「一緒に年越し」
※告白され済みの上の友達以上恋人未満
※剣城君は高校生
※明るいよりは切ない
ピンポーン。
もう1ヶ月は聞いていない無機質なその音に、私は構える様に肩にかけた吸水性の高いミニタオルを握った。芸人が騒ぎ立てる声が背後から聞こえる。その声にやっと我に返った。
フローリングに触れると、湿った足が歩くたびにペタペタと軽い音を立てる。目の前のインターホン画面には、予想通りの様な、いや全く予想外の人物が映っていた。頭にこれまでの記憶がぽんぽんと思い浮かんで、その条件反射で大きなため息が出る。
はっ、とスタッカートの様な小さなため息を乱暴に吐き出してから、《応答》のボタンを押した。
「お母さんと喧嘩でもしたの?」
言いながらそれだけはありえないともう1人の自分は言う。画面の向こうの少年は、私の応答に大きく目を見開いて、視線を何故か左右に揺らした。相当動揺しているのが、見て取れた。やーい、と子供の様な揶揄いをしそうになった口を噤む。
いや、そもそも訪ねてきたのはそっちじゃんか。私が居留守を使うと思っていたんだろうか。そう考えると、ほんの少しだけむかむかと気分が逆立った。
今日は大晦日。そして、時刻は23時近く。
「……切っていい?」
《切るな》
ほんの1秒前まで年相応の顔をしていたのに、私の問いかけにすぐいつもの仏頂面に戻った。
「一応聞くけど、どんなご用件で?」
わざと少し低めの声で聞くと、彼は首元のマフラーを乱暴に外して、右腕を上げた。その際の右手には、何かが詰められたスーパーの袋がある。何が入っているかは画質の悪いこの液晶では分からなかった。
《あんたと年越そうと思った》
後ろで芸人がそんな馬鹿な!と叫ぶ声が聞こえ、その直後にドテンと大袈裟なSEが鳴った。振り向いてみると、少し離れたテレビの画面には大袈裟なポーズで倒れこんだ芸人が写っている。自分もあんな風に倒れ込んでみたいと強く思いながら、私は解錠のボタンを押して、終了のボタンも押した。
それからすぐ玄関に走って、鍵を開けた。
そしてまたすぐに走ってリビングに戻る。リビングは昼間に掃除したばかりだったけど、机の上はお菓子の袋だの、水が中途半端に入ったグラスが2つ、乾いたアルコールの台ふきんなどが散らばっている。それらを適切に処理していく。新しい台付近を取りだして、綺麗になったテーブルを拭き終えたところで玄関からガチャと金属の擦れる音が聞こえた。
キイ、という耳障りの悪い音。バタンと閉まる苦手な音。その後にガチャ、とさっきとはまた違う音がした。
それから数秒もしないうちに自分とは違う、少し強めの足音がこちらに向かって近づいてくる。
「いらっしゃい、家出少年」
皮肉たっぷりの私の挨拶に家出少年こと剣城君は眉を少し寄せただけだった。その表情を真似すると、距離を縮めてきて、手に持っていたマフラーで軽く頭を叩かれた。勿論軽い素材出てきたそれは私の視界を少し塞いだくらいで痛くない。
「家出じゃない」
「でもお母さんに何処に行くかは言ってないでしょ」
「兄さんには言った。」
「共犯は優一君か……」
剣城君の兄・剣城優一君のあの優しそうな顔を思い浮かべる。最後に会ったのはいつだっけ。ああ、そうだ。すぐに思い出す。1ヶ月くらい前に商店街でたまたま会ったな。そこで最近の剣城君の話をなんだかんだ10分くらい話した。というか、嬉しそうに話す優一君に相槌を打っていたというか。聞いていたというか。
ん?
