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 高校の中盤、ヨーロッパで少しずつ知名度を上げていった不動の陣中見舞いにもいいと、佐久間は夏の長期休みにイタリアを中心に旅行をすることになった。イタリアを選んだのは無論、昨今その国が実力を見る見る伸ばしてきたのと、鬼道がイタリアの地でサッカーをすることを望んでいると小耳に挟んだからである。一人で外国を回る位の言語能力は帝国学園で既に叩き込まれていたが、まさか本当に一人だけで回ることもできないので、どうしようかと考えていると、久々にフィディオから手紙が送られてきていた。

 フィディオとはメールアドレスではなく住所の交換をした。好きなときに返す、という条件の下始まった文通は何気なく今でも続いている。お互いマメな性格だったのだろう。フィディオはすでに国の代表選手の一員になるべく、強化トレーニングを行っているらしい。国民の英雄たる彼の人気は凄まじく、ここ日本にもその名声は轟いている。

 夏の間にそちらに行こうと思う。どこか泊まるのにいい場所や、サッカー関連で見ておくといい施設などはないかと書いて送った手紙の返事は、すぐに送られてきた。下手をしたら不動のメールの返信よりも早いかもしれない。

 フィディオの手紙には是非おすすめしたいと住所が書いてあったが、それは手紙の送り先と全く同じものだった。行くからには交通費を考えてしばらくあちらに泊まるのが得策と考えている佐久間は、そんなに長い間世話になるわけにはいかないと思ったが、ツアーでない場合、自らがホテルに交渉のメールを出さねばならず、その時に発生する面倒事や長い注意文を訳すのにうんざりしていたので、最初の数日だけは、と考えてその提案に甘えることにした。

 途中で不動の家に行くもよし、ホテルを見つけるのもよし、そう行き当たりばったりなことを考えて準備を進めていると、早くも日本を発つ日を迎えてしまった。中学の時の修学旅行もヨーロッパへ行ったので、長時間のフライトもあまり苦ではなかった。だが前日あまり寝ないで過ごしたのに、飛行機の中で眠るのには少しばかり苦労した。

 最後に交わした手紙に書いてあったメールアドレスは携帯電話のアドレス帳に登録してある。どういうルートを使えばフィディオの家まで行けるかと考えながら、重いトランクを受け取って審査を通過し出口に向かうと、妙に辺りが騒々しい。首を傾げながらもアルファベットばかりが並んでいる広告や案内を読むのに時間をかけつつ、佐久間は唸ってしまった。

「佐久間!」
 その時、人だかりの中から救世主が現れた。フィディオである。なるほど、あれはフィディオを囲んだ一群だったのか。相変わらずの人気だ、と考えながら逃げ腰になっていたのを改める。それにしてもどうしてこんな所にいるのだろうか。来るなんて聞いていないのに。

「久しぶり!」
 抱き締められた途端、やはり逃げておけばよかった、と後悔をする。女たちの視線がひたすらに恐ろしかった。



「楽にしてね」
 そう言ってジュースを出すフィディオ。家の人はいなかった。家人は奇遇なことに日本に旅行に出ているらしい。完全に行き違った。仕方ないので土産を全てフィディオに渡す。日本料理でも振る舞おうかと思ったが、美味くできる自信もないし、そもそも環境やら水やらの問題が大きすぎる。持ってきた日本茶を美味しそうに飲んでいるフィディオにひとまず胸を撫で下ろして、佐久間はこれからのことを考えた。イタリア、と大胆明確な題を記してある旅行雑誌を開いて、付箋をつけたいくつかのページをフィディオに見せる。

「このホテル知ってるか?」
「うーん、まあね。でも佐久間と泊まるなら、もっと雰囲気のあるところがいいな」
「俺一人で泊まるんだよ」
「えっ?ここ気に入らなかった?」
「そうじゃあないが、ずっとお世話になるわけにもいかないだろう?」
「君さえよければいてほしいな。俺も家族がいなくて淋しいし。もちろん佐久間が嫌じゃなかったらだけど」
 そんなことを言われて辞退することもできず、結局佐久間は丸め込まれた。

「嬉しいな」
 また、君とこうして一緒にいられるなんて。そう言ったフィディオの手が佐久間の手を包み込む。成長期を迎えたらしいフィディオは益々男前かつ無意識の女誑しになったらしい。苦笑しながら緊張感を抱いた佐久間はその手を逃れることができなかった。

「佐久間は益々美人になったね」
「男、だけどな」
「確かめていい?」
 ソファの上、迫られて仰け反った佐久間はしまいに押し倒される形になる。何の冗談だと考えながらも、赤面するのをどうしようもなかった。遠い異国、フィディオの家の中、彼の匂いに包まれて、頭の中が浮き立っている。

「君は不用心だ」
 笑みを浮かべたフィディオの顔は大きく影っている。額の髪を上げられ、口付けられた佐久間は身を捩らせた。それでも、逃げるという考えが浮かばなかった。流暢で芸術的なフィディオの字を思い出しながら、その字を紡いだ指先が頬を撫でることに、恍惚とした溜息が漏れていた。言葉の裏、手紙の裏に隠されていた想いはもう、互いに暴かれていたのである。


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