君の隣は味がする





「わぁ、おいしそうだねぇ!」

 目の前には湯気の立つ熱々のラーメンが二杯。海苔にチャーシュー、刻みネギにメンマと卵が、ほかほかと乳白色の海に浮かんで揺蕩っている。早く食べようぜ、とワクワクした顔で箸を割った童磨の手を止め、なまえは「ていうか髪結びなよ」と声をかけつつ彼の癖っ毛な横髪を後ろに流した。髪を押さえながらまとめるためのゴムを渡すが、彼はにこにこと人の好い笑みを浮かべるだけで受け取ろうとしない。仕方がないので、彼女は手ずから結んでやることにした。ここ最近は毎回そんな感じのような気がする。自分で髪が結べないと言ってしまえるほど不器用な人間ではないだろうに、となまえはいつも釈然としない気持ちになる。しかし深く考えても仕方ないのだろう。ふふ、と嬉しそうな顔を作られると、わざわざ突っ込んで訊く気も失せる。

「はぁ〜、やっぱりおいしい! 生きてるって、きっとこういうことを言うんだろうなァ」
「大げさ…お店の人には悪いけど、ただのラーメンでしょ」
「それはそうなんだけどさ、なまえちゃんと食べるのは俺にとって格別なんだよ」

 はふはふと麺を啜り、蓮華で汁を掬いながら童磨は言う。昔からそうだ、と幼馴染のなまえは辟易した。彼はどうにも言うことが甘言じみていて、聞く側に都合の良い言葉を並べがちなのだ。それも性質の悪いことに、嘘をつこうと思って告げているわけではないことの方が多い。ただ、時に相手の望むように発言を合わせたり、ほんの少し聞こえ良く言ってみているだけ。なまえにしてみれば、そんなやり方は厄を呼び込むもの以外の何物でもないが、近頃では彼は根っからそういう人間なのだろうと半分諦めている。人は変わるものだが、それはそう簡単に為せるものではないのだ。三つ子の魂百までとはよく言ったもの、と卵を二つに割りながらなまえは思う。なんだかんだで、彼女も幼い時分からほとんど変わらないまま成長し、相変わらず童磨と連んでいる。
 「わ、半熟だ。嬉しいなぁ」と、横から感嘆する声が聞こえる。彼も卵を割ったらしい。それからの童磨は、あれがおいしい、これがどういう味、という感想を、「ねぇねぇ」と逐一なまえを呼びつけて喋り倒してきた。信じがたいことに、その間にも彼のどんぶりは着実に中身を減らしていっている。全部まともに反応していては自分が食べられないため、適当に相槌を打っていたなまえだが、あまりにも続く一方的な食リポ放送に面倒くさくなり、自分から話題を変えることにした。

「あんたもラーメン好きね。昔はなんかもっとお高くておしゃれなものばっかり食べてる印象だったけど」
「家が裕福だったからなぁ。今の両親も俺を溺愛しているようだし、見栄っ張りなのも同じだもの」
「むっかつく」

 基本的に嘘をつかない時の童磨は、歯に衣着せぬ物言いばかりする。それも、素直と呼ぶにはあまりにあけすけで、無遠慮なやり口だ。最低限のオブラートにさえ包まないので、悉く他人の神経を逆撫でする。だがしかし、誰にでもその態度でいるわけではない、ということにはつい最近気が付いた。自分でも薄らと自覚があるのかないのか、相手を選んでやっているらしい。彼がそうするのは、本人が親しいと思っている人に対してだけのように見える。そのほぼ全員から総スカンを食っているのは気にしないのか、とまた呆れたが、一方でどうにもまともに取り合ってしまう自分のような者もいる。
 どんな目に遭っても、彼はいつもにこやかに笑っている。それが、ほんの少しだけ気になってしまうのだ。

「別にね、ラーメンだけが好きってわけじゃないんだよ。そもそもラーメン食べるようになったのも、なまえちゃんがきっかけだしね」
「えっ、私のせいってこと?」
「アハハ、そんなに悪いように捉えないでおくれよ。俺は喜んでるんだからさ、これでも」

