愛惜





美しい場所だった。赤い彼岸花が咲き乱れ、赤い絨毯を敷いたような風景が見渡す限り続いていた。この世のものとは思えなかった。

上弦の壱である黒死牟は満月のこの夜に彼岸花が咲き乱れる里があるとの情報を得て、今、この場所に立っている。人里の為、むろん見た目の姿は人間に寄せている。無用な騒ぎを起こしてはならない。

これだけ彼岸花が咲いているのだから、あの方が探している"青いそれ"がもしかしてあるかもしれない。黒死牟はほんの少しの期待を抱きつつ歩いた。

野草をかき分け歩を進めると、ふいに帯刀している刀の鯉口に手を添えた。

「……お侍さん?」

暗闇の中から女の声が響き、草木を掻き分けて近付いて来た。こんな夜更けに女が一人で妙だと、黒死牟の手はまだ鯉口に添えられている。

「あぁ……良かった。人だった。もしかして幽霊かなと怖くって」

はぁとため息をついた女は驚くほどに普通の女であった。青色の着物を着て、自分の姿を見た途端に緊張がほぐれたのがわかった。武芸を少しでも学んだことのある者であれば、自分と対峙しただけで恐れを抱くというのに、この女は全く武芸を知らないらしい。どうにも調子が狂いそうだ。

女の年は二十歳過ぎ。出産の経験は無く、病気もしたことがないようだ。健康的な至って普通の人間。斬る価値も無し。

黒死牟は鯉口に添えられていた手を離した。

「女……こんな夜更けに……何を……している」
「え、お侍さん、知らなかったの?今夜"幻の花"が咲くかもしれないから夜通し見張ってようと思って」
「ほう……幻の……彼岸花か?」
「そうそう。何色が咲くのかなと思って。次に咲くのは三年後だから今日、見ておきたくって」

まさか何百年と探し求めている「青い彼岸花」やもしれぬ。黒死牟は期待をした。

「良かったら一緒にその場所まで行かない?その……夜の山は怖いし」
「……良いだろう」

広大な山の中を歩くのは骨が折れる。この女はどうもその彼岸花の咲く場所を知っているようだ。鬼と人間が共に歩くのは妙だが、この際どうでも良い。
黒死牟は女を先に行かせ、自分は数歩後ろを歩くようにした。念の為、自分の手は刀の鯉口に添え、何かあった際は即座に切り落とせるように気を張った。

ふいに、女が後ろを振り向き言った。

「この辺りはね、鬼が出るって言われているんだ」

手を添えていた鯉口をカチリと切った。

気付かれたか?せめて殺めるのはその彼岸花の場所に行ってからだ。人を斬るのは造作も無いが、武器も持たないような女を斬るのは信条に反する。

「あ、大丈夫。大丈夫。それは迷信だから。そんなに怖い顔しなくても平気。熊は出るかもしれないけどね」

くすりと笑った女は再び前を向いて歩き出した。
この女……まるで警戒心というものがない。刀に手を添えていたのも気付いているはずなのに、心拍数も脈拍も呼吸も変わらない。変わった女だと思っていたところ、女が足を止めた。

「ここ。この彼岸花。見て、まだ蕾なの」

指をさした場所には一輪だけまだ蕾の彼岸花があった。周りの花は狂ったように咲いているというのに、それだけは頑なにまだ蕾のままである。

「じゃあここでしばらく観察ね」

 女はおもむろに持って来ていたござを広げそこに座った。夜通し観察をすると言っていた通り、この場所で時間を潰すらしい。用意の良いことだ。

「お侍さんもどうぞ」

空いている隣の場所に手をやり、ぽんぽんと叩いた。

「……遠慮する」
「あら、そう」

自分のことを鬼とは微塵も疑ってもいないようだが、夜に男に隣りに座れと席を勧めるのは感心しない。無用心にも程がある。それともこの時代の女子はこんなものなのかと、どうにも分からなくなった。

満月が辺りを淡く照らしている。姿の見えない虫の鳴き声があちこちから聞こえる。心地の良い静かな夜だった。
 
しばらくして、女は背負っていた籠より何かを取り出した。水筒と椀と箸と米。米は乾燥させたものらしい。
米を椀に入れ、水筒の中身をそれに注いだ。

これは……知っている。干し飯だ。

戦国時代より食べられている携帯食。乾燥させた米を水でふやかして食べるのだ。
人の食すものなぞとうに忘れていた。味も匂いも形状も。興味も無い。鬼は人以外を食すことはないのだから当たり前だ。

「お箸が一つしかないからごめんね。先にどうぞ。あんまり美味しくないけど」

差し出されたそれを受け取ると、黒死牟は何とも言えない気持ちを抱いた。

とうに忘れていたあの頃の記憶が蘇る。懐かしいような、悲しいような、後悔のような、思い出したく無かったような……胸が締め付けられる。
あの頃もこうやって食べ物を差し出されたことがあったのかもしれない。
差し出して来たのは誰だったか……穏やかな声だった。優しい眼差しだった。笑っていた。柔らかな手だった。小さい手だった。無骨な手だった。男か女か。仲間か部下か妻か子どもか、弟なのか……

きっとこれはあの味だ。食べる前から想像ができた。椀を持つ手を恐る恐る口に持って来ては箸でまだ固い米を口に入れた。

「……そうだ……この味だ」

まだ自分が食べ物の記憶を持っていることにひどく驚いた。鬼になってから何百年と経ったというのに。

「えぇ……これ美味しくないけど。そんなにお腹空いてたぁ?」

女は黒死牟より腕と箸を取り上げると、一口米を食べた。

「うーん……やっぱりそんなに美味しくない」

すると、目の前にあった彼岸花がゆっくりと蕾を開き始めた。二人はそれを凝視した。



・・・



「黄色だったね。綺麗だったなぁ」
「…………」

結局、咲いた彼岸花は黄色であった。青い彼岸花探しは再び振り出しに戻る。

「また三年後だねぇ……先は長いなぁ」

女より先に歩いていた黒死牟は足を止めた。

「女……名は何という?」
「私?私はみょうじなまえ。お侍さんは?」
「……継国……巌勝」
「へぇ……かっこいい名前だね。立派な武将みたい。ねぇまた三年後、覚えてたら満月の夜にここで待ち合わせね」

なまえはそう勝手に決めると、満月で照らされている真っ赤な絨毯の上を機嫌良く鼻歌混じりに歩いて行った。真っ赤に広がる景色の中に、青色が一つ。

その姿は妖しい程に幻想的だった。
まだ見たことのない青いそれもこのように咲くのだろうか。

「忘れずに……来よう」

風がざわざわと木々を揺らし、瞬きをする間に黒死牟は闇夜に溶けて消えていた。

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