最初の流れ星 俺の隣の席のみょうじなまえさんは、簡単に言うと 凄く変わっている。 「えーこの数式をここに代入してー」 態度に煩い事で有名な数学の先生の授業中だというのに、今日も黒板に見向きもせずに本を読んでいる。 (今日は熱力学の本か。昨日は環境問題についてだったっけ) 「こら!そこ!授業中だぞ!」 (あ、バレた。でも読むのはやめないんだな) 先生に怒鳴られても、本を取り上げても、彼女は顔色ひとつ変えなかった。 真っ直ぐに相手を見ているものの、その意識は何処か遠くにある様に見えた。 「基山ー、隣の席の宇宙人今日は何読んでた?」 「確か熱力学の本だったかな」 仲のいいクラスメイトにこう聞かれるのも、進級してから数ヶ月。もう日常の一部になってきていた。 「熱力学?そんな本読む割にはみょうじってそこまで頭良くないよな」 「あー…そうだね」 彼の言う通り、この前の中間考査では中の下くらいの成績だった気がする。 (隣で君の話題を話しているのに、 やっぱり見向きもしないんだな) 最初は驚いたものの、月日の流れというのは怖いもので、慣れてしまった。 関心がない訳じゃないし、気になる事はまあ、あるけど。話しかけても答える事がないのは、他の子に話しかけた時の彼女の反応でもう分かっている。 去年は同じクラスじゃなかったけど、聞くところによると一年生の時からこうだったらしい。 「本当何考えてるんだろうな。今日も怒鳴られても顔色ひとつ変えねーし。 ……ちょっと、怖いよな」 本人の横でそこまで言ってしまうのはどうかと思ったけど、その本人はまた別の本に夢中だ。ただ、流石に友人のその言葉に同意はしなかった。 (宇宙人、か) 普通の人から見たら、得体の知れないものって宇宙人って認識になる事が多いんだろうか。いや、そんな事はないのかな。でもきっとその感性は俺には、一生理解出来ないものだ。 だけど、この単語を無関心で通せる程俺は心無しでもいられない。 (本当子供だとは自分でも思うけど、俺はみょうじさんがそう呼ばれているのがほんのちょっとだけ、面白くないんだろう) 高校生になって、こんな自分の一面を知る事になるとは思わなかった。 ーー正直を言えば、知りたくなかった。今になって俺はただの人間だって変に突きつけられてるみたいで。 「基山、隣の席のみょうじにこれ渡して貰えないか?」 「え」 そこから数週間が経った、ある日。 放課後、俺は担任の先生から、みょうじさんに授業のプリントを渡してくれと頼まれた。 「みょうじなら多分あそこだ。 部活の帰りでいいから、寄ってくれると嬉しい。」 「えっ、でもそうなると結構遅く……」 「ああ、大丈夫だ。あいつならその時間帯でもまだいるだろうし、基山が行けば流石に受け取りはするだろう。」 どうやら担任の先生はみょうじさんが一年生だった時の担任でもあったらしい。その心労を心の中で労りつつも、なんで俺が?という思いもあった。場所も分かっているなら、特に話した事もない俺よりも去年から担任だった先生が渡した方がみょうじさんだって気が楽だと思う。 「あー……俺は去年ある事件からみょうじに嫌われててなあ」 「嫌われてる、ですか?」 何に対しても無関心なみょうじさんが人を嫌うのは、なんとなく想像がつかなかった。 「あ、そうだ。みょうじのいる場所はなあ」 ……それと、前から思っていたけど、この人彼女とは違った意味のマイペースだ。 その後渡されたプリントは1週間前に配られていた進路希望表だった。 「……本当にいた」 担任の先生の言う通り、彼女は校門から少し離れたそこそこ高い木の上にいた。どうやってそんな所まで、と視線を周りに向けると、彼女の座っている枝の下の大きな分かれ目に脚立が立てかけてあった。 …体育倉庫で見かけた事がある様な気がしたけど、とりあえず今はそれは置いておこう。 ……でも、えーと、どうしよう。 次の行動を考えながら、そんな木の上のみょうじさんと手元の進路希望表を見比べる。声をかけたら降りてきてくれるかな。 「おーい、みょうじさーん」 下から少し大きな声でそう呼びかけると、流石にこっちを向いてくれた。 「これ先生から君に渡してくれって頼まれたんだけどー」 相変わらず無表情だったけど、先生という言葉を出した瞬間、露骨に嫌悪の表情になった。担任の先生、一体みょうじさんに何をしたんだろう。 「どうせ進路希望表でしょ。私は宇宙研究に忙しいから、そこに置いて帰って」 2年生に進級して、隣の席になってからもう数ヶ月は経つのに。俺がみょうじさんの声を聞いたのはこの時が初めてだった。想像していたよりも、凛として芯のある声色で、素直に驚いた。って違う、それより。 「宇宙研究って……」 なんとなく察してはいたものの、言葉として聞くとその大人しそうな見た目も相まって強い違和感を感じた。それに、研究という割に 成績は良くないし。今も木の上に登って望遠鏡で空を眺めているだけ。 そう、はっきり言うと《口だけにしか》思えない。それでも他人の俺がどうこう言える事じゃないから、口には出さないけれど。 