「笑顔の勇気」
雷門中に転入してきて数ヶ月。
僕には気になる人がいる。
それは隣のクラスのみょうじなまえさん。
雷門中に転入してから
姿は何度か見かけたけどまだ話した事はない。
あっちは多分、僕がこの学校にいる事を知らないだろう。でも僕はーー
みょうじさんの事をずっと前から、知っていた。
幼い頃の僕にとって、サッカーは
みんなが思うような楽しいものではなく
《自分を縛るもの》だった。
叔父の影山零治は、
何年も全国大会で優勝を重ねてきた名門
帝国学園の監督だった。
ーーでも、その勝利は実力で掴み取ったものではなく。叔父が裏で手回しをして掴んだ
偽物の勝利だった。
お母さんが最初の時以来あんまり話してくれないから、詳しい事は知らないけど、叔父の父親は有名なサッカー選手だったらしい。でも、歳を重ねるにつれて、その実力も衰えていってーー。
《負ける》事が多くなった。
そんな父親を見て、叔父は勝利する事へ執着する様になったらしい。その内手段を選ばなくなって、犯罪にも手を染めた。初めて聞いた時は、叔父はサッカーを嫌いになって、そんな事をし始めたんだと思っていた。
でも、お母さんはこうも言っていた。
叔父はサッカーを憎んでいたけど、愛していた人でもあったって。本当はズルなんかしなくても勝てる様な実力があったんだって。
それをーー叔父の死後に教えてくれた人がいたらしい。
だから、縁を切れずにいるんだと、虐められて帰ってきた小学生の僕にお母さんは泣きながらそう言った。お母さんも昔はサッカーをやっていたらしい。幼い頃は、叔父が誇らしかったらしいけど、悪事がバレるとこの頃の僕みたいに周りの目が冷たくなっていって、やがて諸悪の根源である叔父を憎む様になり、プレーする事をやめてしまった。
幼い頃の僕には、理解出来なかった。
叔父の事も、お母さんの事も。
2人が愛したサッカーの事も。
どうして、親戚だってだけで
虐められるんだって思いしかなかった。
ーー雷門中でサッカーを始めるまでは。
《だい、じょうぶ?》
みょうじさんと初めて会ったのは、小学生の頃。
叔父の事で虐められる様になった頃だ。
ひとりぼっちにされて、体操着を隠されたり、机に落書きされたり。担任の先生は見てみぬふりだった。
自分で何とか出来る範囲でならまだ我慢出来たけど、その子達の悪戯で怪我するのは一番嫌だった。だって、怪我ばっかりはお母さんに隠せない。その日は確か、ふざけて投げてきた小石が僕の額に当たってしまったんだったっけ。当たると思ってなかったのか、その子達は衝撃で倒れた僕を見るとすぐに逃げ出した。
当たりどころが悪かったのか、頭がぐらぐらして、起き上がるのもつらくて。
このまま死んじゃうのかな、とか思い始めて
辛くて悲しくて泣いていた時に。
みょうじさんは僕の前に現れた。
《血、でてるよ。まってて》
何処かへ走っていったと思ったら、濡れたハンカチを持ってすぐに帰ってきた。
そして、それを僕の額に当てて。
《いた、》
《ごめんね、もうちょっとの我慢だから》
リュックから小さな救急箱を出すと、
怪我の手当をしてくれた。慣れているのか、保健室の先生よりも早かった。
《ありがとう》
手当が終わった頃には、起き上がれる様になっていたから、起き上がってみょうじさんにお礼をした。違うクラスだから、僕がクラスの中でどういう状態か知らなかったんだと思う。
だから、怖がらずに手当をしてくれた。
分かっているのに、僕はその優しさが凄く嬉しくて。1人じゃないんだって思えて、胸が暖かくなって、女の子の前だっていうのにみっともなく泣いてしまった。
《痛いの、》
《違う、》
《悲しいの?》
《うん、悲しくて、》
彼女は何も聞かずに僕が泣き止むまで
手を握ってそばにいてくれた。
その手には絆創膏が指の2箇所についていた。
みょうじさんもきっと僕と同じなんだって思った。
《名前はなんていうの?》
《私?私はね、みょうじなまえ》
《僕は影山輝って言うんだ》
《影山君?》
《…できれば、輝って呼んで欲しいな》
《いいよ、輝くん》
僕の名前を照れくさそうに、優しく笑いながら呼んでくれたみょうじさんに僕はーー恋をした。
きっと、一目惚れってやつだ。
でも、彼女に会えたのはそれっきりだった。
その翌日に僕の転校が決まったから。
転校してからも、心はみょうじさんの事でいっぱいだった。辛くて泣いてないかな、とか元気かな、とか。
転校してからも、いじめまではいかなくても
それに近い事はあった。でも、あの時の彼女の笑顔を思い出してーーある日、僕は勇気を出した。そうしたら、世界は僕に優しくなった。僕に足りなかったのは、我慢じゃなくて一歩を踏み出す勇気だったらしい。
それからも、みょうじさんの存在は僕の心の中に常にあった。彼女は僕の勇気の一部だった。
何も伝えられない事を、ずっと後悔してた。
だから、雷門中でこの間みょうじさんを見かけた時は
心臓が止まるかと思った。そして同時に泣きたくなるくらい嬉しかった。
身長も伸びていたし、髪も伸びていた。
でも、あの優しい笑顔は変わってなかった。
ーーその手には相変わらず絆創膏があったけれど。
僕はまだまだ幼くて、子供だ。
だけど、あの頃と違って僕には勇気が2つある。あの子の笑顔と、サッカー部のみんなの存在。1人じゃないっていう、大切な自信が。
何も出来ないかもしれない。
だけど、みょうじさんがいつか僕にしてくれた様に
側にいることは出来る。
好きな子にそれくらいは出来る男に、
僕はなりたい。何より、伝えたい。
《あの時、僕を見つけてくれてありがとう》
って。
放課後の隣の教室に、1人の女の子がいる。
席に座って、外を眺めている。
その目は、あの頃の僕とそっくりだった。
深呼吸を一つして、扉を開ける。
彼女がこちらへ振り向く。
僕の姿を見て、驚いた顔で口を開いた。
それが声になる前に、僕は彼女に問いかける。
「大丈夫?」
みょうじさんは泣きそうな顔で僕の名前を呼んだ。
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