「優しい逃避行」



「じゃあ、逃げちゃおっか」

星空を見上げながら、普段の声色で
士郎君はそう呟いた。

「……え?」

その言葉の重さと優しい笑顔が
あまりに噛み合っていないものだから、

《逃げたい》と言い出したのは私なのに思わず面を食らってしまう。

こちらに振り返ると、彼はさらに柔らかく笑う。それはいつもと同じ笑顔なのに何か違う様な気がして、ざわつく胸を押さえながら
彼に一歩近づく。

そこで目を凝らして気付いた。
私を見つめている
夜空を透かしたようなその瞳は、
ちっとも笑っていなかった。

でも、敵意や嫌悪を感じさせる様な冷たくもなくて。そのまま見つめ返していると、引き込まれてしまうような、不思議な気持ちになる。

私のそんな心中なんて分からない士郎君は、一瞬ちょっと困った様に笑うと、ゆっくりこっちに近づいてくる。

そして、
恐る恐る、といった風に私の頬に小さく触れると、士郎君はそこで顔を伏せた。

「僕はさ、大切な人がいなくなる事が一番怖いんだ。

そうならない為だったら、
自分にできる事はなんだってしたいと思う」

聞いた事のない声だった。
寂しそうな、それでいて
何処か切なさも感じさせる様な。

でも不安定に揺れている訳ではなくて、声自体ははっきりとしていた。

そこでもう流石に分かった。
最初の言葉も今の言葉も
冗談なんかじゃないって。
本気で彼は私と逃げようとしてくれてるって。

「……いいんだよ、たまには逃げたって。
一人で逃げるのが怖いなら、
僕が一緒に逃げてあげるからさ。」

月明かりと私の涙で、
士郎君の顔が明るくぼやける。

「ほら、行こう?」

目的地は決めずに、蹴り上げられたボールみたいに真っ直ぐに、気持ちのままに。僕達の知らない場所へ歩いてみようよ。

ーーそうしたら、きっと何か変わるさ。






「流石に夏でも朝方は冷たいね」

「そうだね。でも北海道はこれの3倍は冷たかったよ」

「えー?夏なのに?」

「夏なのに」

朝焼け色を映した海水に
2人で子供みたいに足を晒した。

ばたつかせると、ばしゃばしゃと
小さい頃の夏のプールを感じさせる音がして、同じ水だもんなあ、なんて
その音に耳を傾けながら当たり前の事をぼんやりと思った。

「……隙あり!」


とか呆けていると、
そんな士郎君の声が聞こえて。

そっちに振り返ろうとしたけどーーー
その前に、視界が暗転した。

「へ!?うわっ!」

「あ、ごめん。背中痛くない?」

「ちょっと痛いけど、気にするところ
そこじゃないっていうか!」

目を開けると昨日の夜よりもずっと近くに彼の顔があって、そこでら押し倒されたのだと気づいた。

「だって、なまえちゃんとこんな風に
じゃれあえるのなんて
もう今日くらいだと思って。」

子供みたいな無邪気な笑顔を向けられると、口に出そうとした文句の言葉は何処かへ引っ込んでしまった。

「士郎君は本当狡いね」

「えー?そうかな」

「そうだよ、本気なのに
本気じゃないなんてさ」

鳥が何処かで朝の訪れを鳴いて祝っている。聞き慣れたそれが今は。

この無計画な逃避行の終わりを
指している様に聞こえた。

「……別に本当に本気にしたっていいよ。君がそうしたいなら、僕はそうなってみせるよ」

声色は力強いのに、表情は迷子になった子供みたいに不安そうだった。
ああ、私がこんな表情をさせてしまったんだ。

「うん、ありがとう。」

そんな彼の優しさから離れる為に、
心をありったけ込めてそう呟く。

そして、昨日彼がそうしてくれたみたいに頬に手を添えた。

「帰ろう、士郎君。」

士郎君は全部分かっていた。
失望や後悔はあるものの、私が全部に
絶望していた訳じゃないって。

ただ誰かに自由な場所に
少しだけ連れ出して欲しかっただけだって。私が、心の何処かでまだ頑張りたいと思ってる事を分かってくれていた。

「うん、帰ろっか」

逃げちゃおっか、と言った時と同じ声で士郎君は返事を返してくれた。



「ねえ次は何処へ行こうか?」

「また連れ出してくれるの?」

「君が望むなら、何回だって」

「ふふ、士郎君ってまるで王子様みたいな
そういう言い方するよね」

「じゃあなまえちゃんはお姫様?」

「そんな柄じゃないよ。
あ、電車来たよ」

「段差が危ないから、
まずはお手をどうぞ?お姫様」

「……もう、変な所意地が悪いんだから!」

でも本当にありがとう。
私の、狡い王子様。




 

[ back ]


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -