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 瓦斯(ガス)の光が柔らかい抱擁を持ちながら漏れ出る、西欧式の建物はどこか浮き足だったような印象を孕んでいた。いくつもの箱馬車(キャリッジ)からいくにんもの紳士淑女が降り立ち、敷き詰められた絨毯を威風堂々と進んでいく。その様子を家の箱馬車(キャリッジ)の中から眺めながら、源田は父の言葉を聞いていた。
さる名家のご令嬢を、彼女が馴染むまで侍立(エスコヲト)せよとの事柄である。貴族達の思惑はいつでも明快で、ほとほと嫌らしい。幼い頃からその生活を余儀なくされてきたものの、生まれつきの気質から華族の習わしというものに染まりきることのできない彼はつきそうになった溜息を堪えた。なんにつけ次男に産まれた身としては、女姉妹と同じく家同士の管(パイプ)に使用されるのが定められた運命である。

 煌びやかで麗々しいこの華族社会ではその実、急速なる崩壊が始まっている。落ちぶれて困窮していくのを隠しながら名家との繋がりを頼りの綱に、娘を着飾って舞踏会へと向かわせる家も多い。彼らは華族としての誇りを何よりも尊重している。源田の両親とて同じである。

「恙(つつが)なく頼む」
「はい」

 固(もと)より華族社会に腹の底から馴染むことの出来ない源田にとって、演技とは日常茶飯事である。両親の言いつけを守ることもそれに準じている。ようやく館の玄関前に馬車が着き、父を先頭にして下りていく。
 大輪の菊を掻き分けるようにして進み行けばそこは別世界である。貴族社会の儚さを客観的に眺めている源田にとってその世界は、消滅する間際、星の輝きにも思えた。


 かの令嬢は源田の到着のすぐあとにやってきた。父親同士の会話の中、社交辞令的な笑みを浮かべながら彼女の手を取る。初々しさと若い色香が混ざり合い、元々の整った顔に愛嬌をもたらしていた。この容姿ならばわざわざ自分が導かなくとも、他の家の男子が挙って侍立(エスコヲト)を買って出ただろうに。女性受けのよい、かつ相当の名家の子息である源田の後からでは、その勇気もひとしおとなるだろう。

「兄は今日が初めてですのよ。ずうっと、舞踏会にお出にならなかったのです」
「なぜでしょうか」
「お兄様は舞踏よりも武闘の方がお好きですから」
「お話が合いそうです」
「あら」

 くすくすと笑い声を漏らしながら、この日のために誂えたのであろう衣装(ドレス)を引き、彼女は源田の導きに従った。自然な笑みとは反した、源田は自分に貼り付いている笑みを意識した。愛想笑いに慣れなければこの時代、この世界で生きていくのは不可能だった。少女であるその人の頬は、薄く臙脂(べに)を塗られた唇と共に赤く色付いている。匂い立つ乙女趣味(乙女チック)な魅力に広間が注目し始めた頃、流れる音楽の調子を読んだ源田は彼女に向き直って義務的なその言葉を吐いた。
「一曲、おどっていただけませんか?」


 宴も酣に差しかかった頃、源田の手を離れていったかのご令嬢は父の挨拶回りに付き合い、人付きのする笑みを浮かべていた。誘いを丁重に断りながら中心部を抜け、壁際へと移った源田は会場の様子を眺めていた。その時不図(ふと)、周囲の仄かなざわめきを耳にした。今到着したのだろうか、その人は優雅に絨毯の上を進んでいく。身のこなしから表情から、しゃなりと滑らかに、かつ柔軟な強さを漂わせて、彼は周囲を見回したあと、真っ先に既に壁の花と化した。
 その人は軍服を身を纏っているものの、年頃は源田とそう違わないように見える。物々しい眼帯を右目に付け、大群の中でも一際目立つ薄氷色の髪をしている。月光に照らされた白百合のような美しい青年は、周りの人間を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。彼自身、他(ひと)との関わりを望んではいないのだろう。扇子を口許に話し声を隠す婦人たちを確認することもできず、源田は凝(じ)っとその人に見惚れていた。

 彼は自分と同じである。そう確信的な直感を抱きながら、源田は足を踏み出していた。絨毯に吸収されていく足音を向けると、その人は警戒したような眼差しを返してくる。

「一緒に、おどっては下さいませんか?」

 手套をつけたままの手を取り、自然と浮かんだ笑みで言葉を口にすれば、愚弄されたのかと思ったらしい相手は見る見る勃(むっ)とした顔になっていった。しかしそのようなことは今の源田にとって何の意味もなかった。ただ、彼は自分と同じく、この華族社会に馴染めず、また、これからもその望みがないことを、同類の勘として理解している、それが何より重要である。
 この下らなくて、それでも踏み外せない舞台の上、共におどる、その仲間意識。そしてそれ以上に、強い、慕情。この先、幾千の美しい貴婦人と出会ったとすれ、彼との出逢いの感動には到底及ばない。今、視覚から支配され、聴覚、嗅覚と源田の感覚は彼に恋していく。

‘一緒に、この舞台を、おどってはいただけませんか。’

 後に聴く彼の名前を刻みつけながら、源田の瞳は今、生き生きと輝いていた。


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