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 ヒートは茹だるような暑さの中、上がってからしばらく経ってしまった雨を、再び恨めしく思った。朝方降ったその雨は、日中の暑さに湿気という凶器を与え、縁側で鳴らない風鈴を眺めているヒートをじわじわと追い詰めていく。こんな暑い日にエイリア学園の完備された空調から出る者はそうそういない。ヒートがいるのは、プロミネンス専用の練習場を地下に隠した、日本建築の広い家である。カモフラージュのために建てられたとはいえ、その民家は立派に使えるようになっている。今はもう体の熱で熱くなってしまった板張りの廊下に座して、石造りの塀に覆われた境に目をやる。昼過ぎの、殺人的な直射日光は、人が出歩くのを制限するため、ヒートの耳に届くのは、暑さを増長するような蝉の鳴き声だけだった。汗は薄い膜となって体中に張り付いている。こんな中で、暑さを諸共しないバーンは奥の座敷で寝息をたてていた。ヒートに背を向ける形で、座布団を二つ折りにして枕代わりに、畳の上に直接寝転んでいる。熱中症にならないかと不意に心配になっては、あいつはそんな柔じゃないと思い直す。
 バーンの行動について、ヒートはいちいちその意味だとか理由を考えようとはしなかった。ただ、付いて来い、の言葉を待っていることはただ一つの事実としてヒートの意思となっている。病床に伏していた頃から、ヒートの拠り所はただ一つ、バーンの傍だった。成長とともに丈夫になっていった体は、仲間と駆け回る元気を与えたが、塗り固めても所詮病弱なままの心はバーンの依存にすがり続ける。昔から追いかけることしかできなかった。実力の差は歴然としている。それでもバーンはヒートをそばに置いた。ヒートは意味も理由も聞かずに甘んじた。現状は常にそうである。

‘なつははるやの季節だ’

 昔口にした幼い喜びを再生して、ヒートはバーンが起きるのを待った。





「貴様は下らない情に流されすぎだ」

 淡々とした、独特な口調で言い放った相手に振り返ったバーンは、途端不機嫌な顔になった。
「馴れ合いを棄てきれない貴様は、それまでということだ」
「…‥お前に指図するいわれはねぇ」

  相手が暗に含めたその意味を読み取ったバーンはそれでも、何の躊躇もなく鼻を鳴らすばかりだった。それを受けたガゼルは苛立つでもなく、ただ見下すよりも呆れるような雰囲気を漂わせた。こんな、過去を棄てきれないような男と自分の実力が拮抗するはずがないとでも言うように。
 長い廊下は無機質に広がり、自然の温かさを感じさせる施設で育った彼らが順応するのには少々時間がかかった。無駄な装飾は何もなく、必要な機能と最低限の造りで洗練されたその基地は、やはり冷たい印象を受ける。無数に広がる自動扉の一つが開く音で、言葉を止めたガゼルは出てくる人物を確認することもなく踵を返した。最初から分かり切っていることだ。再三呆れて肩をすくめたガゼルは、トーンの変わった話し声を背後に角を曲がった。


**


「あいつは下らない情に流されすぎだ」

 淡々とした、独特な口調で言い放った相手に振り返ったヒートは、途端萎縮して固まった。
「そう思わないか」

 そんな言葉を放ったガゼルが、不思議そうな顔をヒートに向ける。‘あいつ’が誰なのか、流されている情は何なのか、瞬時に理解していたヒートは視線を揺らして相手を見つめていた。ガゼルは純粋に理解できないのだろう、バーンがヒートを側に置きたがる理由が。そして気にくわないのだろう、側に置きたいがために、ヒートを自分のチームに入れるような真似をして、それでもダイヤモンドダストとプロミネンスの実力が均衡している事実が。ヒートは皆よりサッカーを始めるのが遅かった。それどころか外に出られるようになったのも、自由に動けるようになったのも皆よりずっと遅かった。エイリア石を使っても、基礎的な部分で遅れているヒートでは、マスターランクには届かない。当初同じ練習についていくだけでも必死だった姿を、ガゼルは知っている。チームに馴染んできた現在でも、未だ抱え続けるバーンへの劣等感は容易に拭いきれるものではない。バーンは晴也であるころから茂人のヒーローだった。そんな過去ゆえ未だ彼はバーンをチームメイトとして認識する事が出来ずにいた。

