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「またあの愚弟の所へ行くのか次郎」
 靴べらを使っても上手く運動靴が履けなかったので、やむを得ず玄関の段差に腰掛けて運動靴の靴紐を結んでいた次郎の後ろ姿へ、一郎がこんな苦そうな言葉を発した。風景画の手前、階段の向かい側の壁に寄り掛かった一郎は腕を組んだまま、一向にこちらを向いてくれない、唯一無二の宝物を眺めるばかりだった。

「兄さんも兄さんで、源田の兄貴に誘われてるんだろ?」
「あんな家畜のために俺の時間を割くなんて考えられないな」
「こんなんなのに、幸一郎さんはどうして兄さんのこと好きなんだろうな」
「関係ない!俺は次郎の話をしているんだ!」
 突然駄々を捏ねるように言い出した一郎は、我慢ならないとでもいうかのように弟に抱き付いた。頬をすり寄せられても冷静に、反対の靴紐を結ぶ作業をしていた次郎は慣れっこなのである。一郎は世界で唯一、一人だけ弟である次郎に甘い。そしてかつ、人間への愛を全て弟に捧げてしまったのではないかというほど、世界に対して厳しい。特に幸次郎の兄である、源田幸一郎に対しては格別だった。
「次郎!せっかくの休日なんだから俺と一緒に過ごそうって言ってたじゃないか!」
「俺は源田と約束したって言ってただろ?」
「源田という言葉は俺の辞書にない」
「ああもう兎も角、俺は行くから。戸締まりしといて。あと離れて」
「絶対に嫌だ」
「兄さん!」
「次郎、いいか、人間は皆、躾のなっていない肉食獣なんだ。きちんと調教できるスキルがないのに、お前みたいな絶好のラム肉が町を歩いてみろ、大変なことになる」
「兄さんはどこの時代のどんな国の人間なんだ?」
「だめだ、外出は認められない。ただし俺とショッピングなら許す」
「一緒に行きたいならそういってってば」
「ただしあの弟はいらない」

 靴べらで器用に靴を履いた一郎は、既に準備万端だったようで上着のポケットから鍵を取り出すと、次郎を先に出して戸締まりを終えた。
「待ち合わせはどこなんだ?」
「どうせそこを避けて歩こうとするんだろ?」
「?勿論」
 額に手を当てて溜息を漏らした次郎を不思議そうに覗き込んだ一郎は、一見するだけならば誰もが胸ごと奪われそうな程洗練された美貌と、男性的なフェロモンがだだ漏れである。この容姿、この色気ならば自衛のためにここまでの超弩級Sになったのも頷けると思ってしまうほどのそれである。ただし近付けば棘所か釜に入れて真っ赤になった剣で体中突き刺される位、昨今では行きすぎている所はあるが。

「まあそう言うと思って、待ち合わせ、ここにしてあるから」
「え、「一郎!!」
 嬉々とした声に目を見開いた一郎は、その嫌な予感が的中していた。エレベーターから出てきた二つの影、先行している方は幸次郎の兄で一郎に想いを寄せ続けている幸一郎であった。

「次郎……」
「ごめん、兄さん。幸一郎さんがどうしても兄さんと遊びたいって言うから」
 頭を抱えた一郎は近付いてくる幸一郎を殺傷するかのように睨み付けた。
「一郎、今日も綺麗だな」
「安っぽい、暑苦しい、近付くな、ドM」
「そんなに警戒しなくても」
「警戒じゃなくて拒絶だ馬鹿野郎!」
 幸一郎は精悍な美丈夫であり、世の女性を虜にしてしまう程の容貌なのにも拘わらず、一郎にしか興味がないという変わった人間である。そのことによって一郎は女達の嫉みの目を向けられてきたが、それに関しては誰よりもサディスティックな一郎である。どんな事態にも百倍以上にして相手に返すので問題はなかった。二人の押収(というよりも暖簾に腕押しな幸一郎に、めげずに突っかかっていく一郎、という姿である)からそっと背を向けた次郎と幸次郎は非常階段への曲がり道を追って二人の様子をしばし覗いていた。

「幸一郎さんって、兄さんの攻撃を唯一受け流してそれでも兄さんが好きってんだから凄いよな」
「一郎さんも、兄貴も、二人でいると幼く見えるな」
 どちらが兄なのか分からなくなってしまうような状況で、愛おしい弟が消えた事実に一郎が気付く前に、次郎と幸次郎はその場を離れていった。もうしばらくは一郎の罵倒が止むことはないだろう。


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