「……へえ、基山君ってそういう顔も出来るんだ」 「え、」 と心の中で思っていたら、予想外の言葉をかけてきた。そして、にやっと笑ったかと思ったら、 「なんだ、つまんない。やっぱりあなたもそっち側か」 と酷く冷めた声でそう言い捨てた。 「なっ……!」 そっちって、なんだよ。久しぶりに、心から怒りが湧いた。 「そうやって自分を誤魔化して、息苦しそうに生きて、楽しい?」 ーー今思えば、その言葉は図星だった。 息苦しそう、はともかく、誤魔化しているのは本当だった。だって、俺はもう普通で、その普通でいる事が今1番すべき事だろうと思っていたから。 日本代表という立場を離れて、日常に戻ってから、俺は自分の世間的な立場についてようやく本当に自覚できた。どんなにサッカーが上手くて、実績を持っていようが。俺の過去の行いは永遠に消えない。一生をかけて、背負っていくしかない。もし、父さんの為にした事に対して自分にとっては正しい事だった、と本心ではまだ少し思っていても。 そんなのは、世間の前ではただの戯言だ。罪悪感がない訳じゃない。円堂くん達といると、自分の罪の重さに苛まれそうになる。彼等とのサッカーは本当に楽しい。 でも時々俺と対等でいてくれる彼等の優しさが、俺の心を押し潰しそうな事がある。彼等は何も悪くなくて、これは俺の問題だって、どんなに言い聞かせても。 「……楽しい訳、ないだろ」 言ってしまった後に我に返る。何を言ってるんだ俺は。こんな事、彼女に言ったって仕方ないじゃないか。 「…いや、その、俺の事は別にいいだろ。みょうじさんには関係のない事だ」 思っていたより冷たい言い方になってしまって、さらに自分が情けなくなる。でもこれは、本心だ。 「いつも変な視線を向けられたら、 流石に気になりもするよ」 「え、」 「何を言いたいんだろうって、不思議に思っていたけど。やっぱり、基山君って私の事、気に入らないんでしょ」 その呟きに心臓を何かで貫かれた様な、錯覚に陥った。一瞬、息の仕方を本気で忘れた。木から降りようとしているみょうじさんの動きが、スローモーションの様に見える。って、え!? 「あ、」 「危ない!」 手を滑らして、拠り所を失ったみょうじさんの体が宙に投げ出される。反射的に、体が動いた。動いた後に、少し速度を出し過ぎたと思ったけれどもう遅い。 「……基山君って意外と力持ち?」 「はー……まずそこじゃないでしょ……」 「ありがとう」 臆面なくお礼を言われて、驚きと共になんとも言えない気持ちになる。 抱き止めた彼女の体は思っていたよりもずっと軽かった。 「え、なに……?」 頬に何かが触れたと思ったら、それはみょうじさんの手だった。無表情のままぺたぺた、と探る様に顔のあちこちに触れる。 「身体検査」 「は、はあ…?」 さっきからずっとそうだけど、みょうじさんの言動も行動も理解の範疇を超えていて、頭が混乱する。というか、脱力した。身体検査って、なに?しかもなんでこの状況でそんな事を? 「普通の人間みたいなのに、変なところ人間じゃないんだね」 「……っ」 みょうじさんのその言葉には心当たりがあった。さっきまでの彼女と俺の間にはそこそこ距離があった。多分陸上部の人間だって、追いつけないくらい。 俺は落ちてくる彼女に対して反射的に《普通を超えた》速さで受け止めようと走った。その代償か、体の節々が痛い。それはそうだ。もう俺は《そういう訓練》を暫くしていないのだから。 「変なの、」 「……だろうね、怖い?」 今の俺の動きこそ、普通の人間の《理解の範疇》を超えていた。それを目前で見たのだから、怖がるのが当たり前だ。でも、みょうじさんはむしろ逆で、 「ううん、面白いから良いと思う」 なんて優しく笑いながら言った。 この状況での面白い、は貶し言葉になるんだろうけど、俺を見るみょうじさんの瞳は真剣で、彼女は馬鹿にしているのではなく、心から俺のこの身体能力を《面白い》と思っているのだと感じ取れた。 「私、嫌いじゃないな」 「……みょうじさんって、変わってるよ」 もう、何か言い返す気も起きなかった。俺の人生の中でこんな人間は初めてだった。 「でしょ」 嬉しそうなその満面の笑みに、さっきまで抱いていた罪悪感も、怒りも何処かへ吹き飛んでしまった。 「とりあえず、下ろすよ」 「え、もっと身体検査したかった!」 「これ俺じゃなかったら、みょうじさん変態扱いされてるからね」 「じゃあ基山君だから問題ないって事だよね?」 「問題あるよ……」 「そういえば下の名前って、なんて言うの?」 「本当君って他人に興味ないんだね……。 一応俺、君の右隣の席なんだけど」 「基山君にはたった今興味出た」 「……基山、基山ヒロトだよ」 「なんか合ってないね」 「あ、そう……」 「あれ、疲れてる?」 「君のせいでね」 「重かった?」 「いやそっちじゃなくて!」 ×
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