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 両親が共働きだったうちでは歳の離れた兄が親代わりになって何かと俺の世話を焼いてくれていた。小さい頃から自己防衛の凄まじかった兄の庇護を、必要以上に受けて育った俺は思春期になり、その重さを嫌と言うほど感じていた。確かに、大学生になる現在まで、兄の容姿は完璧なまでに常に整っており、他を圧倒する存在感を有していたので防衛本能が凄まじくなるのは自然の成り行きなのだろう。

 しかしながらそれに俺を巻き込まないでもらいたい。幼いときなら兎も角、今はもう中学生の運動部だ。自立しようとする意志を真っ向から否定して断固として俺を手放そうとしない兄はそう、極度の、重度の、救いようのないブラコンである。

「家に帰って衰弱するなんて聞いたことがないぞ」
「寮に入ったのはいいが、久々に帰ると大騒ぎだからな……」
「相変わらずだな」
 くすりと笑った源田はショウウィンドウを背景に目的のスポーツショップの看板を確認していた。新しくできたらしいそこはビル数階建ての全てでスポーツ用品が売られており、最上階では様々な種類のシューズや道具がオーダーメイドできるようになっているらしい。自分の足にあったスパイクを作るのが帝国学園レギュラー陣の原則だが、成長期の俺たちは幾度も買い換えなければいけない。

 歩みを再開する源田に続いて、相手の顔を見上げる。長期の休みに入ってから久々に会った源田はほんの少しだけ大人びた印象になっていた。

「お前は、元気そうだな」
「母親の手料理っていうのはやっぱりいいものだぞ」
「ふうん……」
「お前の所は今回も出張なのか?」
「そう、ドイツだってさ」
 親がいないことには慣れている。母親の手料理なんて味も思い出せない。お袋の味、というものは俺にとって兄の味と等しい。兄は料理すら完璧にこなしてしまうが、その手料理を振る舞うのはどうやら俺にだけらしい。しかし、どんなに美味しい料理でも、親の料理とはまた違うのかも知れない。そんなことを呆然と考えていると、視線をこちらに向けていた源田が口を開いた。

「なら家に夕飯を食べに来るといい」
「えっ……いいのか?」
「ああ、その方が、俺としても嬉しい」
 独特の、口角を上げるだけの仄かな笑みを浮かべた源田は俺の返事を聞いて頷いた。源田の家族は温かくて好きだ。その面々の顔を思い浮かべていると、隣から声が上がった。

「どうした?」
「いや、……あれ……」
 見覚えのある顔が知らない女性を連れて車道の向こうの道を歩いている。その女性に腕を抱き付かれている、顔見知りの相手は何を隠そう源田の兄である。女連れであることに源田が驚いているのは何より、兄が心を寄せている相手が、あの女ではないことを重々承知しているからである。

 源田の兄、幸一郎さんは俺の兄と同じ大学に通っている。幼い頃からの腐れ縁だとか言う二人の関係は、おおよそ傍目からは不思議に映った。物心ついた頃から幸一郎さんはうちの兄に想いを寄せていたらしく、長い間一筋にアプローチし続けている。自分と俺以外には絶対零度の冷たさを携えている兄は洟も引っ掛けず、その度に冷たくあしらっているが、一向に諦めようとしなかった幸一郎さんがまさか、今更になって兄を諦めるとは考えにくかった。

「どういう風の吹き回しだろう」
 あの様子は付き合っているとしか思えない。源田に見覚えがないと言うことは親戚のお姉さんとか言うお決まりのパターンではないようだ。幸一郎さんは絶世の美男子、といったていなので、男からは憧憬を集め、女からは圧倒的な好意を寄せられるような人間である(ちなみに兄は男から異常なまでの好意を寄せられ、女からは最早恐怖に近い目を向けられている)。

 彼女の一人や二人、いない方がむしろ世間的には不自然なのである。

「幸一郎さんもとうとう、兄さんに愛想を尽かしたのかな」
「さあ……でも何年もあんなに想い続けてきたのに、そんなに簡単に諦めるものか……?」
 もう見えなくなってしまった姿を追うように、向こう側の道路の先を見遣りながら呟く。消化しきれない思いが俺たちの中にわだかまっていた。