その時の話の内容を思い返しながら、カレンダーに視線を向ける。
「あれ、今日って天馬君の家でお泊まり会するんじゃないの」
確か優一君から聞いた話では、今日大晦日は中学時代の同級生こと親友の松風天馬君の家で当時のサッカー部の一年メンバーで忘年会をする事になっていた筈だ。
剣城君は手に持っていた袋をテーブルの上に置くと、バツが悪そうな顔でこちらを見た。置いた瞬間、ゴトンと鈍い音がしたけど、袋の中には何が入っているんだろう。今の私の距離からじゃ絶妙に見えない。
「別にいいだろなんだって」
「いやよくないよくない。というか、部屋に入れちゃったことがそもそもよくないんだけど。」
「それは別にいいだろ」
「え
……いや、本当に。なんで来たの?
その表情だと別に中止になった訳じゃないんでしょ?」
テーブルに近づいて、袋の取っ手を開いてみる。中には、近くのコンビニで見るスイーツが2つ。後は何かの惣菜が入ったタッパー。それとガラス瓶のオレンジジュースが二本。焼肉屋さんとかで出てくるちょっと高いやつだ。さっきの重い音の正体はこれだったのか。
「……狩屋だ」
「へ?あ、」
「あんたの言う通り、別に中止になった訳じゃない。ただ30分くらい前に場酔いした狩屋が『お姉さんの家に突撃訪問してきなよ!』とかふざけた事を言い出して、それに天馬と信介が乗って、……今日は止める役の影山もいなかったんだ。空野も最初はいたけど、年越しは家でするって8時には帰ったし。」
「あの生意気少年め…!!!」
狩屋君というのはあの頃の雷門サッカー部一年メンバーの1人で、今だにちょくちょくLINEを寄越してくる剣城君とは別の意味の生意気少年だ。悪い子ではないんだけど、悪ノリや悪ふざけをさせたら、彼の右に出るものはいなかった。要するに性格が悪い。
「俺が反論する間もなく色々と持たされて、行かざる得なくなって、こうなった。」
「だから私が出た時あんなに驚いてたんだ」
「まあ、そのお陰で今ここにいるんだし、結果オーライってやつだな」
「え、待って。秋さんにはどう言い訳したの!?」
「秋さん…?ああ、管理人さんは今日は実家に戻っていていなかった。だから、俺が今ここにいる事を知ってるのはあいつらだけだ。」
「へえ
……へえ?」
あいつらだけ、その言葉に噴き出したヤカンの様に頭の中に危機感が染み出す。それと同時に私がインターホンで応答した時の剣城君の困惑した表情を思い出した。
友達に半ば強引に唆されたとはいえ、こんな寒い中20分はかかる道のりを彼は1人で歩いてきたのだ。
私と剣城君の関係は複雑だ。
歳の差は7歳。そして、彼が中学3年生の頃に告白されている。私はそれに対してノーと答えた。仲間と共に中学サッカーの全国大会で優勝を果たし、その実力を今も伸ばし続けている。いつだったか、中学サッカーについて特集していた番組で取り上げられていた程だ。
そんな将来有望な彼の側に自分はあまりに相応しくなかった。
だって私は、本当に平凡な人間だ。基本周りに流されながらこれまで生きてきた。全く自分の意思が無かった人生ではないけれど、これまでの彼の努力を思うと、なんて小さいんだろうと嫌悪感に押し潰されそうになる。
きっと、勘違いをしているんだと思った。中学生なんて一番多感な時期で、周りの中で私が特に距離感が近い大人だったから。特別に思えてしまっただけ。
彼より少し長く生きてきた大人として、至極真っ当な意見。彼の手が震えているのに気付きながらも、私はそれを伝えた。自分の両手はしっかり背中に隠したまま。段々と表情が曇っていく剣城を見ていると、自分の口から人を殺せる程の刃が生えているのでは、という奇妙な感覚に襲われた。今でもその感覚は鮮明に思い出せる。
けれど、刃で心を切り刻まれ、抉られようと。
《今はそれでいい。
あんたが気持ちを受け入れてくれるまで、
俺は待つ。》
彼は自分の心に嘘をつけない人だった。
出会った時と変わらない、芯のある熱さを宿した瞳で、堂々と言いのけた。
