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 そろそろ寝ようかと宿題のプリントをまとめていた、ちょうどその時だった。マナーモードにしたままの携帯が机の上で音をたてた。心臓をドキリとさせながらも、サブ画面に映った名前を確認して息をつく。通話ボタンを押せば聞き慣れた声がぼそりと呟きを落とした。

『風丸……眠れない』
 平坦すぎる口ぶりに耳を傾け、サイドに置かれているデジタル時計を確認する。
『そっち行っていいか?』
「佐久間、今家族は?」
『いない』
「じゃあ俺が行くよ」
『……ああ』
 少しだけ不安げな色を含んで、喋る佐久間に「あとで」とあやすように言って電話を切る。今ならまだ電車が出ている。急いで着替え、必要だと思うものを袋に詰め込んで玄関へ向かう。手袋やらコートやらを取りに行く関係でリビングで立ち寄ったときに母親に見つかったので、ついでに「佐久間の家に行ってくる」と伝えた。両親共に忙しい佐久間の家に行くことがよくあったので、母親は特に言及するでもなく、ただ、買ってきてあった梨を持っていくように言っただけだった。
スニーカーを履いて改めて袋を持つと少し重くて、少々念を入れすぎかとも思われたが、整理する暇もなかったので足早に家を出る。腕時計が差すところによると早歩きで駅に向かえばギリギリ終電に間に合いそうだった。

 タッチの差ではあったものの、無事に電車に乗ることができたので数駅先の佐久間邸への最寄り駅までぼんやりと相手のことを思っていた。雷門と帝国の浅からぬ縁の中で、佐久間と会話をする機会があり、好きだったサッカー選手や、好きなホビーなどの傾向が一緒だったために意気投合し、今では前記にあるように泊まったり泊まられたりする仲だ。深く切り込めばそれ以上の関係ということになるが、ふだんあまり人に頼ることのない佐久間との関係は親密になればなるほど、意外な一面が浮かび上がってくる。甘えることなど滅多にしない佐久間が、時折、ひどく子供じみた我が侭を言うのもその一つである。戒めなければならないようなことでも、いつもは理性的で我慢強い面を見ているのでどうしても甘やかしてしまう。惚れた弱みでもあるのだろう。
 電車は地上を走るものだったので、地下鉄よりも揺れが大きかった。
 流れる景色を呆然と見ながら、様々なことを思い出していると目的の駅に到着していた。ひとけのないホームから、改札へと向かう。いくらか明かりがある辺りを見回すこともなく、体が覚えている方向へ歩き出したとき、券売機の横の柱に背を預けている相手を見つけて瞠目した。

「風丸」
 驚いたのはその軽装だ。もう初冬の頃である。防寒具をつけもせず、部屋着に下をジーンズにしたままといった状態だった佐久間は案の定冷え切っていた。

「いつからいたんだ?」
「風丸と電話したあと、来たから……」
「家にいればよかったのに、危ないし」
「早く会いたかった」
 恥ずかしさを堪えるようにぼそりと言う相手に、心配を含んだ呆れの感情も霧散してしまう。手によく合う、革製の手袋を佐久間に差し出すが、彼はそれを受け取らなかった。引かない俺にとうとう片方だけ受け取って、もう片方の手を繋ぐ。

「こっちの方が温かいだろ」
 実に合理的だが、こちらの心には刺激が強い。恋人繋ぎをした手が熱を奪い合うのを感じながら、佐久間の家へと向かった。

 相変わらず広すぎる家に圧倒されながらも、少し散らかっているリビングへと通された。週一でハウスキーパーサービスを入れているらしいので、不衛生ではないが物が散在している。出しっぱなし使いっぱなし、何か作業をしていたのか宿題をしていたのか、資料やらPCが机の上を占領していた。

「夕飯は?」
「食べてない」
「やっぱり……」
「明日の練習はないからな」
「そういう問題じゃない」
「冷蔵庫に何もなかったんだ」
「……やっぱり」

 持ってきて正解だったと袋の中からタッパーを取り出す。興味津々で見つめている佐久間は食欲はあるくせに変に我慢強く、料理をするくらいなら食べないと言った怠惰さもある。

「うちの夕飯の余りだけどいいか?」
「誰が作ったんだ?」
「今日は俺。文句言うなよ」
「嬉しい」
 素直にはにかまれるとどうしても落ち着けない。こういう状態の佐久間を誰にも見せたくないと感じながら、目を逸らしてキッチンへ向かう。兄妹が多いのと、歳の離れた弟がいる関係で、よく家事を手伝わされていたので大抵のことはこなせるようになっているのを、最近になってやっと感謝するようになった。

「机の上片付けとけよ」
 そう言いながら皿を出し、更に台ふきを絞ってガサガサと音を立てている佐久間の方へと向かう。彼は酷くおおざっぱに机の上の物を床に落としていた。結局台ふきを手渡し、それを代わってまとめる羽目になった。

 少し遅めの夕食を食べ終え、食後の梨も堪能した佐久間は既に眠そうだった。夕食を摂っていなかったから眠れなかったのではないかと思いながら、佐久間に甘い身では何も言えない。ソファーで寝そうな佐久間を起こし、歯を磨かせる。洗い物まで済まして、うつらうつらとしている佐久間を部屋に送り届ける。自分はどうしたものかと思考していると、着替えを済ませた相手に裾を掴まれた。

「着替え、これ使えよ」
 タンスから取りだしたものを投げてくる。それを受け取り、着替えを済ませる頃には、どこかに消えていた佐久間が戻ってきた。泊まるときは大抵そうなのだが、今回もベッドで寝る佐久間の横に布団を敷いて寝かされるらしい。ずるずると敷き布団を引きずってきた佐久間を手伝って、他のものを運び込む。それを綺麗に並べたというのに、佐久間は足で布団を追いやった。ベッドから距離ができるように操作されたことで若干傷ついたが、彼は次の瞬間、ベッドに敷き詰めていた布団一式を乱雑に落として二つを並べた。角の方が曲がったりしてはいるが、なんとか並べられたそこにダイブして、佐久間が手を引く。気まぐれだなどと思いながら、好意に甘えさせてもらうことにした。電気を消した中、窓から仄かに入り込む街灯の光が夜目になり始めた瞳に相手を映す。わずか、イタズラっぽい笑みを浮かべているそのひとは、目と鼻が付きそうなほどの距離にある。二つ布団を並べる必要はなかったのではないかというほど。眠さで目尻が下がっている佐久間は、いつの間にか眼帯をはずし、双眼を俺に向けていた。

「おやすみのキスは?」

 自然目が細くなるのを感じた。内緒話のような言葉を口内で閉じたあと、相手が再び目を閉じるまで見守る。明日になって誰の助けもいらないという態度を取り始める佐久間に戻っても、また数日後にはこうして甘えたな一面を、誰でもない、俺だけに見せてくれるだろうと優越感に浸りながら、早くも寝息を立て始めた相手の頬を撫でた。

「おやすみ、甘えん坊」


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