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 彼はいつでも、手の届かない領域にふわりと浮遊しては涼しい顔で天を仰ぐのである。彼を引き合いに出して力が欲しいと願ったことはなかった。力があれど、彼の聖域とでもいうような世界に踏み入ることが叶わないと理解していたからかも知れない。ただ自分は、自分らしくもなく殊勝に、彼の帰る場所を温めることだけに専念するより他ない。それが最大限、彼を繋ぎ止める術なのだから。

 影山零治に支配された世宇子が新たに再スタートを切った当初、皆は薬の副作用に苦しめられることがあった。依存性を多少なりとも含んでいたらしい神のアクアを失って、途方に暮れる心が、そして無力に嘆くからだが、始終逃げという薬毒に救いの手を求めるのである。そんな中にあって、誰よりも実験体としての貢献を果たしていたアフロディは、比例して誰よりも強い苦しみを味わっていたはずである。だがしかし、そんなことを仲間たちの前にはお首にも出さなかった彼は真っ先に、その呪縛から解き放たれていた。最も深く堕ちた彼は、再び手が届かない領域まで羽ばたこうとしている。妬みではなく、焦燥感だけが体を支配するようになり、ようやく様々な制約から解放されてきた頃、同じラインに立ちながら周りを改革していく段になった頃、アフロディはまた遥か先に飛び上がっていた。

 かつての宿敵と行動を共にしながら、彼自身、満足のいくような仕事を終えたらしい。真っ白な病室に横たわる彼の様子を、自分は一生忘れることができないだろう。窓から射し込む穏やかな光が、キラキラとその金糸の髪を照らし、長い睫毛を天井に向けながら死んでいるように眠った彼の、病的なまでの美しさ。この世に存在するには余りにも不確かな、美の存在。縋るように手を伸ばせば、白いシーツに溶けていきそうな白皙の肌が自分の手を握りかえした。

「来てくれたんだね」
「……」
「嬉しいよ」
「……」
「ヘラ、ありがとう」

 いつもと多少異なる言葉遣いに目を細めながら、薄目から垣間見えるピジョンブラッドの色を眺め、唇を噛む。何よりも、満足げなアフロディの、達成感に共感することも、賞賛することもままならないのが悔しかった。

 何はともあれ、再び羽根を折られた彼は、この腕の中へかえってきたのである。
ただしそれは、刹那の幻であった。再び留守を宣言した彼は世宇子をあとにした。どんな大きな鳥かごにだって、彼は決して留まらない。

「皆に挨拶はしないのか」
「すぐに帰ってくるからね」
「薄情者め」
「そんな僕を見捨てないでくれる君たちだから、僕は薄情者でいられるのだろうね、感謝しているよ」

 引き留めることなどできようはずがない。少し前まで過ごしてきた日々が鮮明に甦る。それは如何ともし難い虚しさが募る世界であった。本当は、一秒だってこの手を離れて欲しくはない。自分がただの止まり木であると言うことを、あと何回思い知れば心の安定は訪れるのだろうか。真っ直ぐ伸びた幹は地面から離れることなく、景色に縛り付けられている。果てしない蒼穹には届くことがない手をかざしながら、その姿を渇望するのである。

 アフロディは相変わらず、それはもう見事な微笑を浮かべつつ、片手を差し出した。それと顔を交互に見直しながら、考えあぐねる。痺れを切らしたらしい彼は、こちらの手を迎えに手を握る。

「僕はいつでも、君の所へかえってくるからさ、そんな顔をしないでくれ」
 頬を、白い肌が通るのを感じながら、ぼんやりとした頭の中は悲鳴を上げたように強張っていく。
「僕の居場所は君なんだから」
 そんな甘い毒を吐いて彼は去っていく。行き先は知らない。敢えて聞かなかったのは自分なりの矜持だったのかも知れない。それに、大凡の予想はついた。

「雷門中」
 彼らの介入がアフロディを変えた。というよりもアフロディの本質を引き出したと言った方が正しいのだろう。変化の乏しい日常に再び戻った俺は、今までの、彼がいた日々こそが幻だったのではないかとさえ思えてならなくなる。優しくて慈悲深く、強かで美しい、それでも、誰よりも残酷な彼を恋人と呼ぶことに、俺はいつまで経っても慣れることはない。


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