***

 着信履歴十件、メール五件。現在新たな着信がバイブを通じて俺の耳に届いている。源田の家で風呂をいただいていた俺の、その数十分たらずの間にここまでの猛攻。相変わらず兄は凄まじい。

「もしもし」
『次郎、今どこにいるんだ?「ご飯は食べてくる」ってだけのメールじゃ分からない』
「あー……源田の家」
『やっぱり!』
 普段、帝国の他のメンバーと食事に行くとか、遊びに行くとか、そういったことには寛容なのに、兄は源田とのことに殊更厳しい。今も通話口の向こうから蒼白になっている様が窺える。

『早く帰ってこい!あのバカに毒される前に早く!』
「幸一郎さんはいないよ」
『出掛けているのか』
「そうみたいだ。夕食も外で食べてくるらしい」
『…………』
 昼間見た情景を思いだし、兄の沈黙がそれに関することなのかと深読みをしたが、すぐにそれが間違いであると分かる。

『それならすぐに迎えに行く』
 こちらが言葉を返す前に兄は電話を切ってしまった。通話時間が表示されている画面を呆然と見つめていた俺は、風呂から上がったらしい源田が部屋に戻ってくることで我に返った。

「兄さんが来るって」
「それじゃあ、もう一食分増やすように言ってくる」
 落ち着き払っている源田は踵を返し、階下の母親の元へと向かっていった。
「そういうことじゃあ、ないんだけどな……」

 十数分が経過して、源田の家のインターホンが鳴った。家から来るにしては早いので、もしかすると予感していた兄は近場にいたのかも知れない。目上の女性、しかも飛び切りの美人である源田の母親には流石に傍若無人な態度をとらないものの、兄は真っ先に源田の部屋の、俺たちの元へとやって来た。

「次郎、帰ろう」
「これからご飯だって。兄さんの分も用意できてるらしい」
「悠長なことをしていたらあのバカが帰ってくるだろう!」
「今日は遅いと思いますよ」
「どうしてそんな確証がある!」
 口を挟んだ源田に掴み掛かる勢いの兄は結局、幸一郎さんのことが苦手なのかも知れない。まああれだけ懲りずに何度もアプローチをされ続けたらこうならざるを得ないのかも知れないが。
 源田の視線を受けた俺は、向き直って兄に告げる。
「昼間、彼女といるのを見かけた」
「彼女?」
「ああ、幸一郎さんもとうとう、兄さんを諦めたみたいだ」
「次郎、お前はまだまだ無邪気な子供だと俺は今再確認したよ。やっぱりまだ目が離せない……」
「?」
 大袈裟な言葉を使う兄は、いつものように抱き付いて頬をすり寄せてくる。羨ましそうな顔をしている源田を睨みながら、兄の次の言葉を待つ。

「いいか、次郎、バカは死んでも治らないんだ。愚かなことにな」
「どういう……」
「アイツが俺以外のものを愛するなんてこと、アイツが死んでも有り得ない」
 どこから来るのか全く理解できない、最大級の言い切りで、ずばりと切って捨てた兄の顔にはまだ鬼気迫った表情が浮かんでいた。

「帰ろう、次郎」
「折角お前の分の飯があるんだ、喰って行けよ一郎」
 突如開かれた扉の向こう、ニコリと微笑んでいるその人は、昼間見たままの服装でそこに立っていた。

「あれ?いつ帰ってきたんだ?」
 源田の声に、幸一郎さんは嬉々と答える。

「おふくろに電話したら一郎が家にいるって言ってたから、全速力して帰ってきた」
 非常にいい笑顔である。半ば青ざめている兄が俺を抱きながら幸一郎さんに蹴りを入れた。

「きもい!死ね!」
「お前も言ってただろう、死んでも俺はお前を愛してる」
 本当に幸福そうに言い放つものだから、俺も源田も呆気にとられている。

「なあ源田」
「ん?」
「兄さんって、気付いてないだけで本当のところは幸一郎さんのこと……」
「皆まで言うな、佐久間」
 源田の母親が夕食に呼ぶのが階下から聞こえるまで、二人は口論を続けていた。


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