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 疲労しきった体で汗を流し、その大浴場を出る。大抵の者は夕食の前に風呂を済ませてしまうし、夜の練習に行く者はこの時間まだ宿舎には帰ってきていない。ゆっくりするには最良の時間なのである。大浴場を出た直ぐ先には談話室があり、飲み物などが置いてある。そこでスポーツドリンクを購入した不動は視界の端に映った薄氷色の髪を認めて、上半身で若干の死角にあった相手を覗き込んだ。柱の向こう、いくつかあるソファーに座っている佐久間、そして驚いたのはその佐久間の膝に頭を乗せている鬼道だった。
「!」
「不動?」
 動揺が大きかったためか、鬼道に気付かれてしまった。驚いたことに二人は平然としていた。起き上がった鬼道は佐久間に短く礼を言うと、唖然としたままの不動へ再び視線を移した。

「どうした、そんな所に突っ立って」
「お前ら、なに……」
「耳掃除だ!」
 明るく言い切った佐久間は耳かきを不動に示した。そのことに眉をひそめた不動は浮かんだ感慨のまま「お前らは本当におかしい」と漏らした。疑問符を浮かべている二人にとっては常識なのだろう。

「俺はもう行くが」
「何だよ」
「お前もしてもらったらどうだ、よく聞こえるようになるぞ」
 そんな捨て台詞を残して談話室を後にした鬼道は恐らく夜間特訓中の円堂達の様子を見に行ったのだろう。残された不動は居心地の悪さに立ち去ることもできずに佐久間を盗み見た。佐久間はジッと不動を見上げたまま静止している。
「………」
「………」
 不動と目が合った佐久間はソファーを叩いた。座れと言うことなのだろう。それでも一向に動こうとしない不動に業を煮やし、立ち上がった佐久間は相手の手を引いた。

「俺はいい!」
「鬼道がやってもらえって言っただろ」
「てめぇの世界はアイツでできてんのか!」
「?」
 平然と頷いた佐久間に力を抜かれる。そのままソファーに倒された不動は半ば無理矢理佐久間の膝に頭を乗せさせられた。佐久間も風呂から上がってそれ程経っていないのだろう。仄かにボディソープの甘い香りが短パンの間、太股の温もりから立ち上る。不動は眩暈がした。

「じっとしてろよ」
 今抵抗したら危ないことを理解した不動は諦め半分でできうる限り力を抜いた。佐久間がティッシュで拭き取った耳かきのへら状の部分を使い、不動の耳掃除をしていく。慣れない感覚に再び体が強張るが、佐久間は慣れた様子でキビキビと掃除を進めていった。耳垢を掻き出され、綿棒で拭われ、最終的に息を吹きかけられる。その行為に完全に参ってしまった不動は相手をはね除けそうになった。

「次反対な」
 外側を向いていた頭を、体を反転させるように内側へ倒した佐久間は、相手の耳を掴んだ。佐久間から漂う、彼独特の芳香が息遣いの中で胸の中へ侵入してくる。半ば放心状態の内にもう片方の耳掃除を終えた不動は自分の動揺に唇を噛んだ。

「終わったぞ」
 もう一度息を吹きかけた佐久間は不動の耳を再び引っ張った。どうしてこいつは自分の行動を自覚しないんだ、と八つ当たりに近い怒りを感じている不動が一向に頭を上げないのを見つめた佐久間は飄々と「ホームシックにでもなったのか?」と言い放った。

「はァ?」
 ようやく不動が顔を上げる。上半身を起こして不貞不貞しく隣に座っている自分を真剣な眼差しで見てくる相手は、実は天然な所があると知ったのは親しくなった最近だった。
「お母さんのことでも思いだしたか?」
「あのな……一般の家庭では親子で耳かきなんてしねえんだよ」
「まあ家もしなかったしな」
 言い放った佐久間は側のゴミ箱へ丸めたティッシュを放り、道具を片付けた。

「鬼道のために始めたんだ」
 最近ようやく警戒心を解いた佐久間が、こうして不動に笑いかけてくることはよくあった。その変化が正直嬉しいとは感じるものの、鬼道のことではにかむような笑みを見せられると面白くないのも事実だった。思わず相手を叩いてしまった不動は相手がむくれていくのをまじまじと見つめていた。

「何するんだよ!」
 佐久間がこうして有りの侭の不平不満をぶつけてくる相手が、自分だけだということに優越感を覚える辺り、もう救いようがないと自嘲すら落とせなかった。未だ鼻をくすぐる相手の香りと耳の熱さに、舌打ちした不動は、佐久間の言葉を聞き流した。


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