「気に入らない」

 吐き捨てるように言われて息を飲んだヒートに、小首を傾げたガゼルには悪意などないのだ。しかし痛む胸は取り繕う言葉も表情も奪ってしまう。空調管理がしてあるにも関わらず、先日の、汗が薄い膜となって体中にはりつくような感覚が蘇ったヒートは逡巡したまま視線を落とす。
「ヒート!!」
 そんな時、荒々しい口調でヒートを呼んだバーンが、向かいの階段から降りてきた。
「早く来い!」
 我に返ったヒートが軽い会釈をして去っていくのを、僅か見送ることをしたガゼルは自らも、チームメイトに呼ばれる声に応えて廊下の向こうへ消えていった。


***


「バーン様、俺は……」

 少し前を歩く後ろ姿に、自分でも驚くほど弱々しい声がでてしまったヒートはその先を言うのを迷った。振り返り、真正面から見つめるバーンは僅か怒りを含んだような表情で、冠を曲げている。こんな顔をさせたかった訳ではない。拳を握りながら流れる沈黙が体を刺すのを耐える。

「俺は、あなたの傍にいても、いいのでしょうか」

 溜めていた、堪えていた思いを吐き出すように言い放った後、バーンに視線を戻したヒートは、先程と変わらず膨れっ面をしている相手を認めた。バーンは相変わらず、誤解されがちな厳しい瞳でヒートを見つめる。その鋭い瞳が怖ろしいと感じたのは、これが初めてのことだった。

「てめぇは昨日の夜、何やってた」

 予想に反する言葉を放ったバーンを前に、少々遅れて昨日のことを回想した。昨日は一日、練習が休みだったので昼間はバーンに付き合い、夕食後は、
「一人で練習してたんだろ?」

 皆についていくため、バーンの傍に堂々といるため、ヒートは自主練習することが日課となっていた。出だしが遅れた自分は人の二倍、三倍の努力をする必要があると感じていたからである。

「俺が傍に置きたいからってだけでお前を同じチームに入れると思うのか?」
「それは………」
「ふざけんな!俺はお前がそうやって追い付くのを知ってる。努力するのを知ってる。事実お前は記録を残してるんだろ?」

 定期的に行われる記録会でデータをとられた時、マスターランクとして恥じない数値を、ヒートはきちんと出していた。そしてプロミネンスのメンバーは一人も、ヒートを落ちこぼれだとは思っていない。どれだけ続けてきたか、そんなことを乗り越えてヒートは追いつけることに、バーンは賭けていた。それに応えながらも、ヒートの心は‘以前’に置き忘れている。
バーンは小さい頃、同じように身寄りのないヒートが、一人病床で施設の子供達が元気に駆け回る姿を見ていたのを知っている。無償で愛情を注いでくれる存在がないのは、病気がちで皆から隔離されているヒートには、さぞ辛かったであろうことも想像に難くない。それでも茂人は笑っていた。晴矢が部屋を訪れると年上の青年のように迎え入れて笑った。バーンはヒートが病気という強敵を打ち負かしたことを知っている。それは、何も考えず何も経験せず、ただ成長した者にはないものをヒートが得たという事実である。それゆえに、バーンはヒートが自分を疑うのが許せない。

「もう二度と言うんじゃねえ!」

 バーンの怒りへの恐怖はいつの間にか消えていた。未だ不機嫌なバーンとの距離を詰めたヒートは、眉を寄せる相手を抱き締めた。驚いた様子のバーンは明らかに動揺している。確かに、ヒートはらしくなかった。

「晴矢、はるやごめん、ありがとう」

 バーンが好意を素直に受け止めることは苦手だと知りながら、ヒートはそんな言葉を口にした。またモゴモゴと文句のような照れ隠しを呟くバーンの、夏の暑さのような体温を感じながら、ヒートは潤んだ涙腺を抑えるように瞳を閉じた。


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