17



 その頬に刻まれた傷を愛おしく思うときと、憎むとき、それは、南雲が主観的なのか客観的なのかの違いでもある。

 南雲はよく厚石を外へ連れ出した。厚石は病弱である。外で活発に動き回るより、中で床に伏せっている時間の方が長いような少年であった。

 真っ白な、色素が抜けたものとはまた違う、その髪の色と同化しそうな、白皙の肌が南雲は嫌いだった。

 南雲は不思議な観念をもった子供であった。その頃から、彼の中の好き嫌いは細分化されていた。

 南雲は厚石の蒼白い肌や、薄い胸板、細い脚や腕、主張をしない、非意欲的で争いを好かない弱気が嫌いだった。しかしそれ以上に、自己犠牲の精神が強く、底知れぬ思いやりをもち、優しい微笑みを向けてくる厚石が好きだった。彼から漂う、消毒薬の香りは嫌いだが、体調のよいときに駆け回る彼の溌剌な香りは好きだった。

 誰よりも近くにいるのは、彼の傍が誰よりも心地よいからである。外遊びが好きな彼は厚石のベッドの脇で過ごす、不安な時間が嫌いだった。苦しげな息を吐く、厚石の痛みが嫌いだった。


 何日も雨が続いた。低気圧さえ厚石を苦しめるようで、その間彼はずっと高熱に喘いでいた。南雲はつききりで傍にいた。周りも、また薬を飲む厚石も、傍にいるのはいけないと言った。流行病である。健康体でもかかると厄介なものだった。しかし南雲は断固として厚石の傍にいた。暇潰しに詮無い話を聞かせたり、絵を描いたりを飽きながら繰り返した。意識の混濁する厚石が、傍にいる南雲の姿に何ともいえぬ安堵を浮かべることを、南雲は気付いていたからだ。

 快晴と共に厚石は回復する。だが、直後に南雲が高熱を出した。涙目の厚石が浮かべる、いつもより蒼白い顔が、南雲は嫌だった。数日間かけて闘った厚石とは違い、元々人より健康な南雲は一日で熱も、焼けるような喉の痛みもひいていた。大事をとるべきだと宣う厚石の心配を振り切って、南雲は相手と外へ飛び出した。

 いつぶりかの、厚石と共有する世界はあまりに魅力的だった。曲がりくねった木も、咲く花の色も、温かく二人を迎えた。南雲はすこぶる気分が良かった。その、上機嫌に絆されながら、厚石は南雲に連れられて、裏の神社から抜けた、原っぱにやって来た。

 かねてから、木登りを教えてやると豪語していた南雲が、軽々と背の高い木に登っていくのを、厚石は憧憬の目で見つめている。彼にとって南雲は、かけがえのない友人であり、同時にヒーローなのだ。彼の有能な肉体はいつでも、羽を携えているかのように軽やかだ。

「こっちの、のぼりやすいのにしようぜ。みてろよ、ここにあしをやって、こう」

 少し横に傾いているような、低いその木は、コブや枝がいくつもあり、確かに初心者には打ってつけに思われた。器用に、一番下の枝に座った南雲に手招きをされ、厚石はゴクリと唾を飲んだ。先ほど見せられた手本通りに、慎重に登っていく。南雲は天性の運動神経で、何でもこなし、厚石は自分の限界をはかりながら慎重に物事をこなすタイプである。腕の力を振り絞り、何度か失敗しながらようやく南雲のいる枝まで登り切った。表情を明るくしながら、顔を上げた厚石は、南雲の顔から血の気が引いているのに気付いた。枝の先の方に、またぐように座っていた彼は汗をかき、虚ろである。危ない、と咄嗟に思い、厚石がその枝に乗る。慎重になどと言っている場合ではなかった。

「はるや!」
 その手を掴んだのは奇跡に近かった。バランスを失った彼は落下していく。自分では支えきれないと判断した厚石は、迷わず、庇うように一緒に地面へ落ちていた。

 南雲は意識が朦朧としていた。少しの違和感は感じていたのだ。しかし、久々の、厚石との時間を寝て過ごすなど考えられなかったのだ。少しの無理が祟って、瞬間的に全身が冷え切った。反して脳にだけ異様な熱を感じた彼は、落下の衝撃を、壁一枚越しのように受けた。痛覚が意識のぼやけに阻まれている。だが、次の瞬間、脳みそまでもが冷え切った。

「はるや、だいじょうぶ!?あたま、うたなかった?」
 短い呻き声のあと、そう叫んだ厚石が、何とか身を起こして、南雲を覗き込んだ。その瞬間、南雲の頬に生温かい雫がかかった。

「しげ、と…」
「よかった」
 はにかんだ彼の頬から、真っ赤な血液が流れ出ていた。痛みが鮮明になる以上に、焦りが南雲を支配していた。


 その時、服に引っかかり、一緒に落下した枝の先が、運悪く厚石の頬を切っていた。他の打撲数カ所は軽傷だったが、頬の傷は消えなかった。普段泣かない南雲の大泣きに、厚石はいつまでも困った顔をしていた。
 今でも鮮明に蘇る。この傷は、自分がつけたようなものなのだ。手の平で雑になぞった南雲は微妙な面持ちをしている。ネオジャパンの交換ノート(練習内容や意見交換、日記などをそれぞれが書いて回しているらしい)だとかいう、薄汚れた一冊から目を上げた厚石はジッと南雲を見返した。

「治んなかったな」
「晴矢の大泣き記念だな」
「……」
「そんな顔、するなよ」
 苦笑が酷く優しく見えるのは、厚石が南雲に向けているからと、南雲が厚石を見つめているからである。

「ごめん」
「なんでお前が謝ってんだよ」
「俺が勝手にしたことでさ、晴矢がずっと、嫌な思いしてるんだよな、だから、ごめん」
「バッカじゃねぇの?!」
「うん、ごめん」
「次謝ったら殴る」
「あとさ、晴矢がこの傷に罪悪感感じてるのが嬉しいのと、晴矢の中に俺が強く残ってるのが嬉しいのもごめん」
 指先が重なる。包み込むように南雲の手を掴んだ厚石は、朗らかに口角を上げた。

「殴らなくて、よかったのか?」

 みるみる顔を染めていく南雲に本当に殴られる前に、厚石は先手として相手を胸に抱いた。幼い頃と同じ、高い体温が同化していく。この瞬間が、南雲は何よりも好きなのだ。


戻る
Top