「哀歌」


「ねえ、帰らないと」

「……マジですか?」

私の問いかけに太公望は持っていた本をパタンと閉じて、目を丸くした。そんな顔をしたいのは私の方だ、と思いつつも言葉を続ける。

「あのままにしておけない」

言葉を一つ吐く度、これから起こる未来への不安や重責で肺が狭まっていく様な苦しさを感じた。心拍もどんどん上がっていって、頭の中で反芻して煩い。仕方ないよ、怖いんだから。と臆病な自分を陳腐な言葉で慰めてみるけど、それは消えてくれない。

「……そんな泣きそうな顔で言われても、困ります」

とりあえずお隣どうですか、と太公望が自分の隣を手で叩く。私は彼の顔と叩いた箇所をゆっくり見比べた後、小さく息を吐いてから重い足で踏み出した。太公望が腰掛けている藍色のソファはビックリするほど柔らかい。
腰を下ろすと、弾力で自分の体が少し上がった。

「ここでの暮らしは嫌ですか?」

「嫌、とかじゃないよ」

「そうですよね、あなたはそういう人だ」

だから僕はこんな事をしてしまった訳ですが。太公望の暖かい声色が急に冷たいものに変わる。反射的に背筋がびくりと跳ねて、私は腕で自分の膝を抱え込んだ。

「ねえ、マスター」

「……うん」

「頑張るあなたが僕は好きです。」

「うん」

「あなたは自分を普通だと言いますが、普通とは一体なんでしょう。僕はもう分からなくなってしまいました。今僕に分かるのは、あなたは心も体も削られきって、消えてしまいそうというだけ。

頑張ったら対価が与えられるべきだ。
綺麗事でも僕はそう思うし、頑張るあなたを見てそれは道理だと確信した」

「……太公望」

「でも悲しいかなァ、どうしてでしょうね。
ああ、こんな堂々巡りな考えに今更意味がないのは分かってるんだけど、言っておかないといけない気がした。僕のためにも君のためにも。」

「太公望!」

「ねえ、マスター。いいや、なまえ。
頑張る君が僕は好きだよ。普通だ、当たり前だなんて君はいつか言ったけど、僕はそんな君が良かった。」

彼の両の腕が私の体を優しく縛る様に、包み込む。苦しくない、でも縛られてる様だと思った。彼の優しさに、心に。

「確かに君は彼の様なまっさらな善人ではないけれど、等身大の自分でいようって頑張って、頑張ったじゃないか。その葛藤と足掻きに僕は意味を見出したかった。」

私は彼みたいになれない。
困ってる人を損得なし、危険を顧みずに咄嗟に助ける事は出来ない。自分の命が惜しい。でも、助かって欲しくないわけじゃない。
困ってたら助けたい。だけど、その一歩がわたしには凄く重いもので。

だからせめて、彼に降りかかる危険の後始末をしようと思った。彼もみんなも助かるように何があっても慌てずに冷静でいようと頑張った。あえて一歩引いて、後ろにいた。

そうじゃないと、自分の存在意義がここになくなってしまう気がした。普通以下の人間になってしまう気がした。

「君はこれからだって彼の後ろに立つんだろう?」

彼の問いにわたしはゆっくり頷く。
ずっと前に決めた私の意味、覚悟。
曲げちゃいけない、だってあの人の残した世界だ。諦めちゃいけないんだ。そして、

彼がいなくなって、私が残るなんて事
起きちゃいけないんだ。

「ああ、嫌だなァ、凄く嫌だ。」

彼の慈悲に近い愛情が、苦しい。このままじゃ肺を潰して、心臓にまで届きそうだ。

「でも、そんな君が好きなんだよなァ」

そう、あなたが好きになってくれたのはそういう私。別にね、全部嫌々って訳じゃないんだよ。これまでの旅で色んなものを見て、私なりに決めた事。そこにーー普通の幸せはないけれど。それはきっと哀しい事なんだろう。



「どうせなら、僕のこの身勝手な愛で君の心臓が潰れてしまえば、良いのに」

ーー太公望は瀕死の私の手を取ってそう呟くと、私を狭間のここへ運んだ。


「報われてくれよ」

大丈夫、今の一言で私はちゃんと報われたよ。だから、太公望。どうか、これから先死ぬまで私の手をそのまま握っていてね。

「私もそういう太公望が大好きだよ」

ああ、眠い。
次に目を開けたらきっと、そこは。








 

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