私は、
そんな剣城君が好きだった、のだ
、、、、
とその時不運にも気付いてしまった。
あれからもう3年近く経った。剣城君はその後も私の側にいようとした。その粘り強さは他に活かすべきだ、と叫びたくなるくらいに私を逃してはくれなかった。練習の合間を縫って定期的に連絡を寄越し、返さなければ、また別の方法で接触してきた。そんな日々を積らせ、2年が経った頃。分からない、と彼に泣きながら言った事がある。今思えば、そこでやめて欲しいと言わなかった所でもう負けていた。
子供の癇癪みたいに乱暴に感情をぶつけた私に対して剣城君はまた堂々と言ってのけた。
《恋に理屈がいるのか。あんたはどんな理屈を言えば、満足するんだ。いいや、どうせどんな事を言っても、満足しないだろう。
俺が好きだと認めない限り、あんたは満足なんて出来ない。あんたはいつか俺を馬鹿だって言ったけど、俺にしたらあんただって馬鹿だ。
こんな年下の告白を切り捨てずに大事に抱えて、こんなに苦しんでる馬鹿なあんたが良いんだ。
なあ、あの頃さ。大事な人のために、他人の大切なものを傷つけ続けた俺を自分は許すって言ってくれたよな。それがさ、俺嬉しかった。好きだって、一緒にいたいって思ったんだよ。》
それは私が部外者だから言えた事だった。自分の感情が最優先で、無責任で。表面的な事実でしか知らなかったから。でもそれが、彼は嬉しかった。私も、どこまでも追いかけてきてくれる馬鹿で無責任な剣城君が好きだった。
《今じゃなくて良い。
その時が来るまで待つから。
この気持ちだけは側に置いてくれ。》
私の手を優しく握った剣城君の手はあの日の様に震えていた。受け取った自分の手も震えていた。そして、ゆっくりと頷いた。
「これコート何処に置けばいいんだ?」
思い出から現実に引き戻される。意識がぐん、と正体不明の引力によって戻される。目を数度瞬かせれば、コートを左腕に乗せた剣城君が不思議そうに私を見つめている。私は、その事実が堪らなく嬉しくて、でもまだだから、と遠ざける。
「貸して、ハンガーにかけるから」
もう一度、天馬君の家から冬の冷気に晒されながらここまで歩いてきた剣城君の姿を瞼の上に思い描く。マンション前で私の部屋の明かりを確かめたりしたんだろうか。歩くたびにカラン、と鳴る瓶の音に何を思ったんだろう。ああ、心臓が痛い。
コートにハンガーをかけ終えて、台所に入る。腕まくりをして、さっき消したガス栓のスイッチを入れる。無機質な案内音声が鳴る。何処に座ったらいいか分からない剣城君がこちらへ振り返る。
「剣城君が来てくれたし、お蕎麦茹でよっかな。天ぷらはないから、ぶっかけになっちゃうけど許してくれる?」
私達の関係は正しくはない。でも、別に良いかなとか思う。口では否定しつつも、もうそう思えるところまで来ている。言えないだけで、とっくに心は剣城君が好きだという事は認めている。
お互い大人になって、子供みたいに好きだと言い合える日を私達は震えながら待っている。
「…あんたが作るものならなんでも良い」
剣城君が机の上の袋を持って、台所に入ってくる。でも、何処に入れればいいのかは分からないから、袋から中身を取り終えたところで私に視線を泳がせた。私はとりあえずオレンジジュースの瓶と栓抜きを渡した。剣城君は黙って受け取って、栓抜きでキャップを外す。ガコン、と鈍い音がした。これでもう、あんなカランという切ない音はしないだろう。
時計を見れば、もう年越しまで1時間もなかった。お蕎麦は間に合うかな。年が明けたら、まずなんて言おうか。肩に乗せられた重さと体温を感じながら、浮ついた気持ちで考える。
「来年も一緒にいたいな」
素直な気持ちを言うと、今度は包む様に抱きしめられた。ごめんと軽く謝ると、俺も、と真摯に返してくるものだから、私は嬉しくて泣きそうになった。
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