soup





全ては今日の昼休み。あれが本当に良くなかったと思う。教師になってはや数年、体育館裏の秘密の告白というものを初めて見てしまったのだ。雰囲気から察するに女子生徒の方が呼び出したようだけど、その呼び出された人物が問題だった。くたびれた青いジャージに無造作に束ねられた黒い髪、どこからどう見ても冨岡先生なのだ。

「俺は生徒とは付き合わん」

その断り方、本当にどうかと思う。だってその理屈だと、生徒じゃなかったら付き合うということになってしまうじゃないか。結局女の子の方は簡単に引き下がったようだったけど、私の心の中にはモヤモヤとしたものが残ったままだった。

その一件以来ずっとイライラしている。カルシウムが足りていないのかと売店で牛乳を買って飲んだりして見たけれど、一向に改善されない。隣の席のカナエ先生に眉間の皺が怖いわと指摘される始末だ。本当はやらなくちゃいけない仕事は山積みなわけだけれど、今日はもう帰ろうとノートパソコンのシャットダウンのボタンにカーソルを合わせたときだった。

「そんなこと言わずにさ、ただの人数合わせだし頼む!」
「俺は行かない」

宇髄先生に執拗に絡まれる冨岡先生。会話の内容から、今夜行われる合コンに冨岡先生が誘われているのがわかった。それがまた私のイライラを増幅させていく。

「お前今彼女いないだろ?一次会まででいいからさ」
「だから俺は行かないと…」
「たまには可愛い女の子と飲むのも悪くないと思うぜ?なぁ、みょうじせんせ」

そんな私の眉間に深く刻まれた皺など知る由もない宇髄先生が、後ろの席に座る私に話しかけてきた。その何の悪気もない呑気な笑い声に舌打ちしそうになるのをなんとか堪え、暗転した画面をいつもより強く、叩きつけるようにキーボードに押し付けた。

「そうですね、たまにはいいんじゃないですか?冨岡先生」

平静を装ったつもりが、思った以上に冷たさが滲み出た声色だった。しまった、と思ったものの覆水盆に返らず。吐いた言葉を呑み込むわけにも行かず、2人の顔をまともに見ることもできないまま、足元のカバンを手に逃げるように職員室を後にした。



「あああ、やってしまったぁ…」

玄関の扉を開けると途端に体を支えられなくなり、ズルズルとその場に倒れ込む。真っ暗な部屋の中で、自己嫌悪がため息の塊になって部屋の空気を満たしていく。どうしてあんなこと言ってしまったんだろう。玄関先で倒れていたって誰かが助けてくれるわけでもなく、重たい体をどうにか起こして手探りで電気のスイッチを探した。

イライラしている理由は自分が一番よくわかっている。義勇さんは私の恋人なのだ。職場恋愛になるから周りには内緒にしようというのは2人で決めたこと。だから義勇さんは何も悪くないのだ。頓珍漢な告白の返事も、合コンへのお誘いも、彼女の存在を秘密にしなければならないことを考えればごく自然なこと。けれども時々声を大にして言いたくなる。義勇さんの恋人は私なんだって。

「はぁ、お腹空いた…」

こんな時ですら律儀に夕食の時間を告げてくるお腹の虫が恨めしい。本当だったら今日は義勇さんとうちで映画を観る予定だった。義勇さんがブルーレイをレンタルして、私が家でご飯を作る。家にはすぐに食べられるものがないこともわかっていたから、仕方なくエプロンをつけ、キッチンの収納棚からお鍋を取り出しコンロに置いた。

冷蔵庫を覗くと、義勇さんにのためにと思って買っておいた鮭の切り身。いいや、これ使っちゃおう。野菜室には半分使った大根の残り、しなびた白菜、まだ封を開けていないしめじのパック。その辺を適当に冷蔵庫から取り出してまな板の上に広げる。鮭は塩コショウして置いといて、野菜やら何やらは適当な大きさに切ってお鍋に放り込む。いつもならきちんとネットで検索してから味付けを決めるけど、今日はとてもそんな気分にはなれない。キッチンに並んだ調味料を適当に、目分量でドバドバ投入して、最後に鮭をそのまま放り込んで蓋をした。

誰か褒めてほしい。こんな精神状態でもちゃんと家にあるものでご飯を作った私を、誰か褒めて!リビングのソファにうつ伏せのまま倒れ込み、ポケットに入れておいたスマートフォンを手に取る。何の通知もない無機質な画面にまたため息をつく。今ごろ可愛い女の子と一緒にいるんだろうか。あんなでも結構モテる人なのだ。前のバレンタインデーでは抱えきれないほどのチョコレートを生徒たちからもらって、不本意ながら持ち帰り用の紙袋を渡してあげたのをよく覚えている。

