「冷たい手袋」
「ごめん」
恐る恐る声をかけると、数メートル先でスマホを弄っていた彼がゆっくり顔を上げた。そして、「おー」と伸びた声で返事をして、スマホをポケットにしまった。
「遅れちゃったごめんね」
「いや別にそんなに待ってねーし」
重ねて謝ると、目を閉じて怠そうに私の謝罪を受け流した。全然気にしていないらしい。基本無気力な彼らしいな、と思いながら、胸を撫で下ろす。
「つかお前も大変だな、大学の教授に呼び出されたんだっけ?」
「まーよくある事だよ。」
「ふーん」
彼の質問に言葉を返しながら、私は我に返った。そして、思い出してしまう。隣の彼は、人間じゃなくて、私のように大学に通っていない。吸血鬼である彼にはその必要がないからだ。人間のルールや規則なんて、縛られる意味がない。そんな当たり前過ぎる事実を、何故か急に頭に浮かんで。その先の未来まで想像して、胸が詰まった。
「どうした?」
急に黙り込んだ私の態度を不思議に思ったのか、隣を歩いていた彼が立ち止まった。私も釣られて立ち止まる。何か言わなきゃ、と彼の顔を見つめながら、強く強く体に念じたのに、口は間抜けに開いたまま言葉を発してくれない。
彼は私の顔をじっと見つめた後、バツが悪そうな顔をして、視線を空に向けた。私も同じように空を見上げる。今日の天気は快晴。いつぞやの異常気象なんて、何処にも存在していなかったかのようだ。そんな事に思いを馳せていると、彼が一歩距離を詰めた。何か言いたそうな表情をしているけと、でも何も言わない。察してしまっただろうか。
「あのね、」
「うん」
ようやく言葉が喉の奥から抜け出た。でも、続きの言葉は浮かばない。彼は、その続きを待っていてくれている。優しくて、臆病だから。
「……今日、いつもより長く一緒にいたいな……」
「ぶっ、」
なるべく今の気持ちに合った言葉を選んだつもりだった。すると、彼は何故か盛大に吹き出した。目を大きく見開いて、あり得ない、とでも言いたげな表情になった。なんでそんな反応になるのか、私は自分の言った言葉を思い返してみるけど、上手く結びつかない。流されるか、からかわれるかと思ったのに。
「お、お前さあ…!」
「うん」
「………なまえさあ、」
「うん」
「も
……」
「え、どうしたの?」
次第には頭を抱え出したから、私は疑問より先に心配が勝って、さらに一歩こちらから距離詰めた。私と彼の顔の間は多分、今1メートルもない。その事に恥ずかしくなったけど、それは一番の問題じゃない。
「ねえって、大丈夫?」
「お前のせいなんだけど……」
「え?なんで?あ、いや、うん。そうだよね。」
「多分、お前が今思ってるのと違うから。」
「え
…」
「……えい、」
「ぎゃっ」
急に両手を頬に添えられる。その手の冷たさに私の体は思わず跳ね上がった。変な声も出してしまった。
「冷たい!」
「だろうな」
「手袋しなよ」
「オレ風邪引かねえし」
「そういう問題じゃないよ」
「あったか」
同じように私も彼の頬に両手を添える。冷たさに悲鳴を上げた私とは逆に彼は心地良さそうに目を閉じた。
「てか、手袋つけてないのはお前もじゃん」
「でもポッケにカイロ入れて、そのポッケにずっと手入れてたからあったかいでしょ」
「オレは冷てえな」
はは、と乾いた笑いを溢しながら、自嘲を含んだ声色で彼はそんな言葉を言う。それに対して、私は悲しいより腹が立って、頬の骨を押すように添えた手に力を入れた。
「痛くねえけど痛えよ、何?」
「腹が立ったから」
「はあ?」
「桜哉にも、自分にも」
「……」
「だから、」
頬から手を離して、自分の頬に添えられている桜哉の手に自分の手を重ねた。確かに、本人が言った通り彼の体温は冷たくて、私の体温をじわじわと奪っていくようだ。でも、それで彼の手があったかくなるなら、悪くない気がした。
「私の体温あげるよ。そしたら、冷たくなくなるよね」
「…脈略なさすぎたろ」
「でも、伝わったでしょ?」
「その言い方だと、オレじゃなきゃ分かんねーよ」
「桜哉にしか言ってないし、桜哉が分かってればいいよ」
「あったかくなっても、お前が手を離したらすぐ冷たくなるって」
「じゃあ私のいない時は手袋つけててよ、買ってあげるから」
「そうきたか…」
「映画まで時間あるでしょ?」
言いたい事を言えてちょっと晴れた気分になった私は小さくステップを踏みながら、踵を返した。そこから歩き出そうとしたけど、後ろから強く抱き寄せられてそれは叶わなかった。バランスを崩しそうになったけど、彼の体がクッションになって、なんとか踏みとどまった。
「オレ手袋よく分かんねーよ?」
私の耳に、彼の息がかかる。その息は熱を含んでいて、吸血鬼はちぐはぐだ、なんてぼんやりと思った。
「私もよく分かんないけど、今は保温のやつとかあるんじゃない?」
「適当なやつだな」
ぎゅう、と苦しいくらいに彼の2本の腕が私の体を重く縛る。彼は今どんな顔をしているんだろう。多分だけど、迷子の子供のような顔をしている気がした。
「桜哉」
「なに」
不満げで、ちょっと拗ねている様にも聞こえる声で返事が返ってくる。
「今日、ずっと一緒にいてくれる?」
「ばっ、だからお前さあ…!」
「ぐえっ、流石に苦しい!」
「好き勝手言いやがって、オレの気持ちもちょっとは考えろよ!」
「考えたらキリがないじゃん!」
「ちくしょ
…なんでオレはいつもいつもこいつに勝てないんだ…」
「惚れた方が負けってやつ?」
「調子乗んな」
「あはは」
服越しに伝わる彼の体温はちゃんと暖かくて、私はちょっぴり泣きそうになったけど、今はまだそれは心の奥に押し込んで、笑っておく事にした。違いを考えててもキリないし。いつか別れは来るけれど、ごめんね。まだもうちょっと、このまま、曖昧なままにさせてね。桜哉。
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