 そう言う童磨の笑顔は、いつもより本物に見えた。微笑みに本物だの偽物だのと評するのもおかしな話だが、にこにこ笑ってばかりいる童磨の心情は、顔全体の表情筋だけでは判断がつかない。笑ったり、怒ったり、泣いたり、いかにも本当にそう思っているかのように表情を作るのが彼は上手だ。それに気付いてしまった時、なまえはなんとなく彼を放っておけなくなってしまった。そのことを内心でどう思われているのかはわからない。今時、人情なんて流行らないものだし、要らぬお節介と思われているかもしれない。「なまえちゃんはちょっとぶっきらぼうだけど優しいよね。だけど、あんまり他人に優しくしすぎたらいけないぜ」と、褒めているのか貶しているのかはっきりしない言葉を彼にかけられたことがある。言われた当時はよくわからなかったが、表面的にだけでも他者に対して穏和に接することの多い童磨だからこそ出た忠告なのだろう。彼は利用されそうになってもある程度状況を操作して上手いこといなせるだろうが、そんな器用な真似ができる人はほんの一握りだ。なまえのような大した打算のないお人好しには到底できない芸当だと、彼女自身も理解している。
 それにしても、初めてラーメンを一緒に食べた時とは、どんな日だっただろうか。スープをたっぷり吸ってふやけた海苔を食み、口の中で溢れる旨味を飲み込みながら、なまえは想起する。あの頃はまだ童磨のことを、恵まれた家庭で育っている子供、くらいにしか思っていなかった。幸せそうだと思っていたはずだ。けれど確か、なまえの家に菓子を持って遊びに来た日。大人が嗜むような、高級なチョコレートはひどく苦く、子供だったなまえの舌にはちっともおいしく感じなかった。それなのに、隣に座る童磨はにこにこしながら次々と口に運んでいたので、度肝を抜かれたものだ。「苦いのがすきなの?」と尋ねたら、彼はにっこりと笑ったまま「おいしいよ。父さんも母さんもそう言うもの」と答えた。その返答を聞いた時、なまえは思ってしまったのだ。それは、彼自身がおいしいと感じているのとは違うのではないか、と。

「あの時のチョコレート、全然おいしくなかったんだよなぁ。でも、人様の家に土産で持っていった菓子をまずそうに食べたら、おいしいお菓子をお裾分けしたつもりでいるあの人たちの体裁が悪いかなって思ったし。だから我慢して食べてたけど、そしたらなまえちゃんがラーメン作ってくれたんだよね」

 そうだ。その時のことを思い出して、なまえは恥ずかしくなった。当時は家事を手伝うようになって、調子に乗っていたのだ。他の子供よりも料理ができると思い込んでいた。「わたしのほうがおいしいもの作れるもん!」とか何とか言い出した挙句、戸惑う童磨を引っ張ってキッチンに行き、二人でこっそりラーメンを食べたのだ。一から自分で作ったならともかく、何の変哲もないインスタントである。湯を沸かしてカチコチの即席麺を茹でたり、買い置きされていた野菜を洗って切るだけのことが、無知な子供にとっては料理だったのだ。今にして思えばお粗末なつくりのラーメンを出され、当然のことながら童磨は驚いていた。自分はといえば、そんな顔もできるのね、と全く関係のないことに感心していた。にこにこ笑う顔しか見たことがなかったから、なんとかして他の表情にしてやろうと息巻いていたのかもしれない。ああもう、思い出せば思い出すほどに恥ずかしい。顔を隠したくて、なまえは器を持ち上げるとスープをずずっと飲み下した。「良い食べっぷりだねぇ」とケラケラ笑う能天気な声は、いつ聞いても殴りたくなる聞こえ方をする。

「…でも童磨、あんたアレ残したじゃん。好きになる要素どこにもないと思うけど」
「ああ、うん。きっかけの話だからね。一生懸命作ってくれたところ悪いけど、あれも全然おいしくなかった!」
「やっぱりむっかつく」
「でもね、なまえちゃん。大事なのはそこじゃないんだよ。『おいしくない』って感覚がわかる。俺は、それが何より衝撃的だったんだぜ」

 どういうこと、となまえは器を下ろし、顔を上げた。隣の童磨はもうとっくに完食していた。こってりした色のスープまで綺麗に平らげているのは、育ちの影響もあるかもしれないが、本当においしかったのだろう。あの日のラーメンは、半分も食べてくれなかった。ラーメンなどという食べ慣れていないものを、どんどん汁を吸って伸びていく麺を伸びる前にさっさと食べるということが、子供の頃の童磨には難しかったのだ。考えてみれば、昔の彼は今よりだいぶ少食だったかもしれない。食べ物の味など気にせずに食べる彼も、胃に入らない分まで入れることはできない。それでも我慢して食べていたこともあるというのだから、他人のために態度を作ることへの情熱は筋金入りだ。病的と言っても良いかもしれない。

「なまえちゃんはその後も、俺の味覚に付き合ってくれたでしょう。おいしくない、って言ってみたら、怒りもしないで『じゃあ童磨がおいしいと思うものを探そう』とか言い出すんだもの」
「やめてよ…あの頃はちょっとむきになってたんだってば」
「でも、なまえちゃんがそうやって躍起になってくれたおかげで、今の俺はおいしく物を食べられているんだぜ。おいしいもおいしくないも、甘いも辛いも苦いも酸っぱいも、俺にとってはどうでもよかった。どんなにまずくても、飲み込んじゃえば全部一緒だと思ってた。食事なんて生まれてこの方作業でしかなかったけど…なまえちゃんが、色んな味を教えてくれたんだよ」

 曲がりなりにも彼とそれなりに過ごしてきたなまえには、ある程度ならば童磨の表情の色を察せられる。本心からそう思っているのか、そうでないのかということを。玉虫色に遊色して見える目の奥までもが蕩けるように笑ってこちらを見つめているのを、なまえは見た。彼女は知っている。余所行きの笑みを浮かべながらブラックコーヒーを容易く飲み干してみせるこの青年が、実は砂糖やクリームをたっぷり入れた飲み方を好んでいることも。そうして本当に好みの味に行き当たった時の笑顔は、少なくともなまえからするといつもと違って見えるのだ。それが彼にとって『おいしい』を見つけられた瞬間だったら良いと、そう思っていた。生き物は、食べることなくして生きてはゆけない。それなのに死ぬまで砂を噛むのと同じでは、あまりにつまらないではないか。

「遠い昔、女を喰ってた時もそうだったんだよねぇ。おいしいっていうのは栄養価が高いってことで、それ以上の意味なんてなかった。味の好みはあったかもしれないけど、結局最期までわからなかったからなァ。栄養のあるものを食べると皆元気になるし、『おいしい』って笑うから、ああそうなんだって思ってた」
「げ、またその話? あんまり外でそういうこと言うのやめなよね」
「あれぇ、やきもち? ねぇ、やきもちってやつかな? 可愛いねぇ。心配しなくても、今はなまえちゃんと食べるご飯が一番おいしいよ」
「誰もそんなこと言ってないでしょ…」

 童磨はたまによくわからないことを口走る。人喰い鬼だったこともあるんだぜ、と冗談めかして宣うことを好んでいるようだった。ジョークにしては悪趣味だが、なまえの前になると彼は時折この話を引き合いに出す。色んな意味で最低に聞こえるのでやめてほしい、と窘めながら彼女はそっと周りの様子を窺った。たまたま近くに他の客はいないようなので、恐らく丸聞こえはしていないだろう。あまりにも何度も同じ話を聞かされるので、そろそろ気にしなくなりつつある自分がいるのが恐ろしいところだ。
 そんな彼女の様子を、童磨は笑って眺めていた。なまえの知らない、あるいは覚えていない古い記憶。これが本物だと理解しているのは己だけだ。前世だなんだなどと言い出すのは馬鹿馬鹿しいと、童磨とてわかっている。こんな記憶さえなければ、自分も一笑に付したはずだ。それでも、幼い頃の彼女は「本当に思ったことを教えてよ」と告げたのだから。言ったからには、その責任を取ってもらおう。本当の気持ちを隠さないこと。感じたことを感じたままに、素直に言い表すこと。『おいしい』と思うもの、その感覚を見つけるために、昔日の彼女と約束をした。彼がなまえに嘘をつかないでいるのはつまりそういう理由によるものなのだが、覚えているのは記憶力に優れた童磨だけだろう。彼女にとってはその程度の些細な記憶なのだと思い知るのは少しばかり寂しいけれども、覚えていなかろうが反故にさせる気は毛頭なかった。むしろ今、寂しいと感じたことに驚き、興奮を覚えている。彼女の隣はこんなにも感情の色と味に満ちていた。それを手放すのは、あまりにも惜しいのだ。惜しんでいる、という明確な自覚ができるのだ。

「なまえちゃんがいないと、まだよくわからないんだ。味のする世界ってどんなのか。だからこれからも、ご飯食べるのに付き合ってほしいなぁ」

 自分の口から出る言葉が、他人にとっての甘言だということは知っている。彼女がそう思っていることも。食べるペースが違うのにいつもなまえを誘うのは、早く食べ終えてしまってもとやかく言われないからだ。自分の好きなものを、誰に気を遣うでもなく、好きなように食べられる。残したりしなければ基本的に彼女は怒らないし、そもそも童磨はもう食べ物を残すほど子供ではない。それに、完食した後も楽しみは残っている。毎度、彼女が何かを食べているところを見るのが好きだった。食べることへの楽しみ方を教えてくれた幼馴染が、おいしそうに、幸せそうに物を食べるところを眺めているのが好きなのだ。自分と同じ気持ちだったら良いと思っている。たとえまともな形でなかったとしても、童磨はいつでも他人の幸せを願ってきた。鬼になっても、人間になっても、人並みになっても。なまえの幸福も当然願っている。それが一般的な感情でいうところの何であるかはまだ掴めていないけれど、彼女と一緒にいればきっと解るような気がした。童磨に味と、それにまつわる感情を教えたのは、他の誰でもないなまえなのだから。

「ごちそうさまでした」

 なまえがスープの最後の一滴を飲み干す。そのタイミングを見計らって、二人で手を合わせた。目の前には空っぽの器が二つ。水を飲んで、二人は席を立った。威勢の良い挨拶を背中に受けながら、街角のラーメン屋を後にする。駅へと向かう道すがら、ふと童磨が何か思いついたような声を上げた。…何故だろう、あまり良い予感がしないのは。隣から期待するような眼差しを感じるが、なまえは気が進まないままそちらを見た。万華鏡のような目がキラキラとこちらを見下ろしていた。

「せっかくだし、アイスでも食べに行こうぜ!」
「まだ食べるの!?」

 流石にカロリーが、とぶつぶつ呟くなまえ。彼と食道楽をするのは好きでやっていることだが、この男、実によく食べる。それに付き合っているとこちらの体脂肪率が馬鹿にならないのだ。服で隠れているはずの腹を咄嗟に隠してしまったのは、当然の条件反射だろう。それを見て首を傾げる幼馴染は、けろっとした顔で極めて健康的な体型を保っている。ふざけないでほしい、と思ったが言わなかった。どうせなんだそんなこと、と揶揄われるのがオチである。

「でも好きだろう?」
「……好き」
「うん、俺も」

 困ったように眉尻を下げてからの、にへらっと笑う仕草に、結局なまえは白旗を掲げた。食が関わると、自分にも他人にも甘くなってしまうのはそろそろなんとかしなければならない。だが言わずもがな、なんとかしないと、と思っているうちは大抵何も進展しないものだ。「おに…あくま…」と力なく罵ってみたが、彼はきょとんとしてから「今は鬼じゃないぜ」と笑みを浮かべるだけだった。そういうことを言っているのではない。

「そうと決まれば、向こうにおいしい喫茶店があるんだ。そこのアイスクリンでも食べようよ」
「アイスクリンって…なんか古めかしいのね」
「はは、昔はそういう呼び方だったんだぜ? 今のアイスクリームとはちょっと違うらしいけどね」
「一体いつの話してんのよ…」
「大昔の話さ!」

 殊更に上機嫌になる意味がわからないが、自分の好きな甘いものが食べられるからだろう、となまえは結論付けた。いつも通りの彼女の態度に対して、童磨は相手が前を向いたのをいいことに、一人密かに微笑んだ。遠い昔、二人でラーメンを啜った日よりもずっと前に、同じように曇りの街路を歩いてアイスクリンを食べに行ったのだと言っても、きっと彼女にはわからないだろうから。忘れられても寂しいとばかり思わないのは、どうしてだろう。きっと、幸せの味を知ったからだ、と童磨は結論付けた。鬼だった頃の自分を不幸だとは思わないけれども、こうして陽射しの下を歩くという幸福を思い出すことはなかったろうから。あの時とは違って、自分は彼女と同じものを食べることができるし、感じた味覚も言葉を交わすことで共有できる。そのことがささやかな幸せのひと時であることを心から理解できる事実。それは、童磨にとって何より得がたい感覚だった。

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