そもそもの話だけれども、義勇さんは私のことをどう思っているのだろうか。口数が少なくていつも何考えているかいまいちよくわかってないけれど、本当はちょっとめんどくさいと思っていたりするんじゃないだろうか。そして私はそのたんびに、こうして1人落ち込んで、自己嫌悪と猜疑心に苛まれた自分の心を弄ぶ、そんな毎日を繰り返していくのだろうか。

いけない、こういうときはどんどんネガティブな方へ思考が傾いてしまう。ソファの縁にバタバタと打ち付けていた足を止め、お鍋の様子でも見に行こうと立ち上がる。その時、ガチャリと玄関の鍵が開く音がして、心臓が跳ねるほど驚いた。とはいえこの部屋の合鍵の持ち主は1人しかいない。お鍋はそっちのけで慌てて玄関に向かった。

「義勇さん」

ああ、と何食わぬ顔で履き潰したスニーカーを脱ぎ、当たり前のように自分のスリッパに履き替える。手には駅前のレンタルショップのロゴ入りの黒い袋。手渡されると、中には約束のブルーレイが1枚だけ入っていた。

「見たかったやつだろ、それ」

その映画は、公開したときに映画館に見に行こうと私が誘ったものだった。結局お互い忙しくて休みも合わず、その約束は叶わなかったのだけれど。そんな些細なやり取りを、義勇さんはちゃんと覚えていてくれたんだ。

「合コンは?」
「俺は行かないと言っただろう」
「そっか」

当たり前のようにそう言う義勇さんに心がじんとする。と同時に、嫌な汗が背中を伝った。きちんと約束を果たしてくれた義勇さんに感動する暇もなく、今私の頭の中はフル回転で言い訳を探している。あのお鍋の中に入った名前すらつけられない料理の理由を。

「ごめん義勇さん、いろいろごめん、先に謝っとくねほんとにごめん!」

さっとコンロを背に立ち、義勇さんがお鍋に手をかけないようにさりげなく間を阻む。料理は得意じゃないけれど、得意じゃないなりにいつもそれなりのものを提供してきたつもりだ。けれどもこれはよくない、仕事で疲れた恋人に振る舞う料理として全くもって相応しくないのだ。

「怒ってるのかと思った」

そんな私の心の焦りも知らぬまま、義勇さんがふっと笑った。学校ではいつも眉間に皺を寄せて不機嫌そうにしているけれど、こうして2人でいると義勇さんはそんな風に優しく笑ってくれる時がある。私はその笑った顔にことごとく弱いのだ。腰に回った義勇さんの右手が、背中のエプロンのリボンをするっと解く。左手が私の頬に触れ、それが合図のようにそっと目を閉じた。

と、それも束の間、唇が触れるか触れないかの距離に来たところで、背中からカタカタと音を立てるお鍋の蓋、そしてぷしゅーっと盛大に吹きこぼれるお鍋の中身。

「わっ、待ってごめん!」

慌てて振り返ってコンロの火を止める。そーっと蓋を開けて中身を見るけれど、くたびれた野菜たちに丸ごと入った鮭の切り身。出来上がりを見てみても、やっぱり名前のつけようもない。今どき居酒屋の賄いの方がもっといいもがの出てくる気がする。けれども意外なことに、私の肩越しにお鍋を覗き込んだ義勇さんが目をキラキラさせながらぽつりと呟いた。

「うまそうだ」

その言葉に驚いてよくよくお鍋を見てみると、確かに、湯気の向こうに見える鮭や大根や白菜は、義勇さんの好きなものばかりだ。

「何作ったんだ?」
「何だろう…スープ?かな…」

苦し紛れにそう名前をつけてやる。味見する?と聞くとこくりと頷いたので、小さな取り皿に少しだけお鍋の中身をよそってあげる。一口口にした義勇さんが、目を輝かせたままうまいと呟いた。義勇さんから手渡されて私も口にしてみると、義勇さん好みの優しい和風の味付けが口の中に広がった。

気がつけば、お鍋の中のもの全てが義勇さんの好きなもので溢れていて、なんだかおかしくなって笑ってしまった。さっきまでのモヤモヤもイライラも不安も、嫌なこと全部このスープの中に溶けてしまったよう。きっと私たちは、こうして毎日を繰り返していくんだろう。いいことも悪いことも、一つのお鍋に溶かしながら。きっとそれが、私たちの生活なのだ。

「それで、どうするの?」

迷子になったままのキスの行方を義勇さんに尋ねると、勝手知ったる人の家、戸棚から二人分のスープボールを取り出して、はいと手渡された。

「まずは腹ごしらえだ」

ふふんと不敵に笑う義勇さんに、受けて立つ!とお皿いっぱいに温かいスープを注ぎ込んだ。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -