者も多いからな!もしどうしても身体が受け付けないと言うなら、やはり俺が」
「...食べます」
「む!?」

上官の言葉を遮って、私はこれ以上開かないとばかりに口を大きく開く。ばくり!口いっぱいに頬張ると、入り切らなかったカステラの粒がポロポロと膝に降り積もった。
ふかふかと新雪のように柔らかなカステラも、舌の上で滑らかに溶ける羊羹も、何もかもが甘い。久しぶりの食事という食事に私の両目から熱い涙が溢れた。

「うっ...、おっ...、美味しいぃ〜...」
「そうか!それは良かった!」

泣きながらシベリアを齧る私に、炎柱はその日一番の笑顔を見せた。「ゆっくり食べるといい!君が食べ終わるまで俺も少し休むことにしよう!」そう言って腕組みし、東の空を見つめる。

山と山の間から顔を出した朝日は、まるで一本の線路のように煌々と私たちを照らす。折り鶴が今にも本物の鶴になって飛んでいくような気がした。

食べることは生きること。生きることは偲ぶこと。

シベリアの最後の一口を頬張りながら、私はその光景を目に焼き付けた。

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